アーケードの二階には終わらない朝が積もっている④
ふみえは、湯飲みを包んだ両手を、ゆっくりと畳の上に下ろした。下ろせはした。下ろせるのに、なぜか、置きたいと思える場所が見つからないように、湯飲みは畳の上の、自分の膝のすぐ前に、置かれた。
「お仏壇、見せていただいても、いいですか」
俺は、声の温度を平らに保った。ふみえは、少しだけ間を置いて、ええ、と答えた。
「どうぞ。失礼ですが、その前に、お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「緒方、と申します」
「緒方さん。商店街の、どちら様で」
「中ほどの、喫茶店で、働かせていただいています」
嘘ではなかった。事実の半分だ。ふみえはうなずき、立ち上がろうとして、一度、膝を畳に押し付けた。立ち上がる動作が、わずかに、間延びした。
「足が、弱くなりました。ゆっくりで、申し訳ありません」
「いえ」
ふみえに合わせて、俺もゆっくりと立ち上がった。仏間までは、襖一枚分、二歩、三歩。ふみえが一歩進むごとに、空気の質が、薄く変わるのが分かった。境界線というほどの強さではない。けれど、確かに、その向こうは、十年同じ朝が積層した場所だった。
仏間は、四畳半。中央に、漆の塗られた仏壇。供物に、白い湯飲みに入った水が一つ、それから、線香が一本、燃え尽きた跡を残して、灰皿に立っていた。仏壇の脇に、男物の眼鏡が一つ、十年前のまま、置かれていた。
ふみえは、仏壇の前まで進んで、座った。座ろうとした、と言うべきかもしれない。膝が畳に着く瞬間、ふみえの体は、一度、ぴたりと止まった。座る、という動作の途中で、空間が、彼女の動きを呼び込んで、決まった位置に固定する気配があった。彼女自身、その固定に、もう抵抗していなかった。
「藤倉さん」
俺は、襖の手前に立ったまま、声を掛けた。仏間には、入らない方がいい、と直感が告げた。今、入れば、俺もまた、空間の手順に取り込まれる。
「はい」
「不躾なことを、伺います」
「ええ」
「ご主人を、偲んでおられるのは、毎朝、ここで、ですか」
「ええ」
「日中は」
ふみえは、しばらく、答えなかった。仏壇の前に座ったまま、両手を膝に揃えて、視線は、仏壇の写真の方に向けていた。返事がない時間が、空間の中に、薄く積もった。
「日中は、たぶん、わたくし、何もしていないのだと思います」
返事は、そう来た。ふみえの声は、責めるでも、嘆くでもなく、ただ、薄く事実を述べる温度だった。
「朝の九分間で、その日のわたくしが、ぜんぶ、終わってしまうのです。残りの時間は、わたくしが、わたくし自身を、待っている時間で。次の朝の九分間まで、待っている、それだけで」
「それで、何か、お辛いところは」
「辛い、というのとは、少し違います。辛いのなら、止めれば良い。止められないのではなく、止めても、わたくしには、何も残らないのです。主人を偲ぶ朝の、九分間以外に、わたくしには、もう、何も残っていないのです」
ふみえの声に、初めて、ほんの少しだけ、ひびが入った。彼女自身が一番、それを口にしてはいけないと思っていた言葉だった。けれど、口にしないでいると、毎朝の九分間が、また少しずつ、彼女自身を削る。
俺は、襖の手前で、しばらく、黙っていた。
ふみえに掛けるべき言葉を、探していた。けれど、ふみえに対して、お前の十年は無駄だった、とか、ご主人は、もう、いない、とか、そういう、外側からの言葉は、何の意味も持たないことが、分かっていた。
俺は、姿勢を変えずに、一言だけ、言った。
「藤倉さん」
「はい」
「ご主人は、毎朝、五時二十五分に、お経を一節、唱えていらした」
「ええ」
「その後、ご主人は、何をなさっていましたか」
ふみえは、こちらを振り返った。仏壇の前に座ったまま、ゆっくりと、首だけを巡らせた。瞳の奥に、いつの間にか、忘れていた像を呼び戻そうとする動きが、薄く滲んだ。
「五時三十分に、新聞を、取りに、降りて」
「降りて」
「アーケードを、少し、歩いて、戻って、それから、わたくしと、朝食を、摂っていました」
ふみえの言葉が、九分間の外側に、初めて、届いた。
俺は、襖の枠に、軽く手を掛けた。剪定の、対象が、見えた。




