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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
廃工場には終わっていない仕事がある
16/25

廃工場には終わっていない仕事がある②

 タクシーは琴生市の北西に向かった。


 駅前の繁華街を抜けると、すぐに住宅地に入り、それも数分で途切れた。河川敷に沿った県道を北上すると、視界が開けてくる。左手に河川敷、右手に水田、その奥に低い丘陵地帯が広がっていた。


 現場はその丘陵の手前、河川敷から少し離れた平坦地にあった。


 かつては繊維関連の中堅工場が並んでいた一帯らしい。平成の後半に大半の工場が撤退して、残った敷地は再開発を待つ間、十年以上放置されている。雑草が膝の高さまで伸びて、コンクリートの割れ目から黒い染みが地面に広がっていた。鉄骨だけが残った建物、屋根が崩れた倉庫、半分埋まった配管設備、そういうものが点々と続いている。


 風景全体が、灰色だった。


 夕方の光が斜めに差し込んで、廃墟の影を細長く伸ばしていた。


 タクシーは旧東繊紡績の門の手前で停まった。氷見が運転手に何か短く言って、料金を渡した。俺は先に降りて、門の前に立った。タクシーは俺たちを降ろすと、すぐに走り去った。


 門の前で、俺は建物を見上げた。


 四階建てのコンクリート造、横に長い直方体の建物だった。窓ガラスは半分が割れて、半分は埃で真っ白に曇っている。外壁には蔦が絡みついていて、所々で黒い染みが垂れていた。雨だれの跡だろうが、それにしても染みが多い。建物全体が、長い時間をかけて少しずつ溶けてきたような印象があった。


 入り口にはチェーンが掛かっていたはずだ。市の管理物件として封鎖されているはず、と書類には書いてあった。けれど、そのチェーンは地面に落ちていた。誰かが切ったのか、あるいは何らかの力でちぎれたのか、断面は新しい。


 俺は門の前で立ち止まったまま、息を吸った。


 暑いはずなのに、空気が重い。


 湿気とは違う重さだった。湿気なら肌にまとわりついて、けれど押し返してはこない。今、肌に触れている空気は、押し返してくる。何かが密度を持っていて、それが俺の侵入を拒んでいる、という感覚だった。


「氷見」


「はい」


「あんた、これ、どのくらい前から見てた」


「測量班の連絡が途絶えたのが二日前。観察を始めたのは昨日の朝です。場所そのものに偏在する淀みは、観測対象として把握していました。三週間前から」


「それ、もっと早く言えなかった?」


「閾値を超えたのが二日前です。それ以前は、剪定対象として優先度が低いと判定しました」


 効率的な答え方だった。氷見はいつもそうだ。


 俺はため息をついた。


「閾値ね」


「はい」


「閾値超える前に芽を摘んでくれると、こっちが楽なんだけどな」


「観測のリソースは有限です。閾値以下の偏在を全て剪定対象にすると、人員が足りません」


 正論だった。返す言葉もない。


 俺は門の内側に視線を向けた。荒れた敷地、雑草、割れたコンクリート、そして奥に建つ廃工場。普通の景色だ、表面的には。けれど空気が違う。空気だけが、明らかに違う。


「分かった。入る」


 俺は門の内側に踏み込んだ。


 その瞬間、首筋に冷たいものが走った。


 空気の流れが、変わったのが分かった。建物の方向から、何かが流れてきている。風ではない、匂いでもない、もっと別の何か。例えるなら、誰かが俺を見ている、という感覚に近かった。建物の方角から、複数の視線が向けられている。


 けれど、見ているのは人間ではない。


 場所が、見ている。


「緒方さん」


 氷見が声をかけてきた。普段より、わずかに早い。


「分かってる」


 俺は答えた。


 建物の入り口、半分開いた鉄扉の向こうに、薄い影のようなものが見えた。輪郭が曖昧で、人の形のようにも、煙のようにも見える。それが扉の内側で揺れていた。じっと見ていると、影は溶けて消えた。けれど消えた、と言うより、視線が合った瞬間に視界の外に逃げた、という感覚だった。


 影は、俺たちを観察していた。


 俺は氷見の方を見た。


「中に何人いる」


「五名、全員。地下一階、第二紡績室です」


「地下があんのか」


「設計図上は確認できます。実際に降りられるかは、行ってみないと」


「五名全員、生きてんのか」


「生命兆候は維持されています。脳波には異常なパターンが観測されますが、致命的な損傷ではありません」


「ふうん」


 俺は建物に向かって歩き出した。氷見が後ろからついてくる。雑草を踏みしめる音、二人分の足音、それしか聞こえない。建物が近づくにつれて、空気の重さが増していく。一歩ごとに、肌に触れる感覚が密になる。


 建物の入り口、半分開いた鉄扉の前に立った。


 俺は扉に手をかけた。重い、錆びている、けれど蝶番は意外なほどなめらかに動いた。誰かが最近、開け閉めしている。測量班か、あるいは、それ以外の誰か。


 扉を押し開けた瞬間、内側から音が聞こえた。


 機械の音だった。


 動いているはずのない、紡績機の、規則正しい駆動音。シャトルが左右に走る、リズミカルな打音。布が織られていく、二十年前に止まったはずの音。


 俺は扉の前に立ったまま、その音を聞いた。


 建物の地下から、その音は途切れることなく続いていた。

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