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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
廃工場には終わっていない仕事がある
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廃工場には終わっていない仕事がある⑥

 地上に上がるまで、少し時間がかかった。


 階段を一段ずつ、ゆっくり登った。詠唱の負荷で足腰が重い、というほどではないが、一気に駆け上がる気力もない。氷見が先に上がって、俺がその後ろを歩いた。階段の途中で何度か壁に手をついて呼吸を整えた。氷見はそのたびに歩調を緩めて、俺を待った。何も言わない、けれど確実に、待っていた。


 外に出ると、空はまだ青かった。


 地下にいた時間は、感覚より長くもなく、短くもなかったらしい。一時間少し、というところだろう。日差しは少し弱まり、風が出始めていた。河川敷の方から夕方の風が吹いてきて、俺の頬を撫でた。


 建物は、外側に向かって緩やかに沈降した状態で安定していた。完全に崩壊したわけではなく、構造そのものが地面に対してわずかに傾き、沈み込んだ形になっている。一階部分は半分が地面に埋まり、二階以上は段差を作って残っていた。屋根の傾きが奇妙に保たれていて、まるで建物全体が、地面に向かって深く頭を下げているような姿勢になっている。


 再開発の取り壊し作業は、これでむしろ楽になるはずだった。


 意図したわけではない。けれど結果として、コンクリートの大半が既に沈んでいる以上、解体業者の仕事は半分済んでいる。地下に残った五人を運び出した後で、重機を入れれば数日で更地になるだろう。


 その五人の搬送手配が、氷見の方で進んでいた。


 彼女は携帯のような小型の端末で、どこかに連絡を入れていた。誰がどこに、どうやって運ぶのか、俺は詳しくは知らない。氷見の側にはそうしたインフラがあって、必要な処理が行われる。家族には二日間の行方不明について、それなりの説明が用意されるのだろう。覚えている記憶は混濁している、それで通る。


 俺は門のところまで戻って、もう一度建物を振り返った。


 半分沈んだコンクリートの塊が、夕方の光の中で静かに横たわっていた。窓の割れ目から、黒い影が見える。けれど、それはもう動かない。観察してくる気配もない。建物は、ただの古い廃墟に戻っていた。


 あれは、二十年間ずっと「終わっていない」と言い続けていたのだ。


 給料はもらっていない。仕事は残っている。閉じてはいない。


 誰がそれを最初に言い始めたのかは、もう分からない。最初に言った人間は、もう死んでいるかもしれない。あるいは別の街で別の仕事をしていて、もう廃工場のことなんて忘れているかもしれない。けれど言葉の方は、場所の方に残った。残って、染み込んで、結晶になった。


 言葉だけが、残っていた。


 二十年、誰もそれを聞かないまま、それは響き続けていた。


 それを俺は今、終わらせた。


 別に感慨はなかった。淀みの種を剪定するのは仕事だ。仕事を終えて感慨を持つのは、俺の柄ではない。


 ただ、わずかに、悪くはなかったと思う。


 あの場所がこれ以上、誰も巻き込まずに済む。それだけは、確かなことだった。


 二十年響き続けていた言葉が、今夜から響かなくなる。それを聞き取る人間はもう誰もいないが、響かないこと自体は、たぶん意味がある。


「緒方さん」


 氷見が後ろから声をかけてきた。連絡を終えたらしい。俺は振り返った。


「何」


「お疲れさまでした」


 彼女はそう言って、いつものように一礼した。


 それから、ほんの少しだけ、間があった。普段の氷見なら、ここで「報酬の件は後日、規定の通りに」と続ける。けれど今日は、その間が、いつもより一拍長かった。


「報酬の件は後日、規定の通りに」


「うん」


「それから」


 彼女の声が、わずかに止まった。


「強い詠唱を伴う処理は、負荷が大きいと記録されています。次回からは、より早い段階で介入を要請します」


 俺は氷見を見た。


 彼女は無表情のままだった。けれどその「次回からは早く」という言葉は、業務的な効率の話としても、それ以外の話としても、聞ける言葉だった。後者で受け取って構わないのか、それとも前者として受け取るべきなのか。たぶん氷見自身も、明確には分けていない。


 俺はそれ以上深掘りしないことにした。掘れば、彼女が答えに困るだけだ。氷見の中でまだ言語化されていない感情を、こちらが先回りして言葉にしてやる必要はない。彼女のペースで、いずれ言語化されるなら、それでいい。されないなら、それもいい。


「了解。じゃ、また」


 俺は片手を上げて、軽く振った。


「はい」


 氷見も小さく一礼した。


 彼女はその場に残った。たぶん、解体業者か搬送スタッフが到着するまで、現場の管理を続けるのだろう。氷見の仕事は、剪定の前後の方が長い。観測、報告、引き継ぎ、記録。俺が見えていないところで、いつも何かを処理している。


 俺は門に背を向けて、歩き出した。


 タクシーは捕まりそうにないので、最寄りのバス停まで歩く。十分くらいだろう。県道沿いを、河川敷の風を受けながら歩く。すれ違う車はほとんどない。郊外の県道、夕方の時間帯、人通りも少ない。


 夕方の風が、頬を撫でた。


 もう、淀みの匂いはしなかった。


 歩きながら、振り返らなかった。振り返っても、もう何もない。終わった現場を見ても、得るものはない。

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