特進クラスの自習室には呼吸が一つしかない③
扉を案内係の生徒が静かに引いた。中の空気が、廊下に流れ出るはずだった。
流れなかった。
扉を開けても、空気の入れ替わりがほとんど起きない。室内の空気は室内の空気として独立していて、廊下の空気と接触していないかのようにふるまっていた。気圧差で生じるわずかな対流すら起きない。室内が真空であるわけがない。だが、空気は明らかに「廊下に出てこない」ことを選んでいた。
俺は一歩、足を踏み入れた。
踏み入れた瞬間、自分の呼吸の周期が、室内の何かに合わせて引き寄せられそうになった。
吸う。吐く。吸う。吐く。明らかに俺の意志とは別のリズムが、室内全体に流れていて、それに同期するよう肺が要求された。俺は意識的にそのリズムを外した。一拍ずらして吸い、半拍早めに吐く。室内の空気が一瞬、俺の周囲だけ歪んだ。歪みはすぐに均された。修正されたのだ。
自習室の中は、想像していたより明るかった。
南向きの大きな窓から斜めの陽射しが差し込んでいて、机の表面で淡く反射していた。机は縦に七列、横に五列。三十五人分の席があって、そのうち三十二人が埋まっていた。男女比は半々程度。全員が制服姿で、全員が、机に向かっていた。
全員が、同じ角度で背中を丸めていた。
全員が、同じ角度に首を傾けていた。
全員の右手が、同じテンポでシャーペンを動かしていた。
俺は背筋にぞわりとしたものを感じた。これは、合宿でもなければ模試の最中でもない、ただの土曜日の自由参加の自習時間のはずだ。なのに、机ごとの個性というものが、この部屋には存在しなかった。机の上に置かれている問題集の種類は別々なのに、姿勢だけが同期していた。
「視線、誘導されてるね」
七海が、俺の耳元でだけ聞こえる声で短く言った。「真面目な高校生」の擬装はまだ崩していない。背筋を伸ばしたまま、表情も保ったまま、声だけを抑えて流し込んできた。
「視線を、特定の方向にしか向けないようにする力場が働いてる。机に向かう、を強要してる」
「全員、それに従ってる」
「うん。一人を除いて」
七海の視線がわずかに動いた。俺は同じ方向を見た。
窓側の列、後ろから二番目の席。
そこに座っている女子生徒が、視線を僅かに泳がせていた。机に向かいながら、目だけが、定期的に窓の外をちらりと見ようとしている。「見ようとして、見られない」と表現すべきか、見ようとした視線が、何度か途中で机の上に引き戻されていた。
その生徒が、俺の知りたい子だった。
外見は、よくいる進学校の女子高生だった。髪を後ろで一つに束ね、襟元のリボンをきっちり結び、制服のシャツに皺がない。一見して優等生然とした輪郭を持ちつつ、しかし顔色だけが他の生徒と違っていた。蒼白ではない。むしろ、頬に赤みが残っている。だが、その赤みが、健康な血色というよりは、息苦しさからくる充血に近かった。指先が震えていた。シャーペンを動かす速度を保とうとしているが、保ちきれていない。
案内係の生徒が、扉の外で待っている俺たちに、何か声をかけた。
「皆さん、集中していますので、お静かに。十分ほど見学したら、隣の準備室に移ります」
俺は短く頷いた。
十分か。十分のうちに、彼女と短く話さねばならない。剪定の前に、本人の意志を一度確認しておく必要があった。彼女がここから出たいのか。それとも、出たくないと言うのか。俺はそれによって、剪定の角度を変える。
俺は何気なく、空いている見学者用の椅子に座る素振りをしながら、その女子生徒の机の二つ後ろに位置取りをした。視線を合わせず、あくまで部屋全体を見学している付き添いの大学生として座る。
彼女のシャーペンの音が、不規則だった。他の生徒は同じテンポで規則的にシャーペンを走らせている。彼女だけ、走らせる、止まる、走らせる、止まる、を繰り返していた。止まっている時間に、彼女は呼吸を整えようとしているように見えた。
俺はその時、彼女の机の上の問題集の余白に、何か小さく書き込まれているのに気づいた。鉛筆ではなく、ボールペンで、ごく小さく。問題の解答ではない。
「息ができない」
そう書いてあった。
書いた本人の手が、その文字の上をシャーペンの腹で覆い隠した。隠したまま、彼女はまた一拍、シャーペンを走らせた。
俺は短く息を吐いた。淀みの種の抽象軸が、頭の中で言語化されていた。集団の画一化。それが、視覚と聴覚と呼吸を物理的に同期させる力場として、この部屋に固着している。同期から外れた者は、同期させられる過程で身体機能を奪われる。視界が狭くなり、耳が遠くなり、指先が動かなくなる。彼女は今、その第一段階にいる。
厄介なのは、これを引き起こしているのが特定の個人ではないことだった。教師でもない、誰か特定の生徒でもない。長年の同調圧力が空間そのものに染み付いて、空間が「均質化を要求する力場」を勝手に生成し続けている。発生源を排除する形での剪定は、ここでは効かない。
空間そのものを、剪定する必要があった。
ただ、その前に。
俺は腕時計を見るふりをして、彼女の目の高さに視線を合わせる角度を作った。彼女の視線が、机の上から一瞬だけこちらに動いた。怯えた目でも、助けを求める目でもなかった。「自分の状態を、誰かが認識してくれている」ということを、まず確認した目だった。
俺は唇の形だけで、短く言葉を返した。
大丈夫だ、と。
彼女のシャーペンが、一拍だけ、止まった。
止まったままで、再び走り始めた。だが、その走り始めの一拍、彼女の指先の震えがほんの少し収まったのが、俺の位置からは見えた。
やるしかないか、と俺は思った。




