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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
冷凍倉庫の温度には、十二年分の重さがある
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冷凍倉庫の温度には、十二年分の重さがある③

 ドアの向こうは、白かった。


 最初に視界に入ったのは、空気中に漂う細かな氷の結晶だった。本来、室内に漂うはずのない密度で、空気そのものが粉雪のように凝結している。蛍光灯は半分しか点いていない。残った半分の光だけで、結晶が一つ一つ反射して光って、視界全体が薄い銀色のヴェールを纏っているように見えた。


 冷気が、ドアの隙間から流れ出してきた。


 肺の中の空気が、一拍で冷やされた。喉の奥が痛む。指先の感覚が、手袋を通してでも一段鈍る。これは普通の冷凍倉庫の温度ではなかった。標準的な業務用冷凍倉庫はマイナス二十度前後で運用される。ここは、たぶん、それよりさらに十度から十五度低い。


 ドアの内側から、足音が一歩、近づいてきた。


 俺は無意識に身構えた。だが、足音はすぐに止まった。


「誰だ」


 奥から、男の声が聞こえた。


 くぐもった、しゃがれた声だった。怒りを抑えているのではなく、もう怒りそのものが声帯の振動になりすぎて、抑えるという機能を失っている、そういう響きだった。


「警察か。早かったな。誰が通報した」


 俺は答えなかった。代わりに、ドアを大きく開けて、中に踏み込んだ。


 倉庫の中は、想像していたより広かった。


 縦三十メートル、横十五メートル、天井までは六メートルほどある。中央に、加工用の作業台が一列並び、その奥に冷凍棚の枠組みが残っていた。冷凍棚はもう商品を入れていない。代わりに、その枠組みの一本の縦パイプに、一人の男が縛り付けられていた。


 被害者の早川。


 元東海水産の経営者だった男は、五十代半ばのスーツ姿のまま、両手を背中側でパイプに結束されていた。スーツは寒さで肩が波打ち、白い息が、口から細く漏れている。意識はある。だが、目は半ば閉じていて、瞼が重そうに上下している。低体温症の第二段階の典型的な兆候だった。


 その早川と俺の間に、もう一人の男が立っていた。


 藤代秀夫。


 五十四歳、と氷見が言っていた通りの年齢に見えた。作業着の上にダウンジャケットを羽織り、頭にはニット帽。素手だった。手だけが、外気から凍った肌のように白い。だが、それは寒さによる白さではなかった。彼自身が冷気を発生させているために、手のひらの温度だけが極端に低い、ということだった。


 藤代は、俺を見た。


「警察じゃないな、お前」


「違う」


「じゃあ、誰だ」


「依頼を受けて来た者だ。早川さんを返してもらう」


 藤代の表情が、わずかに歪んだ。怒りを上塗りした表情だった。


「依頼? こいつのか? こいつの会社の連中か?」


「違う」


「なら誰の」


「あんたが知らない側の組織だ」


 藤代は、低く笑った。笑い声に乾いた響きが混じった。


「異能持ちか、お前。よく見つけた。俺は、ここで誰にも見つからずにこいつを始末するつもりだった」


「始末、というのは」


「殺さない。死ぬほど寒い思いをさせて、こいつの再起の足を、永遠に折る」


 藤代の声に、明確な目的があった。彼は早川を殺すつもりはなかった。殺してしまえば、彼の十二年が報われない。早川を生かしたまま、二度と会社経営に戻れない身体にして、その上で自分の人生を一区切りつけるつもりだった。


 俺は短く頷いた。


「で、十二年かけて、その異能をそこまで伸ばしたわけか」


「分かるか、お前。俺は、冷蔵作業の補助しかできない男だった。それが恥ずかしくて、会社の中で誰にも言えなかった。倒産して職を失ってから、家族にも別れられて、この異能だけが残った。だったら、これを使うしかないだろう」


「あんたの怒りは、分かる」


 俺は、ジャケットの裾を軽く払った。


「だが、それでも、早川さんを返してもらう。これは依頼だ。俺の判断じゃない」


「お前の判断じゃない、で済ますなら、お前の方こそ、組織の駒だな」


「そうだ。駒だよ。あんたと違うのは、駒として動いてる自覚がある、ってだけだ」


 藤代は、ふっと、息を吐いた。白い息ではなかった。彼の口からは、もっと冷たい、白を通り越して半透明の蒸気が出ていた。


 その蒸気が、空気中で広がる速度で、俺との間合いに到達した。


 俺は、靴を一歩、後ろに引いた。


 藤代の異能は、空間温度を「下げて維持する」だけの能力ではない。範囲内の特定の方向に、冷気を「指向性を持って射出する」こともできるらしい。十二年で、能力の運用が高度化していた。


「悪いが、お前は今ここで、凍る」


 藤代の手が、俺の方に向けられた。


 手のひらから、白い半透明の蒸気が、まっすぐに俺の方に伸びてきた。


 俺は手袋をはめた左手で、その蒸気の先端を、横にずらすように軌道を切った。


 ベクトル操作。冷気そのものを止めることはできない。だが、冷気が運ぶ「方向」を、横にずらすことはできる。蒸気は俺の左肩のすぐ脇を通って、後ろの壁にぶつかり、壁の表面の塗装が、即座に霜で覆われた。


 藤代の表情が、一瞬、止まった。


「お前、何者だ」


「面倒くせえな、その質問」


 俺は、もう一歩、藤代の方に踏み込んだ。


 倉庫内の温度が、俺の周囲だけ、わずかに上がり始めた。完全に温めることはできないが、藤代の異能で下げられている空間に対して、俺の側からも別のベクトルを乗せて押し戻していた。


 藤代の手が、また、俺の方を向いた。


 今度は、両手だった。

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