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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
アーケードの二階には終わらない朝が積もっている
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アーケードの二階には終わらない朝が積もっている⑤

 ふみえに対しては、何も言わなかった。


 外側からの言葉は、彼女には届かない。届かないと知っているのに口にすると、彼女に、もう一つ、辛い記憶を上書きすることになる。それは避けたかった。


 俺は、襖の手前で、深く息を吸った。


 空間に節を作っているのは、毎朝の手順そのものだ。手順そのものは、悪くない。手順は、ふみえが、ご主人を偲ぶために選んだものだ。だから、消すのは違う。消せば、ふみえから、十年が消える。十年は、ふみえのものだ。


 縮める。手順の積層を、九分間の中だけに、戻す。九分間の外、五時二十五分以降の二十三時間五十一分を、ふみえに、返す。前に、長年積み重なって歪に拡張された異能の輪郭を、本来の境界に戻したことがあった。あの時の、怒りで膨らんだ輪郭を縮める作業と、構造としては同じだ。違うのは、こちらは哀惜で積層した手順だ、ということだけだ。


 俺は、襖の枠に手を掛けたまま、目を閉じた。


 仏間の空気を、内側から感じる。十年分の朝が、薄い層になって、空間の節に溜まっている。それが、九分間の外側へ、薄く滲み出している。滲み出した分を、九分間の内側に、戻す。それだけのことだ。


 声を低くする。詠唱の口調に切り替える。




「ここに在る力に告ぐ


 方向を持つ全ての流れに告ぐ


 積み重なった毎朝よ


 固まった九分間よ


 お前の境界を、お前自身の九分間に、戻せ


 ここに在る『朝が日中を呼び込む』という言葉を


 俺が、九分間の中に、収め直す」




 目を開けた。


 仏間の空気が、一瞬、薄く揺れた。視覚的には、線香の灰が、ほんの僅か、横に流れただけだった。仏壇の脇の、ご主人の眼鏡が、十年前と同じ位置のまま、何も変わらず置かれていた。位置は、変わらない。ただ、空間の中で、その眼鏡が占めていた重さが、わずかに、軽くなった。日中の時間に対して、染み出していた分が、九分間の中に戻った。


 ふみえは、仏壇の前に座ったまま、静かに、目を瞬いた。膝に揃えた両手が、ゆっくりと、ほどけていった。


 ほどけた、と言う方が近い。固まっていたのではなく、自分でも気付かないうちに、九分間の手順の中に、両手が結び付けられていた。それが、解かれた。


「あら」


 ふみえは、自分の手を見て、それから、もう一度、仏壇を見た。


「あら、わたくし、今、何時、でしたかしら」


「午後の二時過ぎです」


「ええ。ええ、そうでした。お昼の後の、お茶を、飲んでいたところでした」


 ふみえの声に、薄い、しかし、確かな張りが戻った。湯飲みは、居間に置いてきたままだった。彼女は、それを取りに行こうとして、立ち上がりかけた。


 立ち上がれた。


 仏間の畳から、廊下の方へ、ふみえは、自分の足で、自分の意志で、移動した。九分間の外側で、彼女が、彼女自身として、動いた。


 俺は、廊下に下がって、襖を、軽く閉めた。


 仏間は、これで、毎朝の九分間だけのための場所に戻った。仏壇は仏壇のまま、線香は線香のまま、ご主人の眼鏡もそのままだ。けれど、それらが、日中の二十三時間五十一分まで侵食することは、もうない。明日の朝、五時十六分に、ふみえはまた起きるだろう。五時二十五分まで、いつもの手順を踏むだろう。それは、それで構わない。九分間は、彼女のものだ。


 ふみえは、居間で、湯飲みを取り直して、こちらに、振り向いた。


「緒方さん、と仰いました」


「はい」


「先ほど、お話を伺うと仰って、お入りになって、わたくし、ぼうっとしていて、ろくにお茶も淹れずに」


「いえ、お構いなく」


「いいえ、いけません」


 ふみえは、すっと、台所の方へ、足を向けた。何の引っ掛かりもなく、台所と、居間と、仏間の間を、自分のリズムで、移動した。彼女自身が、自分の家の中で、自分の足で動いている。


 その後ろ姿を見ながら、俺は、廊下に立ったまま、軽く息を吐いた。


 強い力ではなかった。物理的な戦闘もなかった。けれど、十年積層した手順を縮めて、九分間の中に戻すのは、神経を、通常の剪定よりも、いくつか余分に使った。「在る」ものを消すよりも、「在る」ものの境界を引き直す方が、力の使い方として、繊細さを要る。


 肩の奥が、薄く重い。


 窓の外、雨は、まだ続いていた。


 アーケードの天井に、薄く灰色を散らしたまま。

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