特進クラスの自習室には呼吸が一つしかない⑥
校門を出て、坂を下りた。
帰りのバスは少し待ち時間があった。バス停の屋根の下のベンチに、俺と七海は並んで座った。秋の陽は傾き始めていて、雑木林の影が緩く伸びていた。
七海はベンチの端で足をぶらぶらさせていた。背の高さがベンチに合っていないらしく、踵が地面につかない。座るたびに地面につかない、というほどではないが、座り直すたびに足の位置を微調整している。中性的な輪郭の中の、子どもっぽい部分だった。
「タクマ君、指、まだ痺れてる?」
「弱まってきた。十五分くらいで戻る」
「結構、無理させちゃったね」
「お前が無理させたわけじゃない。あれは俺の判断だ」
「うん」
短く返事をして、七海はリュックの中からお菓子を一つ取り出した。森永のキャラメルだった。一粒、口に放り込み、もう一粒を俺に差し出す。
「いる?」
「もらう」
包み紙を剥がして、口に放り込んだ。甘さが舌の奥に広がる。糖分は痺れの回復にも悪くない。
しばらく、二人とも無言だった。雑木林の梢を風が渡っていく音だけが聞こえた。
七海が、ふと、口を開いた。
「タクマ君」
「ああ」
「あの子、たぶん、明日からも、あの自習室で勉強するんだよ。推薦の内定が出てるって言ってたし、卒業まではあそこに通うことになる」
「だろうな」
「ボクたちが今日剪定したのは、空間に固着した力場の方だけ。元になった『進学実績主義の同調圧力』そのものは、また少しずつ、空間に染み付いていく」
「そうだ」
「だから、これは一回切りの剪定じゃ、根本的には解決してない」
七海はキャラメルの包み紙を指の中で小さく折りたたみながら、視線を地面に落としていた。
俺はバス停の屋根の縁を見上げた。
「氷見ならどう答えると思う、それ」
「えっ」
「氷見にお前と同じ質問をぶつけたら、どう答えると思う?」
七海は少し考えてから、口元を緩めた。
「『私たちの仕事は、剪定であって、根の管理ではありません』って、言いそう」
「だろうな」
俺は短く息を吐いた。
「俺もそう答える。今日の剪定で柏木さんは、自分のリズムで呼吸する権利を取り戻した。それを使うかどうかは、彼女の問題だ。使えなくなりそうになったら、また誰かが呼ぶ。お前か、氷見か、別のペアか」
「うん」
「俺たちは、根を管理するためにいるわけじゃない。今日できる剪定を、今日するだけだ」
言葉にすると、けだるい結論だった。だが、けだるい結論しか、俺には出せなかった。
七海は、ゆっくり頷いた。
「タクマ君は、氷見さんと同じこと言うんだね」
「俺と氷見が同じこと言うのは、たぶんそこだけだ」
「あはは」
子どもっぽい笑い方を一瞬したあと、七海はキャラメルの包み紙をきれいに小さく畳み終えて、リュックの中に戻した。ゴミを出さないという擬装の細部だった。
バスが、坂の上の方から下ってきた。空の路線バスは、停留所で短く止まり、俺たちは無言で乗り込んだ。
車内は、空いていた。最後尾の席に二人で座ると、エンジンが小さく震えてバスは動き出した。
「タクマ君」
「ああ」
「ボクの初対面、合格だった?」
「擬装の精度はまずまず。任務時の判断は速い。氷見との差別化はできている。総合で、悪くない」
「悪くない」
七海はくすくす笑った。
「氷見さんは、ボクのこと『擬装、雑です』って言ってたって聞いたんだけど」
「氷見の基準は厳しい。あいつの基準を満たすのは、たぶん氷見本人だけだ」
「そうかも」
窓の外を見ると、市街地に向けて景色が逆再生されていた。雑木林、田畑、住宅地、市街地。順序を追って、空気の温度が一段ずつ上がっていく。槙ヶ崎を出るたびに、いつもこの「市街地に戻る感覚」が肺に来る。
琴生駅前でバスを降りた。
七海が、リュックを背負い直した。
「ボク、ここで別れるね。次の報告、氷見さんに上げに行くから」
「了解」
「タクマ君、今日は、ありがと」
「いい」
短く答えた。
別れ際、七海はもう一度こちらを見た。
その目に、任務時の擬装はもう乗っていなかった。砕けた口調の少年の目でもなかった。
そのどちらでもない、もう少し奥の表情だった。
「ボク、タクマ君と組めて、良かったな」
言ったあと、自分で言ったことに照れたらしく、ふいっと顔を逸らして、軽く片手を上げて駅の改札の方へ走っていった。改札の手前で一度だけ振り返り、もう一度手を振ってから、人混みの中に消えた。
俺はその後ろ姿を、しばらく見ていた。
あの「ボク、タクマ君と組めて、良かったな」の声音は、子ども擬装でも、少年口調でもなかった。古風な響きとも違う。あれが、たぶん、七海昴という存在の素に近い側の声だった。
氷見の揺らぎが「業務的とも、それ以外とも取れる」発話の中に潜むなら、七海の素は「擬装と擬装の隙間」に短く顔を出す。出方の方向が、二人で違う。差別化、確かにできている。
俺は息をひとつ吐いて、商店街の方に歩き出した。
北の空に目を遣ると、月よりやや小さい白い円が、いつもどおりそこにあった。動かない。消えない。形も変わらない。今日も俺たちが何をしようと、明日も同じ場所で同じ向きを向いている。
帰ろう、と思った。




