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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
廃工場には終わっていない仕事がある
15/27

廃工場には終わっていない仕事がある ①

 夕方の喫茶店は静かだった。


 窓際の老人が新聞を畳んでいる。八月の日差しがアーケードに遮られて、店内には薄い橙色の光だけが落ちていた。エアコンの低い音と、奥でマスターが豆を挽くミルの遠い唸り、それくらいしか聞こえない。客は老人だけで、他には誰もいなかった。


 俺はカウンターの内側でグラスを拭いていた。


 もう何度拭いたか分からないグラスだった。手に馴染んだ動作で、考えることもなく布が動く。今日の午後は人の出入りが少なかった。商店街全体が、夏休みの中盤特有の気だるさに沈んでいる。


「タクマくん、上がっていいよ」


 マスターが奥から声をかけてきた。


「もうそんな時間ですか」


「五時過ぎてる」


 時計を見ると確かに五時十二分だった。今日は午前で講義が終わっていたので、午後一時から夜八時までの長いシフトに入っていた。明日は土曜で、講義もシフトもない。何もない一日というのは、それだけで価値がある。


 エプロンを外して控室に下げる。リュックを背負って、財布と鍵と学生証を順に確認する。携帯は朝からほとんど鳴っていない。それも悪くない。


 控室を出た瞬間、入り口の扉が開いた。


 ドアベルの澄んだ音が店内に響く。


 俺は反射的にそちらを見て、それから少しだけ顔をしかめた。


 扉の前に女が立っていた。


 黒髪のロングストレート、まっすぐ背筋を伸ばした立ち姿。背は高い、けれど威圧感はない。むしろ整いすぎているせいで、彫像のような印象がある。夏なのに長袖の白いブラウスを着ていて、膝下まである紺色のスカート、足元はストラップのある黒い靴。日に焼けていない肌、化粧はほとんどしていないように見える、けれどそれで十分すぎるほど整った顔。


 無表情だった。


 視線が、まっすぐ俺を捉えていた。


「氷見」


 俺は呟いた。


 氷見透華は、入り口でマスターに向かって一礼した。マスターはカウンターの奥から目礼を返した。それだけだった。氷見が来るのは何度目かなので、二人とも特別な反応はしない。マスターは事情を全部知っているが、それを匂わせる素振りは絶対にしない。客の前で従業員のプライベートに踏み込まない、という以上に、何か別の徹底した節度がある。それが彼のやり方だった。


 氷見は俺の前まで歩いてきて、もう一度小さく頭を下げた。


「緒方さん。お時間よろしいですか」


「今上がったとこ。仕事?」


「はい」


 短い答えだった。


 氷見はいつもこうだ。余計なことを言わない。要件以外の挨拶もしない。雨の日でも晴れの日でも、暑くても寒くても、第一声は要件だった。


 俺はリュックの肩紐を握り直した。


「マスター、ちょっと出てきます」


「はい、行ってらっしゃい」


 マスターはいつもの調子で答えた。気をつけて、とも、何時頃帰る、とも聞かない。出かけて、戻ってくる、それで十分という応対。


 俺は氷見と一緒に店を出た。


 外に出ると、八月の夕方の熱気が押し寄せてきた。アスファルトの放射熱がまだ残っていて、肌に当たる空気が温い。アーケードを抜けるまでは少し涼しいが、抜けた瞬間に直射日光に変わる。陽はまだ高く、商店街の喧騒も遠くから聞こえていた。


「で、どこ」


「琴生市郊外。旧東繊紡績の跡地です」


 氷見は淡々と答えた。歩きながら、ブラウスの胸元に挟んでいたらしい書類を一枚差し出してくる。市の再開発担当部局が出した通知のコピーだった。来月から取り壊しが始まる、その前の最終調査で測量班が入った、そこで何かが起きた、と要点が記されている。


「測量班、何人入った」


「五名。全員、二日前から連絡が取れません」


「警察は」


「家族からの届出はまだです。会社には休暇申請が出ていますが、誰も提出した記憶がないと家族は言っています」


 俺は書類を畳んで、リュックの脇ポケットに入れた。


「それ、誰が出したことになってんの」


「全員、本人名義で、本人の筆跡で。家族が筆跡を確認しています」


「……面倒くさいな」


 俺は呟いた。


 氷見は答えなかった。ただ隣を歩いている。歩く速度を俺に合わせてくる、それだけは毎回そうだ。彼女は別に俺の歩幅に従っているわけではなく、効率的な移動という観点から最適解を選んでいるだけなのだろう。けれど結果として、隣で歩調が合っているのは事実だった。


 商店街のアーケードを抜けると、駐車場の脇に黒いタクシーが一台停まっていた。氷見はそれに向かって軽く手を挙げた。タクシーの運転手は無言で頷き、後部座席のドアを開けた。


 手配してあったらしい。


 それも、いつものことだった。


 俺は後部座席に乗り込んで、窓側に座った。氷見は反対側から乗り込んで、間に少しだけ距離を取って腰を下ろす。距離の取り方も、毎回ほぼ同じだ。近すぎず、遠すぎず、業務上の同行者として最適化された距離。


 タクシーが動き出した。


 商店街を抜けて、駅前の通りに出る。土曜の前日の夕方、人通りはそれなりにある。学生らしき集団、買い物帰りの主婦、仕事終わりのサラリーマン。誰も俺たちには目を留めない。普通の大学生と、清楚な印象の女子学生、それくらいの組み合わせにしか見えないのだろう。


 俺は窓の外を眺めながら、頭の中で予定を整理した。


 現場まで二十分。状況確認で三十分から一時間。剪定が必要なら、それに加えて時間。終わるのは早くて七時、遅ければ夜になる。明日が休みでよかった。


 タクシーの窓の外で、街並みが郊外に変わっていった。

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