特進クラスの自習室には呼吸が一つしかない②
琴生駅から槙ヶ崎方面行きのバスに乗ると、山が徐々に近づいてくる。窓の外を流れる景色は、市街地から住宅地、住宅地から田畑、田畑から雑木林へと段階的に変わっていく。北稜学院は終点のひとつ手前、雑木林を切り開いた斜面に建てられている。
俺は後部座席で頬杖をついていた。隣の席で、七海はリュックの口を膝の上で広げて、中身を点検している。
「お前、それ、リュックに何が入ってんだ」
「ノートと、ペンと、お菓子と、生徒手帳の偽造だね」
「偽造かよ」
「外部生徒として一日入学してきた、っていう体で入る予定。北稜は土曜日に他校生の見学を受け入れる枠があるんだ。タクマ君は付き添いの大学生っていう設定でどう?」
「お前、いくつの設定だ」
「高校二年生」
ぱっと顔を上げて、満面の笑みでそう言った。実際の見た目は、十六か十七といって通用しないこともない。背は俺の肩の下程度で、首が細く、骨格にも年齢を強く主張する硬さがない。中性的という言葉で言われているものの正体の半分は、たぶんこの未完成な骨格にある。
「擬装、雑にならねえか」
「あ、ボクの擬装、見せようか」
返事を待たず、七海はリュックから一枚のカーディガンを取り出して肩にかけた。それから腰を浅く座り直して、背筋をまっすぐに伸ばし、両手を膝の上で重ねた。
次の瞬間、目の前にいる人物が、別の生き物に見えた。
明るい色の髪はそのままなのに、顔の角度がほんの少し下を向き、視線が控えめに伏せられただけで、輪郭の印象が一気に「真面目な高校生」に組み替わった。一人称を「ボク」にする少年めいた口調も影を潜めて、口元が控えめな笑みを湛えている。
「初めまして、北稜の皆さん。本日は見学をさせていただきます、七海と申します」
声音まで違った。やや高めの、丁寧な、しかしどこか頼りなげな女子高生の声が、確かに目の前から聞こえてきた。
俺は思わず眉を寄せた。
「氷見が見たら、ぐうの音も出ないと思うぞ、それ」
「ふふ。氷見さんに褒められても困るなあ」
声と表情がふっと元に戻った。少年っぽい砕けた笑い方で、七海はカーディガンをまた肩から外してリュックに丸めて押し込んだ。
「タクマ君は付き添いの大学院生でいいかな。哲学科って言ってもバレないよね、たぶん」
「学部生なんだけどな」
「高校生の見学に学部生が付いてくる方がよっぽど不自然なんだよ」
もっともだった。俺は溜息をついて、シャツの襟を直した。
バスが終点のひとつ手前で停まった。降りた途端、空気の温度が一段下がる。山の麓に近いせいで、市街地より体感気温が低く、風に湿った木の匂いが混じる。校門までは緩い坂を二、三分上る距離だった。
その坂を上り始めてすぐ、俺の中の感覚器が何か違和に触れた。
空気の流れだ。
葉擦れの音は聞こえる。風は確かに吹いている。だが、校門に近づくにつれて、その「風が吹いている」という感覚と、実際に肌に触れる空気の動きの間に、わずかなずれが生じ始めた。耳は風の音を捉えているのに、肌は風を受けていない。あるいは、肌が受けている空気が、鼓膜が伝える方向と少し違う方向を向いている。
「七海」
「うん。ボクも、感じてる」
七海の声から、さっきまでの軽さが薄れていた。リュックを背負い直す手の動きに、無駄がなかった。
「校門を抜けたら、もっとはっきりすると思う。たぶん、自習室に近づくほど」
「お前、これを兆候段階だって言ったよな」
「言ったよ。これでもまだ兆候。中の生徒が一人も倒れてないし、教師も異常を感じてない。客観的には何も起きてない」
「客観的にはな」
俺はもう一度、空気の流れを意識した。風はある。だが、ここの風には、特定のテンポがあった。一定の周期で吸い、一定の周期で吐く、ひとつの巨大な肺が遠くで動いているような感じだった。
校門の前に着いた。北稜学院高等部の校章が掲げられた門柱の脇に、見学受付の看板が立っていた。七海が背筋を伸ばし、顔の角度を少し下げて、また「真面目な高校二年生」の輪郭を呼び戻した。
「いきましょう、付き添いさん」
俺は短く頷いた。気配が切り替わる手前で、七海が早口に付け加えた。
「タクマ君、ひとつだけ。ボクが擬装中は、ボクのことを呼ぶときは『七海さん』にしてほしいんだ」
「了解」
「ありがと。じゃあ、行くよ」
受付を済ませ、見学者用の名札を首から下げ、案内係の生徒に連れられて校舎の中へ入った。瞬間、空気の質量が変わった。
暖房の入った室内ではない、廊下の温度はむしろ屋外と同じくらいだ。だが、その空気を構成する「動き」が、屋外の風とは別物になっていた。一定のテンポで脈打つ、低周波の振動のようなものが、廊下の空気の中に間歇的に走っている。気のせいだ、と切り捨てられない強度で、それは確かにあった。
案内係の生徒は、俺たちにいくつかの教室を見せながら廊下を進んだ。普通教室、音楽室、化学準備室。ここまでは異常がない。生徒たちは普通に授業を受けていて、廊下ですれ違う者の足音もばらばらだった。
「次が、特進クラスの自習室です」
案内係の生徒が、短く言った。声に何の感情も乗っていなかった。
扉が見えた。木製の大きな扉で、上半分が磨りガラスになっている。磨りガラスの向こうは静かだった。物音がない。それが奇妙だった。中に三十人前後の生徒がいると説明されたばかりなのに、人の気配が、している、とも、していない、とも言えない。
七海が、隣で一拍息を止めた。それを俺は横目で確認した。
ああ、これは厄介な方だ、と俺は思った。




