奥槙荘の階段には増えてはならない段がある③
階段は確かに急だった。
ただし、急であること自体は、奥山富江の言ったとおりだった。一段一段の高さも、踏み板の幅も、現役時代のままなのだろう。問題は段数の方だった。
俺は登りながら、頭の中で段数を数えていた。
一、二、三、四、五。
六段目に足をかけた時、視界の上の方にある二階の踊り場が、わずかに後退した。
「七、八」
声には出さなかった。
九、十、十一。十一段目を踏んだ時、踊り場まで、まだ三段ある気がした。
十二、十三、十四。
十四段目で、踊り場の床に足が着いた。
俺は短く息を吐いた。
現役時代の階段の段数を、氷見が事前に資料で渡してくれていた。十二段、と書いてあった。
二段、伸びていた。
「氷見」
小声で呼んだ。
「気づきました」
氷見も俺の二段下で、同じく呼吸を整えていた。
「現象は、本人の感覚だけではなく、物理的な変動を含むようです」
「だな」
俺はそれだけ返した。
富江が踊り場の先で振り返って、不思議そうに、両手を膝の前で重ねていた。
「お疲れになりましたか。年寄りには、ちょうどいい運動なのですけれど」
「いえ、大丈夫です」
氷見が短く返した。
富江は満足そうに頷いて、廊下の奥の襖を開けた。
六畳の和室に、女が一人座っていた。
奥山紗代、三十二歳。
着ているのは普通のセーターと膝丈のスカート。膝の上で両手を重ねている。髪は肩の少し下まで、特別な手入れの形跡はなく、ただ伸ばしているという感じだった。顔色が、屋内に長く居る人間特有の白さで、頬の皮膚に赤みがほとんどない。
「紗代、こちらの方が、お役所からいらっしゃったのよ」
富江が紗代の隣に座って、紗代の肩に手を置いた。
紗代は俺と氷見を順に見て、それから視線を畳に落とした。
「……はい」
声が小さかった。
「紗代さんに、いくつかお伺いしたいことがあります」
氷見が、富江ではなく、紗代の方を見て言った。
「紗代さんの口から、直接、お話を聞かせていただきたいのです。お母様には、申し訳ありませんが、外していただけますか」
「あら」
富江の手が、紗代の肩の上で、一瞬だけ強くなった。
「紗代は、人見知りで、口下手なんです。私が一緒にいた方が、紗代も話しやすいと思いますわ」
「規定で、本人のみの聴取が必要なケースなんです。十分程度で結構ですので」
氷見の声は、いつもの効率重視の調子だった。
富江は笑顔のまま、紗代の肩から手を外して、立ち上がった。立ち上がる動作の間に、俺と氷見を一度ずつ、視線で値踏みした。値踏みの仕方が、客を見送る女将の目ではなく、家から出て行こうとする者を見定める家長の目だった。
富江が部屋を出ていって、襖が閉まった。
襖の向こうで、足音が遠ざかる。
ただし、本当に遠ざかったかは、わからない。階段の段数が伸びる空間で、足音だけ聞いて距離を測るのは無意味だった。
氷見は襖の方を一度だけ見て、それから紗代に向き直った。
「紗代さん」
「はい」
「今日の午前と午後、外に出ようとされたそうですね」
紗代の肩が、ぴくり、と動いた。
「はい」
「どこへ、行こうとされましたか」
「市役所、です」
「目的は」
「……戸籍を、見たくて」
紗代の声が少しだけ低くなった。
「姉の」
俺は氷見と一度視線を合わせた。氷見は紗代の前で姿勢を正したまま、続きを促す沈黙を作っていた。
「姉が、十二年前に失踪して。それで、ずっと戸籍上は、生きていることになっています。父も母も、姉のことは、もう家の中で話さないんです。話さないことに、なっているんです。私は、姉の戸籍を見て、姉が本当に、まだ生きていることになっているのか、確かめたかったんです」
紗代の言葉の中に、読点が増えていく。語尾が震えているわけではない。ただ、一語ずつ、自分で確認しないと出せない、という感じだった。
「家族には、その意思を、伝えましたか」
「伝えていません」
「なぜですか」
「……伝えたら、出してもらえないと、思ったので」
俺は畳に視線を落とした。
今日の午前と午後の二回、紗代は家族に何も言わずに、玄関へ向かった。家族には言わずに、家を出ようとした。家族は、紗代が出ようとしたことを、玄関の引き戸と、廊下の長さと、階段の段数で察知した。家全体が、紗代が出ることを、阻止した。
紗代は、家族に意思を伝えなかった。家族は、紗代の意思を、空間で読み取った。
関係性の閉塞、というやつの、典型的な構造だった。
俺は顔を上げて、紗代を見た。
「紗代さん」
「はい」
「あんた、ここから、出たいですか」
紗代の目が初めて、俺をまっすぐ見た。
「……はい」
その一言は、迷わずに出た。




