廃工場には終わっていない仕事がある②
タクシーは琴生市の北西に向かった。
駅前の繁華街を抜けると、すぐに住宅地に入り、それも数分で途切れた。河川敷に沿った県道を北上すると、視界が開けてくる。左手に河川敷、右手に水田、その奥に低い丘陵地帯が広がっていた。
現場はその丘陵の手前、河川敷から少し離れた平坦地にあった。
かつては繊維関連の中堅工場が並んでいた一帯らしい。平成の後半に大半の工場が撤退して、残った敷地は再開発を待つ間、十年以上放置されている。雑草が膝の高さまで伸びて、コンクリートの割れ目から黒い染みが地面に広がっていた。鉄骨だけが残った建物、屋根が崩れた倉庫、半分埋まった配管設備、そういうものが点々と続いている。
風景全体が、灰色だった。
夕方の光が斜めに差し込んで、廃墟の影を細長く伸ばしていた。
タクシーは旧東繊紡績の門の手前で停まった。氷見が運転手に何か短く言って、料金を渡した。俺は先に降りて、門の前に立った。タクシーは俺たちを降ろすと、すぐに走り去った。
門の前で、俺は建物を見上げた。
四階建てのコンクリート造、横に長い直方体の建物だった。窓ガラスは半分が割れて、半分は埃で真っ白に曇っている。外壁には蔦が絡みついていて、所々で黒い染みが垂れていた。雨だれの跡だろうが、それにしても染みが多い。建物全体が、長い時間をかけて少しずつ溶けてきたような印象があった。
入り口にはチェーンが掛かっていたはずだ。市の管理物件として封鎖されているはず、と書類には書いてあった。けれど、そのチェーンは地面に落ちていた。誰かが切ったのか、あるいは何らかの力でちぎれたのか、断面は新しい。
俺は門の前で立ち止まったまま、息を吸った。
暑いはずなのに、空気が重い。
湿気とは違う重さだった。湿気なら肌にまとわりついて、けれど押し返してはこない。今、肌に触れている空気は、押し返してくる。何かが密度を持っていて、それが俺の侵入を拒んでいる、という感覚だった。
「氷見」
「はい」
「あんた、これ、どのくらい前から見てた」
「測量班の連絡が途絶えたのが二日前。観察を始めたのは昨日の朝です。場所そのものに偏在する淀みは、観測対象として把握していました。三週間前から」
「それ、もっと早く言えなかった?」
「閾値を超えたのが二日前です。それ以前は、剪定対象として優先度が低いと判定しました」
効率的な答え方だった。氷見はいつもそうだ。
俺はため息をついた。
「閾値ね」
「はい」
「閾値超える前に芽を摘んでくれると、こっちが楽なんだけどな」
「観測のリソースは有限です。閾値以下の偏在を全て剪定対象にすると、人員が足りません」
正論だった。返す言葉もない。
俺は門の内側に視線を向けた。荒れた敷地、雑草、割れたコンクリート、そして奥に建つ廃工場。普通の景色だ、表面的には。けれど空気が違う。空気だけが、明らかに違う。
「分かった。入る」
俺は門の内側に踏み込んだ。
その瞬間、首筋に冷たいものが走った。
空気の流れが、変わったのが分かった。建物の方向から、何かが流れてきている。風ではない、匂いでもない、もっと別の何か。例えるなら、誰かが俺を見ている、という感覚に近かった。建物の方角から、複数の視線が向けられている。
けれど、見ているのは人間ではない。
場所が、見ている。
「緒方さん」
氷見が声をかけてきた。普段より、わずかに早い。
「分かってる」
俺は答えた。
建物の入り口、半分開いた鉄扉の向こうに、薄い影のようなものが見えた。輪郭が曖昧で、人の形のようにも、煙のようにも見える。それが扉の内側で揺れていた。じっと見ていると、影は溶けて消えた。けれど消えた、と言うより、視線が合った瞬間に視界の外に逃げた、という感覚だった。
影は、俺たちを観察していた。
俺は氷見の方を見た。
「中に何人いる」
「五名、全員。地下一階、第二紡績室です」
「地下があんのか」
「設計図上は確認できます。実際に降りられるかは、行ってみないと」
「五名全員、生きてんのか」
「生命兆候は維持されています。脳波には異常なパターンが観測されますが、致命的な損傷ではありません」
「ふうん」
俺は建物に向かって歩き出した。氷見が後ろからついてくる。雑草を踏みしめる音、二人分の足音、それしか聞こえない。建物が近づくにつれて、空気の重さが増していく。一歩ごとに、肌に触れる感覚が密になる。
建物の入り口、半分開いた鉄扉の前に立った。
俺は扉に手をかけた。重い、錆びている、けれど蝶番は意外なほどなめらかに動いた。誰かが最近、開け閉めしている。測量班か、あるいは、それ以外の誰か。
扉を押し開けた瞬間、内側から音が聞こえた。
機械の音だった。
動いているはずのない、紡績機の、規則正しい駆動音。シャトルが左右に走る、リズミカルな打音。布が織られていく、二十年前に止まったはずの音。
俺は扉の前に立ったまま、その音を聞いた。
建物の地下から、その音は途切れることなく続いていた。




