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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥槙荘の階段には増えてはならない段がある
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奥槙荘の階段には増えてはならない段がある④

 俺は紗代から視線を外して、襖の方を見た。


 襖の向こうの足音は、もう聞こえない。代わりに、廊下を挟んだ向かい側の部屋から、低い男の声が漏れ始めた。富江が、雅志か貞次に何かを伝えている。声は小さく、内容は聞き取れないが、リズムから察するに、こちらの動きを共有して、対応を相談している。


 俺は氷見に向かって短く頷いた。


 氷見も頷き返してから、紗代に向き直った。


「紗代さん。一つだけ確認させてください。紗代さんの意思で、ここから出ることを決めていただけますか」


「決めて、いいんですか」


「ご本人の意思が必要です」


 紗代は膝の上の自分の手を見て、ゆっくり頷いた。


「決めます。出ます」


 声は小さかったが、迷いはなかった。




 その瞬間、部屋の空気が、ずれた。


 壁紙の柄が、ほんのわずかに歪んで見えた。畳の目が、一拍だけ、波打つ動きを見せた。窓の外の、廊下に面した障子の向こうの光の入り方が、不自然に均一になった。


 部屋全体が、紗代の意思の表明に反応していた。


「来ます」


 俺は短く言った。


 襖が、外から開けられた。


 立っていたのは、男だった。


 奥山雅志、三十四歳。婿養子。


 黒い長袖のシャツに、薄手のスラックス。年齢の割に肌の白い、屋内に長く居る男の顔だった。表情は穏やかで、目は俺と氷見を順に見て、最後に紗代の顔を見た。


「紗代」


 声は柔らかかった。


「まだ話、長くなりそうかな」


「……」


 紗代は答えなかった。


「お母さんが、心配してるよ。紗代の体調が、今日は良くないって言ってたから」


 雅志は紗代の隣の畳に、座らずに膝をついた。膝のつき方が、客に対して位置を低くする動作のようでいて、紗代の体を自分の側から囲む配置になっていた。


 俺は氷見と一度視線を合わせた。


 氷見が一歩前に出た。


「奥山雅志さんですね」


「はい」


「紗代さんから、ご意思を確認させていただきました。本日中に、紗代さんを一度、別の場所にお移しすることになります」


「移す、というのは」


「市の保健福祉に関する判断です。詳細はお話しできません」


「いや、待ってください」


 雅志の声は、柔らかさを保ったままだった。


「紗代は、家族と一緒にいたいと言っているはずです。今朝も、昼も、家を出ようとしたのはちょっとした気の迷いです。本人だって、本当は、出たいわけじゃないんです」


「ご本人にお伺いして、ご本人の口から、出たいと、お返事をいただきました」


「それは、緒方さんと氷見さんの前だから、そう言ったんですよ。ね、紗代」


 雅志は紗代に向き直って、優しく笑った。


 紗代は俯いていた。


「紗代」


 雅志がもう一度名前を呼んだ。


 その時、廊下の奥から、もう一人の足音が来た。


 襖の隙間から、白髪の男が顔を出した。


 奥山貞次、七十五歳。前主人。


 貞次は俺たちを見ても、表情を一切動かさなかった。視線が紗代の上で一瞬だけ止まり、それからまた紗代を素通りして、雅志の方に移った。


「雅志」


「はい、お父さん」


「お客さんに、お引き取りいただきなさい。今日は、ここまでで」


 貞次の声には、抑揚がほとんどなかった。


 冷淡、という言葉が頭の中で浮かんで消えた。


 貞次にとって、紗代は、出ようと出まいと、関心の対象ではないのかもしれない。家にいれば家の中の景色の一部、出ていけば家の中の景色から消える、それだけ。義母の富江のように紗代を「家のために残った娘」として執着するのではなく、もっと薄い、家族関係の輪郭を維持することそのものへの惰性。


 関係性の閉塞、というのは、必ずしも、誰かが強く誰かを縛っている形ではない。誰も、強く縛らないのに、関係そのものが固まっている形もある。


 俺は短く息を吐いた。


「氷見」


「はい」


「紗代さんを、外に連れ出す」


「了解しました」


 氷見はそれだけ返して、立ち上がった。


 雅志が、紗代の腕に手をかけた。


「紗代、駄目だ。お父さんが、いいって言うまで、ここにいなさい」


 声は柔らかかったが、腕の力は柔らかくなかった。


 俺は雅志の手首を見た。


 手首の血流の流れがほんの少しだけ、いつもよりも速い。雅志は意識していないかもしれないが、手首から先の握力が、紗代を物理的に引き留めるために、無意識に高められている。


 ベクトル操作には、こういう用途もある。


 俺は指先で空気を弾いた。


 雅志の手首の運動量が、内側から外側にわずかに反転した。雅志は自分の意思とは関係なく、紗代の腕から手を離した。


「あ……?」


 雅志が自分の手の平を見た。


 俺はその間に、紗代の隣にしゃがんで、手を差し出した。


「立てますか」


「……はい」


 紗代は俺の手を取って、膝立ちになった。


 部屋の空気の、節がはっきりと形を取り始めた。

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