アーケードの二階には終わらない朝が積もっている⑥
ふみえは、台所で、急須に湯を注いでいた。湯気が、ゆっくりと立ち上って、台所の小窓から漏れる雨明かりに、薄く溶けていった。手の動きに、迷いも、引っ掛かりもなかった。十年、毎朝ご主人の習慣を反復してきた手は、それ自体が淀みではなく、ふみえの体に染みた、ふみえ自身の動きだったのだと、湯気越しに分かった。
「緒方さん、お砂糖は、いかがされますか」
「結構です、そのままで」
「あら、若い方は、皆さんそうでいらっしゃいますね」
ふみえは、軽く微笑んだ。茶請けに、固く小さな塩煎餅が一枚、皿に出された。
俺は、廊下と居間の境目あたりに、座った。仏間とは、間に襖を一枚挟んだ。襖の向こう、九分間の場所は、もう、こちらの居間まで侵食してこなかった。境界が、引き直されている。
「どうぞ」
「いただきます」
茶は、湯の温度がきちんと取られていて、香りが薄く立っていた。塩煎餅は、ふみえの手作りなのか、市販の物なのか、判別できない、控えめな塩気だった。
しばらく、二人とも、何も言わずに、茶を飲んだ。
時計の音が、居間の鴨居の上から、規則正しく、薄く響いていた。雨の音は、外で、商店街の屋根の上を、柔らかく潰していた。
「緒方さん」
「はい」
「不思議なことを、伺っても、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「先ほどから、わたくし、何か、肩のあたりが、少し、軽くなったような気が、しております。気のせい、かもしれませんけれど」
ふみえは、湯飲みを両手で包んだまま、視線を畳の縁の方に落として、ゆっくりと言葉を選んでいた。
「気のせい、ということでよろしいかと思います」
俺は、平らに、そう返した。
「気のせいですか」
「ええ。気のせい、というのは、本当の方が珍しいです。藤倉さんが、そう感じられたのなら、それは、藤倉さんが、ご自身で、気付かれたことだと思います」
ふみえは、しばらく、考えていた。それから、小さく、はい、と言った。
「明日の朝も、わたくし、いつも通り、起きると思います」
「はい」
「五時十六分に、起きて、五時二十五分まで、主人の習慣を、反復します」
「ええ」
「でも、五時二十五分の後は、新聞を、取りに、降りて、参ります」
ふみえの言葉は、平らだったけれど、九分間の外側へ、確かに、はみ出していた。彼女は、自分の意志で、自分の朝を、九分間の中に置き直して、それ以外の時間を、自分のものとして、取り返していた。
俺は、湯飲みを置いて、軽く頭を下げた。
「お邪魔しました」
「いえ、いえ、こちらこそ。お忙しいところを」
立ち上がると、ふみえも、すっと、立ち上がった。動作の途切れは、もう、なかった。三和土まで送ってくれて、男物の靴が並んで置かれているのを、ふみえはちらりと見て、それから、何も言わずに、引き戸を、開けてくれた。
「またお寄りください」
「機会がありましたら」
またお寄りくださいと言われたが、たぶん、寄らない。寄る理由が、もう、ない。それで、いい。
外階段を降りて、雨のアーケードに戻ると、七海が、向かいの薬局の軒先に座り込んで、こちらを見上げていた。膝を抱えて、雨を見ていた、という風情だった。
「終わった?」
「終わった」
「お婆ちゃん、どうだった」
「明日の朝の手順は、変わらない。けど、その後の時間が、戻った」
七海は、ふうん、と言って、小さく笑った。砕けた笑い方だった。それから、立ち上がりながら、続けた。
「タクマ君、お婆ちゃんに、名乗った?」
「苗字だけは。下の名は、言わなかった」
「なんで?」
「藤倉さんは、毎日、緒方、と思い出す必要は、ない。商店街の喫茶店で働いている、若い男、で、十分だ」
「ふうん」
七海は、肩から鞄を掛け直して、雨のアーケードの中ほどへ、歩き出した。俺もその後を、一歩遅れて追った。
「タクマ君、それ、ちょっと、優しい」
七海は、前を見たまま、そう言った。声音が、擬装の砕けた口語と、どこか古風な響きの中間あたりで、揺れた。
「そうか」
俺は、それだけ返した。




