特進クラスの自習室には呼吸が一つしかない④
見学時間の十分は、ほぼ何もせずに使った。
案内係の生徒が、特進クラスの自習室を出る時間を告げた。俺と七海は短く礼をして、廊下に出た。出た瞬間、肺の中の空気が一斉に置き換わるような、強い喉の渇きを感じた。室内では、抑えていたのだ。あの空間の呼吸リズムに同期しないように。
準備室に通されると、案内係の生徒は自習室に戻る、と短く言って去っていった。準備室の中には、化学実験用の戸棚と、長机がいくつか並んでいるだけで、人はいなかった。土曜日の午後で、教師たちもほとんど在校していないらしい。
「七海」
「うん」
「あの子に話を聞きたい。お前、引き出せるか」
「やってみる。十分ぐらいで出てくると思う。トイレに行く動線で、あの子だけ呼べる」
七海はそう言って、リュックから生徒手帳の偽物を取り出した。中に挟まれた小さな紙片を一枚、剥がし取り、それを準備室のドアの隙間にそっと差し込んだ。何かの符号らしかった。詳しい仕組みは聞かなかった。氷見が見たら眉を寄せそうな、瞳B独特の手段だった。
「呼んでくる」
七海が一度、廊下に出た。
その間、俺は準備室の窓を細く開けて、外の風を肺に通した。十分の間、俺の呼吸は意図的にあの空間のリズムから外され続けていた。普通は気づかれずに済むはずだったが、剪定の段で空気の流れを操作するためには、まずあの場の力場の方向を完全に把握しておく必要があった。それを把握するために、俺はあの場の呼吸リズムを内側で「録音」していた。喉が渇くわけだった。
戸が開いた。
七海と一緒に、あの女子生徒が入ってきた。彼女はまだシャーペンを握ったままで、握ったまま、握っていることを忘れているように見えた。
「お疲れ様」と七海が、まだ高校二年生の擬装の声で言った。「ちょっと、ここで話そっか」
「あの……」
彼女の声は、喉の奥に詰まっていた。声帯がうまく振動しない、という感じの、薄い掠れだった。
「私、戻らないと、いけない、ので」
「うん。十分以内に戻れるようにする。ボクが約束する」
七海の言葉に、彼女は何度か瞬きをした。瞬きのテンポも、自習室のあの一定リズムを引きずっていた。
俺はテーブルの向かい側の椅子に腰掛けた。彼女がシャーペンを置く間も、彼女の指は震えていた。
「名前、聞いていいか」
「……柏木、です。柏木、千冬」
「柏木さん。長いことは話さない。一つだけ聞きたい」
「はい」
「あの部屋から、出たいか」
彼女の目が、初めて俺の顔をまともに見た。
その目には、安堵でも、混乱でもない、別の種類の感情があった。罪悪感のように見えた。
「出たい、と思っては、いけないと、ずっと、思っていて」
「思ってはいけない、というのは、誰の言葉だ」
「私、推薦の枠で、もう内定が出ていて。だから、ここで脱落するのは、皆に申し訳が、立たなくて」
言葉が、息継ぎのたびに途切れた。
「皆と同じペースでやれないのは、私が、だらしないから」
「だらしないってのは、誰がそう言ったんだ」
「……誰が、というか」
彼女は言葉を選ぶ間、視線をテーブルの木目に落とした。
「皆が、そういう前提で、いる、ので」
誰も口にしていない。ただ、皆がそういう前提で同じペースを保っていて、彼女だけがそのペースから外れかけている。それを「私がだらしない」と彼女が引き受けている。淀みの種の構造が、これ以上ないほどはっきり言語化された。
俺は短く頷いた。
「柏木さん。一つ確認する。あなたが、出たい、と思って、出てもいい」
「……」
「皆に対して申し訳が立たないってのは、本当はあなたの問題じゃない。あなたを、皆が同じペースに引き戻そうとしている力の問題だ。あなたが弱いんじゃない」
彼女の目に、薄く水の膜が張った。
しかし、彼女は泣かなかった。泣くにも、息を吸い込む余裕が今の彼女にはなかった。涙腺の機能だけが反応して、目に水が浮き、瞬きで散らされた。
「……出たい、です」
絞り出すような、しかし明確な声だった。
「分かった」
俺は立ち上がった。七海が俺と並んで立ち、柏木さんに目線を合わせた。
「柏木さん、一旦、自習室に戻って。ボクたちは見学を終えて、もう校舎を出るから。だけど、戻った後、十分以内に部屋の空気が変わるから、その時に、自分の呼吸を、自分の好きなリズムでして大丈夫だから」
「呼吸を、好きな、リズム……」
「そう。多分、最初は怖いと思う。皆と違うリズムで呼吸するのは。けど、大丈夫。ボクが約束する」
七海の声に、擬装の薄皮越しに、別の何かが乗っていた。任務の声というよりは、もっと素朴な、子どもが子どもに約束をするような、まっすぐな響きだった。
柏木さんは、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
彼女が準備室を出ていく。扉が閉まる音を確認してから、俺はネクタイを少し緩めた。
「七海、外に出る」
「うん。校舎の裏手、植え込みの陰なら、ちょうどあの自習室の真下になる位置がある。そこから、行こう」
「校舎の中で詠唱を始めると、生徒に聞こえる可能性が」
「ある。だから、外の壁越しに、空間に向かって剪定する。タクマ君なら、できるよね」
「面倒くせえな」
「いつものやつだ」
七海が、ふっと笑った。少年っぽい砕けた笑い方が一瞬戻り、すぐに「真面目な見学生」の表情に再構成された。俺たちは準備室を出て、案内係の生徒に礼を言い、見学者用の名札を返却した。
校舎の外に出ると、秋の空気が肺の奥まで入ってきた。雑木林の方から鳥の声が聞こえる。耳に届く音と、肌が感じる風と、肺が吸う空気が、ようやく一致した。
俺は、あの自習室のリズムを内側で「録音」したものを、頭の中で巻き戻し始めた。




