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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
特進クラスの自習室には呼吸が一つしかない
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特進クラスの自習室には呼吸が一つしかない⑤

 校舎の裏手は、雑木林の縁に向かって緩やかな勾配になっていた。植え込みのツゲが腰の高さで列をなし、その奥に建物の壁が立ち上がっている。コンクリートに薄く苔が生えていた。


 七海は植え込みの切れ目を探して、俺をそこへ通した。建物の壁から二メートルほど離れた位置に立つと、ちょうど三階の自習室の窓の真下にあたる。窓は閉まっていた。中の光景は見えない。だが、肌に伝わる空気の振動で、室内のリズムがまだそこにあることが分かった。


「タクマ君」


「ああ」


「外側からだから、力場の根を一発で切らないと、修正される」


「分かってる」


「ボク、後ろで監視してる。生徒が窓から見ても、植え込みの陰から動かなければ、ボクたちは見えないはずだから」


「了解」


 俺は植え込みに片膝をついた。地面に手を置く。コンクリートの基礎の上から、建物全体の振動が指先に伝わってくる。三階分の高さを通って、自習室の力場が建物全体に薄く下降していた。下降した力場が、基礎を通して地面に逃げる前に、コンクリートの中で減衰している。逃げ場がないせいで、室内に滞留している。


 力場の核は、自習室の中央、三十五席の中心にある。そこに「均質化を要求する」ベクトルの束が結節していた。長年の積み重ねが、空間の中に物理的な節を作っていた。糸の絡みを解くのではなく、糸の絡みごと方向を反転させる。それで力場は自壊する。


 俺は呼吸を整えた。


 通常の発動では届かない。建物の壁を一枚挟んで、空間の中央に位置する力場の節に、こちらから指向性を持って届かせるためには、詠唱が要る。


 唇を、わずかに動かした。


「ここに在る力に告ぐ」


 声は植え込みの葉に吸われ、誰の耳にも届かない音量で発された。


「方向を持つ全ての流れに告ぐ」


 空気の流れの「全方向性」を呼び出す呼びかけ。


「均質を要求する力場よ


 画一を強要する束よ


 お前たちの方向を、お前たち自身に向けて返す」


 俺の指先から、薄い「向き」が放たれた。視覚的に見えるものではない。肌で感じる風の方向だけが、植え込みから建物の壁を貫いて、上の階の自習室へと差し向けられた。


「ここに在る『同じでなければならない』という言葉を


 俺が、ばらける方向に解す」


 最後の一行を発音した瞬間、建物の壁の向こう側で、何かが、ふっと、抜けた。


 力場の節が、自分の生成していた要求の方向を、自分自身に返された結果、内側から自壊した。長年積み上げられたベクトルの束が、束ねられていた紐ごと、四方八方にほどけていく。空気の流れが、本来の自然な対流を取り戻し始めた。


「ほどけた」


 七海が、後ろで短く呟いた。


 壁越しに、室内の人々の呼吸の同期が乱れる気配が伝わってきた。同期から外れる、というのは、生徒たちの側からすれば「あれ、何か今、空気が」という程度の体感でしかないはずだ。だが、それでいい。柏木さんに、自分のリズムで呼吸する余地が生まれれば。


 ところが。


 壁の向こうで、何か別のものが動いた。


 俺は短く息を呑んだ。


 力場が解けた瞬間、その力場の中に長年溜まっていた「外れた者を引き戻す」働きが、行き場を失って、最も外れていた者に向かって最後の一撃として吐き出された。柏木さんに向かって。彼女の身体機能を一気に同期させる、最後の収束。


「タクマ君!」


「分かってる!」


 二度目の詠唱を打つ余裕はなかった。詠唱なしで、有機物操作の方を。


 指先を植え込みの葉に触れさせた。葉脈の中の水分の流れの方向に、指先からのベクトルを乗せた。葉脈の中の水分の流れと同じ方向に、しかしそれを建物の壁を抜けて柏木さんの神経系に届かせる。


 短く、彼女の呼吸を、強制的に「ばらつかせる」ように介入した。


 神経系に直接介入するのは、本来あまりやりたくない。だが、力場の収束が彼女の肺を一気に止めにかかっていた。それより速く、彼女の呼吸のリズムを「強引に乱す」方が、結果的に被害が小さかった。同期されかけた瞬間、同期から逃げる方向に呼吸を蹴飛ばす。


 壁の向こうで、ごく短い、咳払いに似た音がした。柏木さんが、息を一度、強く吸い込んだ音だった。


 力場の最後の収束が、彼女の同期を取り戻す前に、彼女の側で勝手にリズムが乱されたために、捕捉対象を見失った。捕捉対象を失った収束は、空中で散逸し、雑木林の方向へと吸い込まれていった。雑木林の梢が、一瞬だけ、ざわりと揺れた。


 全部、終わった。


 俺は片膝をついたまま、植え込みの葉に乗せていた指を、ゆっくりと地面に下ろした。指先が痺れていた。詠唱と有機物操作を連続で打った余波だった。


「タクマ君、大丈夫?」


「ああ。指、十分くらい痺れるけど、それだけだ」


「上、見てみて」


 俺は顔を上げた。三階の自習室の窓が、十年ぶりに換気されたかのように、わずかに、しかし確かに、内側の空気と外側の空気を交換し始めていた。窓は閉まったままだ。だが、空気の流れが普通の対流を取り戻したために、わずかな隙間からでも入れ替わりが起きていた。


 窓ガラスの磨りガラス越しに、誰かが立ち上がる影が見えた。


 立ち上がったのは、おそらく柏木さんだった。彼女は窓辺に少しだけ歩み寄り、外を見ようとしていた。窓の外を見るという、ただそれだけの動作が、十分前の彼女には許されていなかったことだった。


 俺は短く息を吐き、立ち上がった。


「帰るぞ、七海」


「うん。今日はここまでで、十分すぎる成果だね」


 七海が、植え込みの陰で、ふっと笑った。今度は、子ども擬装の表情ではなく、普段の少年っぽい砕けた表情だった。

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