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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
廃工場には終わっていない仕事がある
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廃工場には終わっていない仕事がある⑤

 俺は両手を、ゆっくりと持ち上げた。


 息を整える。空間全体に意識を広げる。柱の一本一本、機械の一台一台、床と天井と壁、その全部に同時に手を伸ばす感覚。指先で触れるのではなく、空間そのものに自分の意識を薄く広げて、行き渡らせる。


 範囲が広い。普段の小さな操作なら詠唱は要らない。今のように人の周囲のベクトルを歪ませる程度なら、指先の意識だけで処理できる。けれど、これだけの空間を一度に処理するなら、詠唱が必要だった。


 詠唱は、自分の意識を強化する儀式に近い。声に出すことで、操作のための「方向性」を空間に対して固定する。意識のフォーカスが鋭くなり、出力できる力場の規模が一段大きくなる。


 俺は短く息を吐いて、口を開いた。




「ここに在る力に告ぐ」




 声が、空間に染み込んだ。


 いつもの俺の口調とは違う、もう少し低い、もう少し平坦な響き。詠唱の時だけ、俺はこの声になる。普段の砕けた話し方を捨てて、無感情に近い、けれど明瞭な声。




「方向を持つ全ての流れに告ぐ


 堆積した不可逆を、可逆に戻せ


 固着した記録を、流動に戻せ


 ここに在る『終わっていない』という言葉を


 俺が、終わらせる」




 空間が、震えた。


 光の集まりが、一瞬で散った。


 機械の振動が、止まった。


 シャトルが空中で止まり、床に落ちた。


 空気の密度が、急速に下がっていく。淀みが、ほどけていく。


 堆積していた「労働の記録」が、空間から剥がれていく。コンクリートに染み込んでいた「終わっていない」という感覚が、霧散していく。場所そのものが持っていた、自己保存の意志が、薄くなっていく。


 けれど、それだけでは終わらなかった。


 空間そのものが、最後の抵抗をしてきた。


 天井から、コンクリートの破片が落ちた。


 柱の一本に、ひびが入った。


 建物全体が、軋んだ。


 地下室の天井が、波打つように歪み始める。


 場所は、自分自身を壊すことで、立ち入った人間を巻き添えにしようとしていた。剪定を完遂させないために、まず物理的な崩壊で俺を排除する。それが場所の最後の手段だった。


 俺は片手を持ち上げて、頭上の空間を押し上げた。


 落ちてくる破片の運動量を、上向きに反転。破片は、天井に向かって戻った。途中で止まり、空中に静止する。十数個のコンクリート片が、空中で停止していた。


 もう片方の手で、床に倒れている五人を覆う空間に、薄い力場を張った。半球状のドームのような形で、五人の周囲を包む。建物が崩れても、彼らの周囲の空間だけは保護される。物理的な障壁ではなく、力場そのものが衝撃を吸収する仕組みだった。


 それから俺は、空間全体の方向ベクトルを、わずかに捻った。


 建物を壊そうとしていた力の流れを、建物の外側に向けて逃がす。内側ではなく、外側に。物理法則の方向だけを、操作する。重力の方向を変えるのではなく、崩壊のエネルギーが伝わる方向を、内向きから外向きに反転させる。


 建物は、内側に崩れる代わりに、外側に向かって緩やかに沈み始めた。


 ゆっくりと、コンクリートの構造が、地面に向かって溶けるように下がっていく。鉄筋が湾曲する音、コンクリートが砕ける音、けれどそれらは内側ではなく、建物の外周部で起きていた。粉塵が舞う。けれど内側の空間は、保たれていた。


 俺と五人の周囲だけ、無傷の空間が残った。


 淀みは、完全に散った。


 空気が、軽くなった。普通の地下室の、普通の湿った空気。それだけになった。さっきまで肌を押し返していた密度はなくなり、重力が普通の重力に戻っていた。


 俺は息を吐いた。


 全身が、わずかに重い。詠唱を伴う操作はやはり負荷が大きい。手足の感覚が薄く、視界がほんの少し回る感覚がある。けれど、立っていられる範囲だった。


 空中に止まっていたコンクリート片を、ゆっくりと天井の隅に寄せて、固定した。これで安全だ。


 階段の上から、足音が聞こえた。


 氷見が降りてきていた。


 地下まで、珍しく降りてきた。


 機械が止まり、空間が普通になったのを確認したのだろう。彼女は階段を降り切って、第二紡績室の入り口に立った。それから、床に倒れた五人を順に確認し、最後に俺の方を見た。


「処理完了を確認しました」


「うん」


「測量班の意識回復は、数時間以内に始まる見込みです。記憶の混濁はありますが、致命的な損傷は確認されません」


「そりゃよかった」


 俺は壁にもたれて、軽く目を閉じた。


 地下の空気は、もう淀んでいない。ただの古い建物の、湿ったコンクリートの空気だった。


 二十年間、ここに堆積していた「終わっていない」は、たった今、終わった。

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