第5話・前編 月前の灯火、鴉の傷
2026/09/20 改稿(最新)
ふたりの暮らしに既望が加わってから、彼は時折、必需品を得てくると言い置いて、街へとくり出していった。
山を下りる際、既望はいつもの煤けたボロ着を脱ぎ捨てる。
内に着こむのは、鮮烈な緋色の着物。薄暗い山林の緑に、その赤が毒々しく映えた。
数日後、戻ってきた既望の腕には、自分と出雲のための上質な着物が抱えられていた。肌触りの良い絹の擦れる音が、冷えた山気の中にカサリとひびく。
ありがたい。だが、胸の奥にざらりとした引っかかりが残る。烏丸は薪を握りしめたまま、戻ったばかりの男を見上げた。
「どこにそんな金がある。……盗みでもしたのか」
「まさか。正当な商売の対価だ」
既望は軽やかに笑い、荷を置いた。
「短期間でこの生地をそろえる額だ。どんな商売だよ」
「……話術と体を張る仕事だ。人には言えぬ秘術があってね」
既望は濁した言い方で視線を変えた。それ以上は踏みこませない空気をまとっている。
霊術を自在に操り、教養も深い。街の仕組みを知りつくした大人だ。自分たちの知らぬ稼ぎ方など、山ほど持っているに違いなかった。
「……器用なやつだ」
吐き捨て、烏丸は手元の薪をたき火にくべた。パチと火の粉が跳ねる。
これほどの稼ぎ口があるのなら、人里で豪奢に暮らせるはずだ。それなのに、なぜわざわざ人里を離れ、自分たちのような者と山に籠もるのか。どこへ行っても生きていける男の気まぐれに思えてならなかった。
不意に、荷を整理する既望の手に目がとまる。
爪先に、ひとすじの紅が残っていた。街の化粧料だ。うっすらと艶を放つ赤が、男の白い肌の上で露骨に主張している。
過敏な嗅覚がとらえたのは、着物の繊維の奥から漂う、かぎ慣れない香油と見知らぬ人間の生々しい余香だ。
「……街の女と遊んできたな」
じっと目を細め、その指先をにらみつける。
既望はハッとした顔を見せ、気まずそうに袖の中へ指を隠した。
「……出雲には伏せておいてくれ」
「言われるまでもねえ。よくやるぜ」
これみよがしに鼻で息を吐く。
人里の軒下に身を寄せていた頃の記憶が、耳の奥をくすぐる。鴉の血がもたらす過敏な聴覚は、薄い壁越しに届く男女の喘ぎや、湿った睦言まで無差別に拾いあげた。望まずとも、大人の娯楽の構造など知っている。
だが、その輪の中に自分が混ざる想像はわかない。
黒い羽の気配を残す異形の血。人間が半獣と契れば、待っているのは群れからの迫害だけだ。身を寄せる場所すら失う。
既望は違う。
半獣でありながら、人に恐怖を感じさせない知性と、惹きつける容貌をもつ。落ち着いた所作や物腰にはどこか円熟したたたずまいが漂うが、艶やかな肌の張りも立ち姿も、せいぜい十八、九の青年のそれだ。
(……なぜ、こうも違う)
握りしめた拳の爪が、掌に強く食いこんだ。
人里に溶けこみ、誰からも愛される容姿。出雲の隣に立つべきなのは、自分のような不吉な鴉ではなく、こういう男なのではないか。
消しようのない劣等感が、黒い泥のように胸の底へ溜まっていった。
*
川辺の浅瀬から、灰色の羽を広げた数羽のガンが水しぶきを立てて冬空へ飛び立った。
季節はめぐり、森の空気が鋭い冷気をはらみ始めている。
荒屋での三人暮らしが日常の輪郭をもち始めた頃、烏丸は一つの厄介事に直面していた。
起床して河原で顔を洗った烏丸が、着物の袖で滴をぬぐって戻る。
土間では既望と出雲が火を起こし、朝食の支度をしていた。白い息をはき出し、時折たき火に手をかざしている。
「烏丸。薄着で外に出れば肺を悪くする。これを着なさい」
背後から伸びてきた手が、分厚い獣皮の外套を烏丸の肩へ強引にかぶせる。
ふり返ると、色素のぬけ落ちた銀の髪を秋の朝日に輝かせた既望が、生真面目な顔で立っていた。
烏丸は舌打ちをし、その重い布地を肩からふり落とす。
「平気だ。俺は真冬以外は薄着でいい。厚着すると、いざ鴉になる時に脱ぐのが手間だ」
「戦や逃走の備えより、今は己の肉体を労われ。私が側にいる限り、君たちをおびやかすものはない」
既望は落ちた外套を拾いあげ、再び烏丸に押しつける。有無を言わさぬその圧迫感は、幼子をしつける親の態度だ。
「そういうお前こそ、袖なんかまくって風邪ひくぞ」
「私は風邪も病もわずらったことがない。私以外の人間は、皆ひどく脆いのだ。子供のうちは、素直に大人の庇護下に入っておけ」
既望のあきれまじりのため息を聞き、火の番をしていた出雲がふき出した。
「師匠、なんだか本当のお父さんみたい」
出雲の前で子供あつかいされた烏丸の耳が、羞恥で熱をもった。
「おい既望、お前は俺たちと数歳しか変わらねえだろ。偉そうにガキあつかいするな」
「……私は、君たちの祖父母世代くらいは生きている」
薪の爆ぜる音が、朝の静寂のなかにひびいた。
烏丸と出雲は目を丸くし、既望の顔を見つめる。
透き通るような肌、艶やかな銀灰の髪、よどみなく澄んだ瞳。どこをどう見ても、青年期の絶頂にしか見えない。
「冗談だろ」
烏丸の言葉に、鍋の中の汁をかきまぜ始めた既望は静かに首を横にふる。
「この肉体は老いず、傷を負っても異常な速度でふさがる。この呪われた血を呼ぶ器のせいで、人には言えぬ血生臭い苦労を重ねてきた」
灰の落ちた土間を見つめる既望の銀瞳が、ひどく暗い影を落とす。
「この容姿に執着した者たちが、勝手に血を流し合う。他人の欲望がひたすらにわずらわしくてね。後ろ暗いことに手を染めてから、ずっと遁世して生きてきた」
「じゃあなんで、俺たちと一緒に暮らしてるんだ?」
烏丸の問いに、既望の表情から険がぬけ、やわらかなほほえみが浮かんだ。
「君たちは子供だ。私を利用しようとする邪念がない。私を『ありのまま』の私として見てくれる」
「ありのままじゃない師匠もいるの?」
きょとんとする出雲の頭に、既望は無言で手を置いた。
「ぜいたくな悩みだな」
烏丸は鼻で笑い、皮肉を吐き捨てた。
親に捨てられ、泥水をすすって生きのびてきた烏丸にとって、既望の悩みはひどく高尚だ。
容姿が良ければ、ほどこしてくれる人間が増え、飢えずにすむ。利用されることのなにが悪いのか。飢え死にするよりよほどいい。
「私は誰かとともに、ただ心穏やかに暮らしたいとずっと願ってきた。君たちと一緒に火を囲んでいると、それが叶う気がする」
既望の大きな掌が、烏丸の黒髪と出雲の灰色の髪を交互になでた。
「亡き父が、子はかすがいとよく言っていた。家族を持つというのは、こういう温かさなのだろうな……」
初対面の頃より頻繁にほほえむようになった既望が、火の前に腰を下ろし、木椀に魚と山菜のスープをよそる。
押し付けられた外套は重く、そしてひどく温かい。
既望が抱える苦しみは烏丸には理解できない。
だが、頭をなでるその掌の確かな温度だけは、冷え切った烏丸の胸の奥底に静かに染みこんでいった。




