冷凍倉庫の温度には、十二年分の重さがある①
その日、氷見透華は俺のアパートの前に立っていた。
午前十時。土曜の朝としてはやや早く、講義もバイトもない日にしては余計に早かった。インターホンが鳴って、覗き穴を見ると、黒髪ロングと無表情がカメラに収まっていて、それで俺はサンダルを履いて玄関を開けるしかなくなった。
「緒方さん、おはようございます」
「氷見、なんでアパートまで」
「喫茶店ではなく、ここに伺う必要がありました。本件は、移動を急ぐためです」
いつもの丁寧語、短文、主語省略しがちな話法。氷見はアパートの外廊下で姿勢を一切崩さず、清楚なお嬢様学校風の制服に薄手のロングコートを羽織って、両手の前で手帳らしきものを開いていた。秋の朝の風で、黒髪の毛先がわずかに揺れている。
「移動。どこまで」
「凪浦市」
俺は短く息を吐いた。沿岸の方か。琴生から電車で四十分、バス乗り換えで合計一時間といったところだ。
「事情、ここで聞いていいか」
「玄関先で十秒で要点を申し上げます。凪浦市の港湾、旧東海水産の冷凍倉庫。元従業員が、元経営者を倉庫内に軟禁しています。異能保有者です。冷凍倉庫内の温度を、外気からさらに下げて維持できるレベルに到達しています。被害者の生存可能時間、推定で残り四時間」
四時間。
俺は玄関の框で立ったまま、頭の中で凪浦までの所要時間を計算した。電車の本数、バスの接続、現地での移動。ぎりぎり間に合うか間に合わないかの線だった。
「面倒くせえな」
「面倒だと感じる気持ちは、整理が後回しでも構いません。準備に十分、移動に七十分、現地で着手して三十分以内に解決を目指す配分です。私が同行します」
「お前、現場まで来るのか」
「本件、被害者の身柄を確保した後、所轄の警察に引き渡す必要があります。法的処理の段取りは私が担当します。緒方さんは異能の無力化と被害者救出に専念してください」
完全に業務指示の口調だった。だが、二人並んで現場に乗り込むのは珍しい。普段は瞳のどちらかが依頼を持ち込み、現場までは『手』が単独行動するか、『瞳』が「観察担当」として後方で見守るだけだ。氷見が現場に同行し、しかも事後処理まで担当するというのは、それだけで案件の重さを示していた。
「分かった。十分、待ってくれ」
「はい」
氷見は一礼して、外廊下の手すりの脇で待機の姿勢に入った。手すりにも壁にも体を預けず、両手の前で手帳を閉じた状態で、ただ立つ。動かない。十分間、たぶん同じ姿勢のままだ。
俺は部屋に戻った。
ジーンズに着替え、長袖のシャツを羽織り、上から薄手のジャケットを着る。冷凍倉庫の中に入る前提なら、もう一段防寒が要る。クローゼットの奥からダウンベストを引っ張り出して、ジャケットの下に重ねた。財布、スマホ、それから玄関脇の小さな引き出しから、薄手の手袋を取り出す。手袋は普段使わないが、今日は要る。指先の感覚が鈍る環境では、有機物操作の精度が落ちる。指先の体温を保つ手袋は、その対策だった。
九分で支度を終えて、玄関を開けた。氷見はさっきと同じ姿勢で立っていた。本当に動いていないらしい。
「行こう」
「はい」
俺と氷見は外廊下を歩き、アパートの階段を下りた。下りる間も、氷見は俺の半歩後ろを保った。並んでも前に出ない、後ろに下がらない。半歩後ろという距離は、業務的にも、礼儀的にも、効率的な配置として彼女が選んだものだろう。
駅に向かう道すがら、氷見はもう少し詳しい背景を口頭で要約した。
「東海水産は十二年前に倒産しました。経営判断のミスにより資金繰りが悪化、従業員百二十名が職を失いました。当時の経営者は早川という男性で、現在五十四歳。倒産後、紆余曲折を経て、別の食品会社で再起しています」
「軟禁してる側は」
「藤代秀夫、五十四歳。当時の従業員。倒産時に最も声高に経営責任を追及した一人です。倒産後の十二年で、断続的に経済的困窮を経験しています。直近二年で、異能の行使範囲が拡張されたと、私の方の観測網で確認しています」
「拡張、というのは」
「冷凍補助の異能でした。冷蔵作業時に対象の温度を保つ程度の、業務補助レベルの能力です。それが、倉庫一つ分の空間温度を意図的に下げて維持できるレベルに到達しました」
俺は短く息を吐いた。
「異能って、そんなに伸びるもんなのか」
「能力そのものが伸びたというより、執着の対象が明確化したことで、能力の行使に上限を設けない使い方ができるようになった、というのが正確です」
氷見は少し言葉を選ぶ間を置いた。
「人間は、自分の能力を、自分で制限しているのが普通です。藤代は、その制限を、十二年かけて削った」
「執念深いな」
「執念深い、と表現するか、人生を一点に集約させた、と表現するかは、観測者次第です」
俺は短く返事をしなかった。
駅に着くと、ちょうど凪浦方面行きの電車が入線するところだった。氷見が無言で改札を通り、俺もそれに続いた。プラットフォームに立ったとき、北の空が、駅舎の屋根の隙間から細く見えた。月よりやや小さい白い円が、いつも通りそこにあった。
今日は、面倒くさいでは済まない案件だ、と俺は思った。




