奥槙荘の階段には増えてはならない段がある②
槙ヶ崎の旧温泉郷は、山際の傾斜地にあった。
昔は十数軒の宿が並んでいたらしい。今は半数が廃業し、半数が看板だけ残して経営を細々と続けている。バスは一日に三本しか通らない。氷見が手配した黒い乗用車が、坂道を一定の速度で上っていく。
助手席で、俺は窓の外を見ていた。
道の両側に、廃業した宿の建物が並んでいる。看板が外れて錆びた鉄骨だけ残っているもの、雨戸が閉め切られたまま蔦が這っているもの、植え込みが伸び放題で道に枝を出しているもの。それぞれの廃業の年代が違う。古いものは三十年前、新しいものは今年。一つの集落がゆっくり、しかし確実に縮んでいる景色だった。
「奥槙荘は、この通りで一番奥です」
運転席の氷見が言った。氷見が運転までするのは珍しかった。
「組織のドライバーは」
「本日は手配が間に合いませんでした。観測網の異変通知から、三時間以内に現場入りする必要があるため、私が運転します」
氷見はそう返した。
車は集落の奥で停まった。
道の突き当たりに、二階建ての和風建築が建っている。屋根瓦は黒いが、所々に苔が生えている。玄関の引き戸の上に「奥槙荘」と墨書された木の看板が掛かっていた。文字は消えかかっているが、何度か塗り直された痕跡がある。
俺は車を降りて、建物を見上げた。
二階の窓が二つ。両方ともカーテンが閉まっている。一階の玄関の脇に小さな格子窓があり、こちらだけは中の灯りが透けて見えた。
「住居としては、本館の一階奥と二階を使っているそうです」
氷見が後ろから言った。
「本館の他の部屋は」
「客室として残っていますが、廃業以降、清掃以外で使われていません」
俺は玄関の前に立った。
空気が、薄く重い。
重さの内訳がすぐには言葉にならなかった。湿気でも、温度でも、匂いでもない。建物の表面と、敷地の境界線の上に、何かが薄く張っている。氷見の方を見ると、氷見も気づいているらしく、敷地の境界線の手前で立ち止まっていた。
「結界、というほどではないですね」
「ない。けど、ある」
俺はそう答えた。
「家族の意思の総和が、空間に染みついてる、って感じか」
「同感です」
氷見は短く頷いた。
俺は深呼吸を一つしてから、敷地の中に踏み込んだ。
踏み込んだ瞬間、足の裏に、ごく微弱な抵抗があった。地面の上に薄い膜が一枚張ってあって、それを破る感触に近い。膜は俺の足を一度だけ押し戻そうとしたが、すぐに諦めて引いた。氷見が後ろから入ってきた時の感触も、おそらく同じだった。
「外から入る分には、軽い抵抗で済むみたいだな」
「出る方向では、強くなるのですね」
氷見は冷静に言った。
玄関の引き戸の前に立った。
戸の格子の奥で、すぐに人影が動いた。チェーンを外す音がして、戸がゆっくり横に開いた。
最初に出てきたのは、白髪を後ろで結った女だった。
奥山富江、七十三歳。前女将。
「いらっしゃいませ」
声の調子が、現役の女将のままだった。語尾が柔らかく、目尻に皺が寄って、客を迎える顔の作り方が、十二年休んでも変わっていない。
「ご連絡をいただきました、市の方ですね」
氷見が一歩前に出た。
「そう伺っております。本日はお忙しい中、ありがとうございます」
氷見は事前に調整した名目を使っていた。市の保健福祉課からの定期訪問、という体裁だ。組織の観測網が地域包括支援センター経由で異変を拾った際に、自然に連動できる名目を選んだらしい。
「中へどうぞ。お茶をお出しいたします」
富江はそう言って、戸を大きく開けた。
玄関の三和土に、男物の革靴が一足、几帳面に揃えて置かれている。その奥の框に、五十代以上の手で揃えたとは思えない、若い男物のスニーカーが乱れて置かれていた。
俺は靴を脱ぎながら、空気の重さをもう一度確認した。
外より、少し、増えている。
建物の中の方が、外の薄い膜よりも、節の密度が高い。
俺は氷見と一度視線を合わせた。氷見も気づいたようで、顎を一度だけ引いた。
「奥山紗代さんは、ご在宅ですか」
氷見が玄関で訊いた。
「はい。今、二階で休んでおります。呼んで参りますね」
「いえ、こちらから上がらせていただいてもよろしいでしょうか。お伺いしたいのは紗代さんご本人のお話ですので」
「あら、それは……」
富江の顔の、目尻の皺が一瞬固くなった。
「紗代は、今日は調子が、よくないんです。少し、お待ちいただいた方が」
「お時間は取らせません」
氷見が短く返した。
富江は一拍、黙った。それから、笑顔の作り方を一段薄く直して、奥の階段の方に手を向けた。
「では、ご案内いたします。階段が急なので、お足元にお気をつけください」
俺は靴を揃えて、上がり框に足をかけた。
空気の中の節の密度が、また一段増えた気がした。




