冷凍倉庫の温度には、十二年分の重さがある②
凪浦市の駅は、ホームに降りた瞬間に空気が違った。
琴生市の内陸盆地と違って、凪浦は風に塩気が混じる。早朝に雨が降ったらしく、コンクリートのプラットフォームが薄く濡れていて、その湿気が塩を含んで肺に入ってきた。海まで二キロ、と看板が示している。港湾エリアまではバスで二十分の距離だ。
駅を出ると、平日の昼前だが人通りは少なかった。漁業の街として一時期栄えた凪浦市は、ここ十数年で水産業が縮小し、駅前の商業施設も半分は閉じている。シャッターが下りた商店街の歩道を歩きながら、氷見はバス停の方向を確認していた。
「七番乗り場、十分後発車。間に合います」
「了解」
俺と氷見は無言でバス停に向かった。途中、シャッターが下りた一軒の店の前を通り過ぎた。「東海水産株式会社 直売所」と書かれた看板だけが、色あせたまま残っている。看板の下に貼られた閉店通知は、十二年前の日付だった。
「これか」
「直売所跡。本社と工場は、港湾エリアの先にあります。倒産後、一部の建屋は別会社が買い取りましたが、冷凍倉庫だけは買い手がつかず、所有権は東海水産の清算人のもとにあります。事実上、誰も管理していません」
「不法占拠、ってのはそういうことか」
「藤代は鍵を持っています。元従業員ですから、当時の合鍵を捨てずに持っていました。所有権上は他人ですが、物理的には自由に出入りできます」
バス停に着くと、五分後にバスが来た。客は俺たちと、買い物帰りらしい老婦人が一人だけ。バスは港湾エリアに向けて、徐々に建物の少ない、倉庫と空き地ばかりの景色に入っていった。
俺は窓の外を見ながら、氷見にもうひとつ確認した。
「藤代の現在地、確実か」
「冷凍倉庫の中、と推定しています。被害者の早川は、倉庫の中央付近に拘束されている、と」
「拘束、というのは具体的に」
「両手両足を、倉庫内の作業用パイプに結束されている可能性が高いです。藤代は被害者の前に立ち、自身の異能で空間温度を下げ続けている。その状態が、現時点で約八時間継続しています」
氷見の口調に、特に感情の波はなかった。事実だけを、報告書を読み上げるような速度で並べた。
ただ、八時間、という言葉のときだけ、わずかに息継ぎが入った。
短い間だった。普通の人間なら気づかないような、半拍の間。氷見の口調はすぐに業務的な平坦さに戻った。
「八時間、被害者は意識保ってるのか」
「直近の観測で、意識は断続的に保たれています。低体温症の第二段階に入っている可能性は高いですが、まだ第三段階には進行していないと推定。だからこそ、四時間以内であれば救出可能と判断しています」
「医者の助言か」
「医療顧問の意見です。瞳の組織は、こうした案件の医学的判断のため、複数の協力医を抱えています」
俺は深く突っ込まなかった。瞳の側にどれだけの後方支援があるかは、俺の知るべき情報の範疇を超えている。氷見が口にした以上、それだけだ。
バスが港湾エリアの入り口で止まった。降りたのは俺たちだけだった。
降りた瞬間、空気が一段、湿った塩を含んだ。海までの距離が近い。倉庫群の間を抜ける風が、コンクリートと潮の匂いを混ぜ合わせていた。
歩いて七、八分。倉庫が並ぶ一画に入った。多くの倉庫は、別の会社の名前が掲げられて、現役で稼働している。フォークリフトが動き、トラックが出入りし、作業員の声が遠くに聞こえる。だが、ある一画から先、空気の質が変わった。
稼働音がない。
建物自体は同じように建っているのに、その建屋の中から、機械の音も人の声も、何も聞こえてこない。それが二棟、三棟と続いた先に、目的の冷凍倉庫があった。
地上三階建て、コンクリート造、外壁は色褪せた水色。「東海水産」の社章が、入り口の上に薄く残っている。シャッターが下りていて、人の出入りがある気配は表向きにはない。
その建屋の前で、俺は足を止めた。
異能の気配を、外からでも感じた。
空気の温度が、建物の前一メートルだけ、明らかに低い。秋の朝の外気温は十五度前後のはずだが、建物の前の空気は、零度近くまで下がっている。建屋の中から漏れ出る冷気が、外気と混ざらずにシャッターの隙間から滲み出している。
「氷見」
「はい」
「中に、藤代以外の人間、いるのか。被害者の他に」
「いません。藤代は単独犯です。仲間はいない」
「なら、楽だ」
俺はシャッターの脇の通用口に近づいた。鉄製のドア、把手付き、鍵穴がある。鍵は当然、藤代側で内側からかけているだろう。
「氷見、お前は外で待機しろ」
「はい。被害者の身柄確保後、所轄に通報します。所要時間は、私の判断で短縮します」
「分かった」
俺は通用口の前に立ち、深呼吸を一つした。手袋をはめた。指先の体温を保つためだった。
氷見が、俺の二歩後ろで立ち止まった。半歩後ろではなく、二歩後ろ。戦闘開始時の距離としては、彼女の判断で適切な間合いだった。
「緒方さん」
「ん」
「効率的に処理してください」
いつもの定型句だった。
ただ、その定型句のあとに、わずかな間を置いて、氷見はもう一言だけ付け加えた。
「無理は、しないでください」
俺は振り向かなかった。
振り向く必要のある言葉ではなかった。氷見の業務指示の中に、ほんの三、四%の揺らぎが混じった。それを業務的とも、それ以外とも取れる発話として処理するのが、俺と氷見の流儀だった。
通用口のドアノブに、手をかけた。
ドアノブが、すでに冷たかった。
俺は短く息を吐いて、力を込めた。鍵は内側からかかっているはずだが、ノブを掴んだ手のひらに、ベクトルの方向だけを乗せた。鍵の内部のシリンダーピンに、本来の鍵が押し込む方向と同じ向きに、運動量を加える。
かちり、と音が鳴った。
ドアが、開いた。




