第5話 月前の灯火、鴉の傷(2)
枯れ葉が舞う木立の隙間を、乾いた風が吹き抜ける。
出雲と烏丸は、凍てついた土を木へらで掘り返し、冬を越すための根菜を集めていた。泥に塗れた芋を籠へ納め、出雲が柔らかく頬を緩める。
二人きりの静かな時間。それを無残に踏みにじったのは、下草を荒々しく押し潰す重い足音だった。
「おい。いいものをため込んでるじゃねえか」
木々の影から姿を現したのは、破れた麻布を身にまとった三人の男たちだった。手首と足首には、引きちぎられた鉄鎖の残骸が赤茶けた錆を浮かせている。
乱れた髪の隙間からのぞくのは、南方の民特有の燃えるような紅色の瞳。黒曜への激しい憎悪と飢餓で濁った視線が、出雲の背負う籠と、彼女の華奢な首筋へ注がれた。脱走した紅灼領の奴隷だ。
烏丸の視界が、瞬時に煮え立つような赤に染まった。出雲を背後へ押し込み、着物の裏に隠していた長剣の柄を握り締める。
独り血をにじませて磨いてきた鋼の刃を、迷わず前に突き出した。
「下がってろ、出雲!」
先頭の紅髪の男が野獣のような咆哮を上げ、突進してくる。大人と子供の決定的な体格差。力任せに振り下ろされる鈍色の一撃を、烏丸は身を翻して紙一重でかわした。日々の鍛錬で培った体さばきと、半獣特有の肉体感覚。男の懐へ深く潜り込み、柄を固く握り直す。
余裕など存在しない。目の前の存在を排除しなければ出雲が殺されるという野生の本能だけが、烏丸の全身を駆動させていた。
男の手首を掴み、斜め下から刃先を突き上げる。肉と関節を穿つ、鈍く生々しい手応え。
烏丸の振るった長剣は、男の喉笛を深く貫いていた。
「がはっ……」
男の口からドロリとした濃紅色の血が溢れ、枯れ葉を濡らす。引き抜いた刃の隙間から鮮血が激しく吹き出し、烏丸の頬と着物を容赦なく染め上げた。
男は白目を剥き、泥の上に倒れ込んで痙攣を始める。残りの二人は、一瞬で命を奪ってみせた少年の凄惨な一撃に怯え、悲鳴を上げて森の奥へ逃げ去った。
静寂が戻る。烏丸は荒い呼吸を整えながら、血の滴る長剣を握りしめて振り返った。
「出雲、怪我は――」
途中で声が引きちぎれた。
出雲は地面にへたり込み、両手で激しく口を覆っていた。灰色の双眸は限界まで見開かれ、歯の根が合わないほどガタガタと震えている。彼女の視線は烏丸の顔ではなく、足元で血を流して動かなくなった死体と、烏丸の指先から滴る生々しい赤に固定されていた。
目の前で繰り広げられた圧倒的な暴力。故郷の村を焼き尽くした戦火の記憶が、少女の精神を容赦なく破砕していた。
烏丸は、とっさに握っていた長剣を投げ捨て、出雲の肩へ手を伸ばす。
「出雲、もう大丈夫だ。奴らは逃げた」
烏丸の血まみれの手が触れる直前、出雲の身体が弾かれたように跳ねた。
「――っ!」
喉の奥から声にならない悲鳴を漏らし、出雲は這いつくばる体勢のまま後ろへ後退する。
「出雲。俺だ。お前を傷つけたりしねえ」
烏丸は慌てて距離を詰めようとしたが、彼女は必死に頭を振り、泥を引っ掻きながらさらに身を引いた。
返り血を浴びた指先、鼻を突く生の匂い。それらは出雲にとって、自分を救った味方の手ではなく、死と破滅をもたらす忌まわしい脅威そのものとして映っていた。
悪気のない、純粋な恐怖の反応。
だがその拒絶の挙動は、烏丸の胸の奥を激しい刃で抉り抜いた。命がけで守ったはずの手が、彼女にとっての穢れとなっている。
風に乗って、沈丁花の甘い香りが漂った。
純白の外套をなびかせ、既望が樹木の間から滑らかに姿を現す。
一瞬で戦況と凄惨な空気を感じ取った既望は、地に伏す死体と烏丸を一瞥し、出雲の元へ素早く歩み寄った。
既望は出雲の前に膝を突き、己の白い外套を大きく広げると、過呼吸を起こしかけている少女の小さな身体を視界ごと包み込んだ。
「見なくていい。目を閉じなさい」
汚れなき白布が、殺伐とした血の赤と死の光景を遮断する。大人による揺るぎのない庇護。
出雲は既望の胸に顔をうずめ、堪えていた感情を爆発させて激しく泣きじゃくり始めた。
「師匠……血が、人が……!」
「よく耐えた。もう大丈夫だ」
既望の腕の中で、出雲の激しい震えがゆっくりと鎮まっていく。
烏丸は、少し離れた位置からその光景を立ち尽くして見つめることしかできなかった。
「烏丸」
既望が静かに呼びかける。微かに眉間に寄せられた皺の意味が、非難なのか労りなのか、動揺する烏丸には判別がつかない。
「出雲をよく守った。……だが、その血の匂いは今の出雲には刺激が強すぎる。川へ行き、すべて洗い落としてきなさい」
完璧な大人の、何一つ間違っていない配慮。
頭では理解できている。しかし、同じ半獣でありながら立ち振る舞いの美しさを崩さない既望と、どこまでも清廉な出雲の前に、人を殺めた自分の野生的な暴力が、惨めで悍ましいものに思えてならなかった。
「……分かってるよ」
烏丸は背を向け、一人で河原へ向けて歩き出した。
冷え切った川の水に顔を浸し、血糊を強く擦り落とす。何度皮膚を叩いても、鼻の奥にこびりついた鉄の匂いは消えてくれない。
出雲を守るために密かに手を痛め、命を懸けて戦ったのだが。
「俺には、力しかねえのに……! 唯一の取り柄を拒絶するなよ、出雲……」
出雲が過去の凄惨な体験によって深いトラウマを負っていることは知っている。
それなのに、既望のように血を流さずに場を収める術を持たない己の無力さと、圧倒的な質の差に対する泥臭い劣等感が腹の底から湧き上がってくる。
「同じ半獣なのに、なんでこんなに違う……」
視界が不意に歪み、烏丸は慌てて乱暴に腕で目元を拭った。
「くそっ、かっこ悪い……」
自分の手は泥と血で汚れ、傷ついた出雲の手を握って慰める資格すら持たない。彼女を守るために磨いた唯一の力が、二人の間に取り払えない断絶を生んでしまった。
半獣として周囲から差別され、化け物扱いされることには慣れていたはずだった。
しかし、出雲の瞳に宿っていた恐怖の色彩を思い出すだけで、胸の奥が焼きちぎれるような痛みに苛まれる。
冬の川の痛烈な冷たさが、体温を容赦なく奪っていく。
底知れぬ隔離感と孤独が、烏丸の胸の奥底を静かに、けれど確実に黒く塗り潰していった。




