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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
廃工場には終わっていない仕事がある
17/25

廃工場には終わっていない仕事がある③

 建物の中は、昼間なのに薄暗かった。


 窓ガラスに積もった埃が、光を遮っている。差し込む光は灰色で、床に積もった砂と一緒に、空間全体を曇らせていた。一階は広いホールのような構造で、かつては事務スペースか何かだったらしい。机の脚や、ロッカーの残骸が壁際に押し付けられている。誰かが片付けようとして途中で諦めたような配置だった。


 奥に階段があった。


 階段の手前に、案内板が壁にかけられたまま残っていた。錆びて、文字は半分読めない。「第二紡績室」「資材倉庫」「事務室」、辛うじてそれくらいは判別できる。第二紡績室の項目には下向きの矢印が描かれていた。地下に続く階段を示している。


 機械の音は、その階段の下から聞こえていた。


 遠い、規則正しい、布を織る音。一階のホールに反響して、空気を細かく震わせている。電気は十年前に止まっている。動力源がないのに、機械が動いている。物理的にはあり得ないことが、起きていた。


 俺は階段の手前で立ち止まった。


 空気が、より重くなっていた。建物の奥に進むほど、肌に触れる感覚が密になっていく。何かが満ちていた。例えるなら、深い水の中に潜っていく感覚に近い。深度が増すほど、水圧が強くなる。それと同じ仕組みで、ここでは「淀みの濃度」が深度に応じて増していく。


 階段の下から、湿った臭いが上がってきていた。コンクリートの臭い、それから、もうひとつ、別の臭い。


 汗の臭いだった。


 人間の、生きている人間の、汗の臭い。


 二日間、地下に閉じ込められた人間たちの臭いだ。


「氷見、ここは」


「はい」


「観測者として残ってくれ」


 俺は階段の手前で振り返って、氷見に言った。


 氷見は無言で頷いた。それから、ブラウスの胸元から細い金属の筒のようなものを取り出した。万年筆ほどの長さの、銀色の筒だった。指先で何かを操作すると、筒の先が薄く発光した。淡い青白い光が、彼女の指先を照らした。


「観測補助、起動しました。緒方さんの位置と、建物内部の偏在状況を継続記録します」


「助かる」


 俺は短く答えて、階段を降り始めた。


 地下に降りる階段は、思ったより長かった。普通の地下一階ではなかった。半地下を経由して、さらに降りる構造らしい。十段ほど降りたところに踊り場があり、そこから九十度方向を変えて、また十段ほど降りる。それを二回繰り返した。


 降りるほどに、機械の音が大きくなった。


 湿った空気、コンクリートの臭い、そして人間の汗の臭い。階段の壁面は黒ずんでいて、所々に水が滲み出ていた。手摺りの鉄パイプは錆びていて、触ると赤い粉が指に付く。一段降りるごとに、現実から少しずつ剥がされていく感覚があった。


 階段を降り切ると、広い空間に出た。


 第二紡績室、と壁の表示にあった。


 天井は低かった。一般的な工場フロアより、明らかに低い。三メートルあるかないか。横に長い、奥行きはおそらく四十メートル以上ある。コンクリートの柱が等間隔に並んでいた。柱の数を数える前に、目が他のものに引きつけられた。


 電灯はない。けれど、薄く明るい。


 光源が分からなかった。


 空間全体が、ぼんやりと発光しているような状態だった。光は均質ではなく、所々で濃淡があった。機械のある場所は明るく、柱の影は深い。光が機械に集まっているように見えた。


 その機械が、並んでいた。


 古い、昭和の紡績機だった。横に長い、複雑な構造の機械。本来なら錆びて朽ちているはずのもの。それが、動いていた。シャトルが左右に走る。糸が巻き取られる。機械全体が振動している。布が、織られていた。


 そして、機械の前に、人がいた。


 五人。


 全員、男だった。


 年齢はばらばらだった。一番手前にいるのは三十代後半、その隣は五十代、奥に二十代、四十代、もう一人五十代。服装もばらばら、けれど全員が機械に向かって立っていた。手は動いていた。糸を結ぶ、シャトルを送る、布を引き寄せる、そうした動作を反復している。


 誰も、こちらを見ない。


 俺は静かに数歩、彼らに近づいた。


 一番近い男の顔を、横から覗き込んだ。三十代後半、無精髭、目は開いているが、焦点が合っていない。瞳孔が動かない。瞬きの間隔が、機械的に等間隔。口は半開き、呼吸は浅い、けれど確かに胸が上下している。


 手だけが、動いていた。


 指先は荒れていた。爪の間に、糸の繊維が入り込んでいた。指先の皮膚が裂けて、血が滲んだ跡があった。けれど男はそれに気付かないまま、手を動かし続けている。


「……これ、生きてんのか」


 俺は呟いた。


「はい。生命兆候は維持されています。ただし、自我活動の指標は著しく低下しています」


 階段の上から、氷見の声が聞こえた。観測補助の何かを通じて、状況を捉えているらしい。


「で、こいつらが見てんのは何だ」


「過去です」


 氷見は答えた。


「この場所が稼働していた時代の労働。それが場所そのものに記録として残留し、立ち入った人間に対して反復行動を強制しています」


「強制っつうのは」


「拘束ではありません。誘導です。立ち入った人間の意識が場所の記録と同期して、自発的に労働を継続しているように見える状態です」


「自発的に、ね」


 俺は男の手を、もう一度見た。


 水も飲まず、飯も食わず、眠りもせず。二日間、こいつはずっとこの機械の前で糸を結び続けていた。


 誰かがこの場所に、「終わっていない」と言い続けているのだ。


 俺はそれを感じ取った。空気の中に、声にならない圧力として、それがある。


 まだ仕事が残っている。


 給料はもらっていない。


 工場は閉まっていない。


 誰も、それを言葉にしていない。けれど、空間全体が、それを発し続けていた。


「面倒くせえな」


 俺は呟いた。

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