アーケードの二階には終わらない朝が積もっている①
午後の喫茶店は、客の入りが普段の六割で、外の天気がそうさせているのが分かるけだるさだった。
窓の外、アーケードの天井を斜めに走る雨脚が、灰色を薄く散らしている。十月の終わりの琴生市は、雨が一週間続くことが珍しくない。商店街は駅から歩いて十分、住宅地の入り口までを覆う細長い屋根の下に、古い店と新しい店が混在している通りで、俺の店もその中ほどに看板を出している。
俺の、というのは語弊がある。マスターの店だ。俺はカウンターの内側でグラスを拭いている、ただのバイトだ。
商店街は駅側から数えて、和菓子屋、布団屋、文房具屋、それから何の店だったか思い出せない閉まったシャッター、その先に喫茶店、というふうに並んでいる。客層も年齢層が高い。窓際の常連の老人は、文庫本を開いたまま顔を上げない。今日に限らずいつも、文庫本を開いたまま顔を上げない。
「タクマ君」
マスターが、皿を片付ける手を止めずに俺を呼んだ。
「はい」
「窓の方、知り合い」
言われて目を向けると、アーケードの柱に寄りかかって、こちらを見ている人物がいた。明るい色のセミロング、薄手のカーディガン、肩から斜めに掛けた小さな鞄。中性的というより、男か女かを問うこと自体が場違いに感じられる輪郭。視線が合うと、向こうは小さく手を振った。
七海。
「マスター、ちょっと出てきます」
「はい、行ってらっしゃい」
マスターの返事は、いつも通りで、いつも以上のことを聞いてこない。エプロンを外して厨房の隅に掛け、店の脇のドアからアーケードに出た。雨の音が屋根の上で柔らかく潰れている。
「やあ、タクマ君。雨だね」
「七海、何の用だ」
砕けた笑い方で、こちらの返事の素っ気なさをなんでもないことのように受け流す。それが擬装の上手さだということを、俺は知っている。
「面倒くさそうな話、持ってきたよ」
「面倒くさそう、っていう前置きから話す案件は、だいたい本当に面倒くさい」
「うん。でも、今日は近いよ」
「近い」
「歩いて三分」
七海はアーケードの先を視線で指した。中ほどから少し駅寄り、二階建ての古い雑居ビル。一階は閉まっているシャッターで、元小料理屋の看板が、字の半分が剥げかけのまま掛かっている。「小料理 ふみ」とまで読めて、その先が読めない。
「あの上、最上階」
「最上階って、二階じゃねえか」
「二階建てだから、二階が最上階で合ってるよ。タクマ君、揚げ足取り、上手だね」
「お前が言うな」
軽口の往復で、雨の音が一度遠ざかった。七海は鞄の紐を肩で掛け直して、続けた。
「八年前に店を畳んだお婆ちゃんが、二階で一人暮らし。お元気でね、毎朝、ちゃんと起きてるんだ」
「それは、淀みの種の話か」
「うん。毎朝、ちゃんと起きすぎてるんだよ」
七海の声音が、一段だけ低くなった。砕けた口語のままで、笑みも消していないのに、内側の温度だけが切り替わる。これも擬装の一部なのか、ここだけ素なのか、俺には判別がつかない。
「具体的には」
「毎朝、五時十六分に起きて、五時十八分に窓を開けて、五時二十分にお湯を沸かして、五時二十三分にお仏壇に水を上げて、五時二十五分に同じ言葉を唱える。それを、十年。一日も、欠かさず」
「……ご亭主の仏壇か」
「うん。生前のご主人の習慣を、そのまま、お婆ちゃんが引き継いだ。最初の何年かは、たぶん、それで救われていたんだと思うよ。亡くなった人を、毎日、同じ手順で偲ぶ。悪いことじゃない」
「悪くなったのが、最近、ということか」
「半年前くらいから、お婆ちゃん、手順を変えられなくなってる。一度、お湯を沸かす前にお仏壇に手を合わせようとしたら、手が動かなくなったんだって」
「それで、無事なのか」
「無事じゃないから、ボクが来た」
面倒くせえな、と心の中で呟いた。
雨の日に、商店街の中ほどまで歩いて、二階建ての雑居ビルの上まで上がって、十年同じ朝を反復している老女と話をする。淀みの種の依頼内容としては、緊急性が薄いタイプだ。氷見が持ち込む顕在化した案件と違って、七海の方は、放っておいても明日明後日に何かが爆発するわけではない。じわじわと、当人の側が削れていく系統。
七海はそれを「面倒くさい」と前置きしてから持ち込んでくる。要するに、急がない代わりに、解きにくい。
「タクマ君、行く?」
「行くよ。ここで断ったら、お前、雨の中ずっと立ってんだろ」
「うん。立ってる。雨でカーディガンが重くなるまで」
「それ脅迫って言うんだぞ」
「ボク、脅迫の意図はないよ。事実を述べてるだけ」
七海はにこにこ笑いながら、雨のアーケードを駅側へ歩き出した。俺は店の前のシャッターの隙間からマスターに目で合図を送って、その背中を一歩遅れて追った。
面倒くせえな、ともう一度、声に出さずに思った。




