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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
アーケードの二階には終わらない朝が積もっている
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アーケードの二階には終わらない朝が積もっている⑦

 雨のアーケードを、駅と反対側に歩いた。


 商店街は午後の三時前で、客の入りが少しだけ戻ってきていた。和菓子屋の店主が店先で、雨に濡れた看板を布で拭いていた。布団屋のショーウィンドウの中の、季節外れの羽毛布団の上に、薄い埃が積もっていた。文房具屋の前を、小学生が二人、傘を畳んで走り抜けた。


 雨の音は、屋根の上で柔らかく潰れていた。さっきよりも、薄く。


 自分の店の前まで来て、脇のドアから店の中に入った。


 厨房の隅にエプロンを取りに行こうとして、マスターと目が合った。


「お帰り」


「ただいま戻りました」


 マスターはコーヒーを淹れていた手を、止めなかった。湯気がゆっくり立ち上って、店の天井の方に消えていった。


「お疲れ」


「ええ」


 マスターはそれだけ言って、淹れたばかりのコーヒーを、カウンターの俺の前にすっと置いた。注文した覚えはなかった。注文しなくても、こういう日はコーヒーが出てくる。


「マスター、これ」


「いいよ、それ」


 マスターは布巾を肩に掛けて、別の客のテーブルへ注文を取りに行った。窓際の席の常連の老人は、相変わらず文庫本を開いたまま、顔を上げていなかった。今日も、明日も、たぶん、文庫本を開いたまま顔を上げない。


 カウンターの席に座って、コーヒーを一口、含んだ。


 苦さが舌の奥に薄く広がった。喉を通って、胃の上の方に、温かさがゆっくり降りていった。一口目で、肩の奥に残っていた重さが、半分くらいほどけた。詠唱と有機物操作を連続で打った余波の痺れが、コーヒーの温かさに撫でられて、薄まっていく。


 二口目を飲むと、最初より味の輪郭がはっきりしていた。


 淀みの種は、必ずしも誰かの悪意から始まるわけではない。むしろ、誰かの誠実さから始まることの方が、多いのかもしれない。誠実さが十年積層して、本人を逆に動かす側に回る。それを剪定する。気持ちのいい仕事ではない。けれど、放っておけば、誠実さの方が本人を削っていく。誠実さに削られて消えるのは、ふみえ本人だ。それは、たぶん、ご主人も望まない。


 だから剪定した。剪定する側の都合で剪定したわけではなくて、剪定されない側が削られないように、剪定した。建前と本音が一致する珍しい型の仕事だった。


 ふみえの十年は、ふみえのものだ。それは消されるべきではなかった。彼女がご主人を偲ぶために十年掛けて積み上げた九分間は、彼女自身の十年だった。十年は彼女のものだ。


 九分間の外側の二十三時間五十一分も、ふみえのものだ。それは九分間に吸われるべきではなかった。だから境界を引き直した。それだけのことだ。


 窓の外、アーケードの天井の雨脚が、もう、止んでいた。


 屋根の隙間から、雨上がりの薄い光が、商店街のタイルの上に斜めに差していた。タイルの艶が所々で、雨の名残をゆっくり乾かしていった。さっきまで濡れていた布団屋のショーウィンドウのガラスにも、薄く乾いた斑が浮いていた。


 明日の朝、五時十六分に、藤倉ふみえはいつも通り起きるだろう。五時十八分に窓を開けて、五時二十分にお湯を沸かして、五時二十三分にお仏壇に水を上げて、五時二十五分にお経を一節、唱えるだろう。


 その後、五時三十分に新聞を取りに、外階段を降りて、雨上がりのアーケードを少しだけ歩くだろう。アーケードの中ほどの植木鉢に、自分で水をやるかもしれない。やらないかもしれない。どちらでも、それは彼女が決めることだ。


 俺はその時、まだ寝ているはずで、彼女のことは知らない。彼女も、俺のことは苗字しか覚えていない。それでいい。


 北の空に、雲の切れ間から、丸い光がぼんやりと見えた。


 動かない。消えない。形も変わらない。


あの円は今日も動かない。動かないまま、商店街のアーケードの隙間から、こちらを観ている。観ているだけで、介入はしない。介入するために、俺たちのような役回りが、地上にいる。


 コーヒーを三口目、飲んだ。


 三口目はもう、最初の熱さが抜けていて、苦味と酸味のバランスが落ち着いていた。コーヒーが冷めるまで、というのは、たぶん、こういう時間の長さのことを言うのだろう。剪定に出かけて、戻って来て、コーヒーを淹れてもらって、それを飲み終わるまで。冷めかけたコーヒーには、温かいコーヒーには出ていない味の輪郭が、薄く浮かんでいる。


 窓の外、商店街のタイルが、雨上がりの光をゆっくり乾かしていた。


 布団屋の店主が、ショーウィンドウの外側を布で拭き始めていた。文房具屋の小学生は、もういない。和菓子屋の看板は、布で拭かれて、看板の文字がさっきよりはっきり読めるようになっていた。商店街は、雨の前の温度に戻りつつあった。


 藤倉ふみえは明日も五時十六分に起きる。


 起きて、五時二十五分まで、亡くなった旦那の習慣を反復する。それから、五時三十分に新聞を取りに、外階段を降りて、雨上がりかもしれないアーケードを少しだけ歩く。植木鉢に水をやるかもしれないし、やらないかもしれない。それは彼女が決めることだ。


 俺はその時間、まだ寝ている。彼女のことは知らないし、彼女の朝を見ることもない。それで構わない。剪定する側が、剪定された後の日常まで監視するのは、剪定する側の越権だ。九分間は彼女のものだ。九分間の外側も彼女のものだ。俺の役回りは、境界を引き直すまでで終わる。


 カップの底に、コーヒーが一口分、残っていた。


 最後の一口を、ゆっくり飲んだ。


 喉を通って、胃の上の方に、最後の温かさが落ちていった。それで、コーヒーは冷めた。


 肩の奥の重さが、コーヒーと一緒に、薄まっていた。


 マスターはカウンターの内側で、別の客のカップを拭いていた。窓際の老人は、文庫本を開いたまま、相変わらず顔を上げない。誰も、俺が今日どこへ行って何をしてきたかを、訊かない。それが、この店のいいところだった。


 立ち上がって、カウンターの中に戻った。


 エプロンを着けて、マスターと並んで、夕方からの客のための準備を始めた。

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