廃工場には終わっていない仕事がある⑦
喫茶店に戻ったのは、七時を少し過ぎた頃だった。
バス停から商店街までバスで二十分、商店街から店まで歩いて五分、合計でちょうどそれくらいの時間。アーケードはまだ開いていて、ぽつぽつと人が歩いていた。夕方の活気というほどではないが、夜になりきる前の、ゆるやかな時間が流れていた。
扉を押して中に入ると、店内には常連が一人だけ残っていた。窓際の席で、文庫本を読んでいる老人。彼はいつもこの時間まで店にいる。たぶん家に居場所がないのか、あるいはこの店の空気が好きなのか、どちらかだろう。詮索したことはない。
ドアベルが鳴ると、老人がちらりと顔を上げた。俺だと分かると、また文庫本に視線を戻した。
「マスター、戻りました」
「お帰り」
マスターは、いつものように短く答えた。それ以上、何も聞かない。どこへ行っていたのか、何をしていたのか、何時まで戻れなかったのか、何も聞かない。彼の中ではもう答えが出ているのだろう。あるいは答えを必要としていないのか。
俺はカウンターの端の席に座った。客としてではなく、上がった後の従業員として、ここに座るのは時々ある。マスターはそれを許してくれている。
「コーヒー、いつもの」
「はい」
マスターはサイフォンに豆を入れて、湯を沸かし始めた。豆を挽く音、湯が沸騰する音、ガラスの中で液体が動く音。それを聞いていると、地下の機械の音が遠くなっていく感覚があった。
あの紡績機の音は、二十年前に止まったはずだったのに、二日前まで動いていた。今夜、また止まった。今度こそ、本当に止まった。
俺は数分間、何も考えずにカウンターに頬杖をついていた。マスターはコーヒーを淹れる作業を続けていた。窓際の老人は文庫本を読んでいた。誰も話さない。けれど沈黙が気まずいわけではない。それぞれが、それぞれのリズムで、同じ空間にいる。それだけだった。
数分後、マスターが俺の前にカップを置いた。
深い色のコーヒー、湯気、香り。
俺は両手でカップを持って、一口飲んだ。
熱かった。けれど苦味のあとに、いつもの甘い余韻があった。マスターのコーヒーは、いつも同じ味がする。豆も、淹れ方も、季節によって変えているはずなのに、味の印象は一定だった。それがこの店の安定感だった。
マスターは、カウンターの内側でグラスを拭いていた。
何も言わない。俺も何も言わない。窓際の老人が、文庫本のページをめくる音だけが、店内に響いていた。時計の秒針の音、エアコンの低い音、それくらい。マスターのグラスを拭く音は、布が滑らかに動く音で、ほとんど耳に入らない。
俺はカップを両手で持って、コーヒーが冷めるまで、ゆっくり飲んだ。
ゆっくり飲むうちに、地下の地面に染み込んでいた湿った感覚が、少しずつ抜けていった。コンクリートの臭い、汗の臭い、機械の振動、それらが順番に体から剥がれていく。コーヒーを飲むという行為は、たぶん、そういう機能を持っている。日常の行為を一つ一つ反復することで、非日常の残滓を流していく。
マスターはそれを知っていて、いつもコーヒーを淹れてくれているのかもしれない。あるいは知らずに、ただコーヒーを淹れているのかもしれない。どちらでもいい。結果として、俺は救われている。
飲み終わる頃、もう一度、外の空が少し見えた。
日はほとんど沈んでいた。空には、薄い藍色が広がり始めていた。アーケードの照明が点き始めて、夜の商店街が静かに目を覚ましていた。
北の方角、薄い藍色の中に、丸い光が見えた。
いつも、あそこにある。
子供の頃から、あれは空にあった。生まれた時からあった。たぶん人類は何百年も、あれを見上げて暮らしてきた。月よりやや小さい、けれど月並みの明るさで、北の空に常駐している光。
あれが何のためにあるのか、本当の意味は、ほとんどの人間は知らない。
俺は知っている。氷見も知っている。あの場所に取り込まれていた五人は、知らない。彼らはこれから目を覚まして、自分たちが二日間どこにいたのか、ぼんやりとした記憶のまま、それぞれの生活に戻る。それでいい。知らないでいられる方が、生きやすい。
俺は空のカップを置いて、立ち上がった。
リュックを背負い直す。
「マスター、ご馳走さま」
「はい」
マスターは短く答えて、空のカップを下げた。それだけだった。
俺は店を出て、自宅の方向に歩き出した。
夜の風が、商店街を抜けていった。アーケードの照明が、足元に長い影を作った。
明日は休みだった。何か食べて、眠るくらいしか予定はない。本でも読むかもしれない、読まないかもしれない。たぶん遅くまで眠って、昼過ぎに起きて、適当に過ごす。それで一日が終わる。
たぶん明日も、ああいう一日が続く。
たまにこういう日があって、それからまた、こういう日に戻る。
昨日と今日の間に廃工場があって、明日と明後日の間に何かがあるかもしれないし、何もないかもしれない。あっても、終わらせるだけだ。終わらせて、また喫茶店に戻ってきて、コーヒーを飲む。
それで、いいのだと思う。




