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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥槙荘の階段には増えてはならない段がある
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29/58

奥槙荘の階段には増えてはならない段がある①

 夕方の喫茶店は静かだった。


 常連の老人が窓際の席で文庫本のページを繰っている。マスターはカウンターの奥でグラスを拭いている。俺は店内のテーブルを順番に拭いていく作業の途中だった。


 四つ目のテーブルを拭き終わったところで、入り口のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 マスターの声がいつもの調子で抑えられている。


 俺はテーブルから顔を上げた。


 黒髪のロングヘアが、入り口の光を背負って立っていた。


「失礼します。緒方さんはいらっしゃいますか」


 氷見透華だった。


 制服系の濃紺のワンピースに、見慣れない薄手のコートを羽織っている。槙ヶ崎の山際は今日の予報で気温が一段下がるはずで、コートの厚みはその予報に合わせて選ばれていた。


「いらっしゃいますね」


 俺は布巾を片手に、自分で自分を指差した。


 氷見は表情を動かさずに頷いた。


「お忙しいところ恐れ入ります。お時間をいただけますか」


「いいですよ。マスター、奥のテーブル借ります」


「はい、どうぞ」


 マスターは氷見に短く一礼してから、グラスを拭く手を再開した。


 俺は布巾を畳んで、店の奥のテーブルに氷見を案内した。窓から離れた席で、常連の老人の耳には届かない位置にある。氷見はそれを確認するように一度入り口の方を見てから、椅子に腰を下ろした。




 氷見はテーブルの上に、薄い書類入れを置いた。


「依頼があります」


 書類入れの口を開ける手つきが、いつもより一拍だけ慎重だった。


「槙ヶ崎市の旧温泉郷、奥槙荘という旅館の本館です。十二年前に廃業しました。建物は現在も残っていて、廃業後も家族四名が居住しています」


 書類が一枚、テーブルの上に滑ってきた。


 俺はそれを横から覗き込む。地番、建物の見取り図、家族構成の一覧。氷見の手書きではなく、印字された資料だった。


「家族構成は、義父・奥山貞次、七十五歳。義母・奥山富江、七十三歳。次女・奥山紗代、三十二歳。婿養子・奥山雅志、三十四歳。以上の四名です」


「次女、ってことは、長女がいるんですか」


「いました」


 氷見は一拍だけ間を置いた。


「長女・奥山千里、当時二十二歳。十二年前、廃業の直前に失踪しています。所在は今も不明です」


「失踪、ね」


 俺は資料を指でなぞった。


「本件の異変は、次女の奥山紗代さんに関するものです」


 氷見は次の書類を取り出した。


「本日の午前十時十六分、奥山紗代さんが市役所への外出を試みました。徒歩で旅館の玄関を出ようとした直後、玄関の引き戸が開かなくなりました。十時二十二分、家族が異常を察知。婿の奥山雅志さんが玄関を確認しに行ったところ、引き戸は通常通り開きました」


「ふうん」


「同日の午後一時四十三分、奥山紗代さんが再度の外出を試みました。今度は廊下の長さが伸びました。本人の感覚で、玄関までの距離が、いつもの三倍に達したそうです。その時点で本人が引き返したため、廊下の長さは元に戻りました」


「物理的に伸びてんのか、本人の感覚だけか、判別ついてます?」


「ついていません。観測網が拾ったのは現象の発生時刻と継続時間のみです。物理的計測は未実施です」


 氷見はそう言ってから、視線を一段下げた。


「ただ。本人の感覚だけだとしても、本人が外出できないという事実は同じです」


「それは、そうだ」


 俺はそう返した。




 氷見は三枚目の書類を出した。


 地域の保健師が記録した家族の聞き取り、過去の旅館経営時の従業員名簿、廃業届の写し、そういったものが並んでいた。


「観測網は、奥山紗代さん本人ではなく、地域包括支援センターの定期訪問記録から異常を拾いました。半年前から、紗代さんの外出回数が週三回から週ゼロに移行しています。買い物・通院・近所付き合い、すべて義母の奥山富江さんが代行する形に切り替わっています」


「義母は、本人を外に出したくないってことか」


「そう推察します」


「本人は、出たがってる」


「はい。本日の二回の外出未遂が、その意思の表明です」


 俺は資料から顔を上げた。


 氷見の目は、いつものように直線的に俺を見ていた。ただ、目の縁がいつもよりわずかに引き締まっている気がする。


「行きます」


 俺はそう言って、椅子から立ち上がった。


「今からですか」


「家族四人が、本人を外に出さない方向で動いてんでしょ。明日になれば、防衛が一段固くなる。今夜のうちに、最低でも本人と接触したい」


「同行します」


 氷見はそう言って、コートの襟元を直した。


「現場同行は、私が担当します。事後処理に医療顧問と所轄の連携が必要になる可能性があるため、組織側のリソースを当てやすい配置にしてあります」


「了解」


 俺はカウンターに向かった。


「マスター、ちょっと出てきます」


「はい、行ってらっしゃい」


 マスターはグラスを拭く手を止めずに、いつもの声で返した。


 俺はエプロンを外して、コート掛けからジャケットを取った。氷見はテーブルの上の書類を畳んで書類入れに戻し、立ち上がった。


 常連の老人は、文庫本のページを繰る音を一度だけ立てた。それ以外、店の中は変わらなかった。

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