第5話 月前の灯火、鴉の傷(1)
川辺の浅瀬から、灰色の羽を広げた数羽の雁が水飛沫を蹴立てて冬空へ飛び立った。
季節は巡り、森の空気が鋭い冷気をはらみ始めている。荒屋での三人暮らしが日常の輪郭を持ち始めた頃、烏丸は一つの厄介事に直面していた。
起床して河原で顔を洗った烏丸が、着物の袖で滴を拭って戻る。土間では既望と出雲が火を起こし、朝食の支度をしていた。白い息を吐き出し、時折焚き火に手をかざしている。
「烏丸。薄着で外に出れば肺を悪くする。これを着なさい」
背後から伸びてきた手が、分厚い獣皮の外套を烏丸の肩へ強引に被せる。
振り返ると、色素の抜け落ちた銀の髪を秋の斜陽に輝かせた既望が、生真面目な顔で立っていた。烏丸は舌打ちをし、その重い布地を肩から振り落とす。
「平気だ。俺は真冬以外は薄着でいい。厚着すると、いざ鴉になる時に脱ぐのが手間だ」
「戦や逃走の備えより、今は己の肉体を労われ。私が側にいる限り、君たちを脅かすものはない」
既望は落ちた外套を拾い上げ、再び烏丸に押し付ける。有無を言わさぬその圧迫感は、幼子をしつける親の態度だ。
「そういうお前こそ、袖なんかまくって風邪引くぞ」
「私は風邪も病も患ったことがない。私以外の人間は、皆ひどく脆いのだ。子供のうちは、素直に大人の庇護下に入っておけ」
既望の呆れ混じりのため息を聞き、火の番をしていた出雲が吹き出した。
「師匠、なんだか本当のお父さんみたい」
出雲の前で子供扱いされた烏丸の耳が、羞恥で熱を持った。
「おい既望、お前は俺たちと数歳しか変わらねえだろ。偉そうにガキ扱いするな」
「……私は、君たちの祖父母世代くらいは生きている」
薪の爆ぜる音が、朝の静寂のなかに響いた。
烏丸と出雲は目を丸くし、既望の顔を見つめる。透き通るような肌、艶やかな銀灰の髪、淀みなく澄んだ瞳。どこをどう見ても、二十歳前。青年期の絶頂にしか見えない。
「冗談だろ」
烏丸の言葉に、鍋の中の汁をかき混ぜ始めた既望は静かに首を横に振る。
「この肉体は老いず、傷を負っても異常な速度で塞がる。この呪われた器のせいで、人には言えぬ血生臭い苦労を重ねてきた」
灰の落ちた土間を見つめる既望の銀瞳が、ひどく暗い影を落とす。
「この容姿に執着した者たちが、勝手に血を流し合う。他人の欲望がひたすらに煩わしくてね。後ろ暗いことに手を染めてから、ずっと遁世して生きてきた」
「じゃあなんで、俺たちと一緒に暮らしてるんだ?」
烏丸の問いに、既望の表情から険が抜け、柔らかな微笑みが浮かんだ。
「君たちは子供だ。私を利用しようとする邪念がない。私を『ありのままの私』として見てくれる」
「ありのまま以外の師匠がいるの?」
きょとんとする出雲の頭に、既望は無言で手を置いた。
「ぜいたくな悩みだな」
烏丸は鼻で笑い、皮肉を吐き捨てた。親に捨てられ、泥水を啜って生き延びてきた烏丸にとって、既望の悩みはひどく高尚だ。容姿が良ければ、施してくれる人間が増え、飢えずに済む。利用されることの何が悪いのか。飢え死にするより余程いい。
「私は、誰かとともに、ただ心穏やかに暮らしたいと、ずっと願ってきた。君たちと一緒に火を囲んでいると、それが叶う気がする」
既望の大きな掌が、烏丸の黒髪と出雲の灰色の髪を交互に撫でた。
「亡き父が、子は鎹とよく言っていた。家族を持つというのは、こういう温かさなのだろうな……」
初対面の頃より頻繁に微笑むようになった既望が、火の前に腰を下ろし、木椀に魚と山菜のスープをよそる。
押し付けられた外套は重く、そしてひどく温かい。
既望が抱える苦しみは烏丸には理解できない。だが、頭を撫でるその掌の確かな温度だけは、冷え切った烏丸の胸の奥底に静かに染み込んでいった。
***
遠くの山並みから吹き下ろす風は日ごとに鋭さを増し、足元の草むらを白く凍てつかせていた。荒屋での三人暮らしが静かな軌道に乗る陰で、世界は着実に破滅へと傾斜している。
食料を探して鴉の姿で上空を旋回する烏丸の眼下には、常に黒い煙が立ち昇っていた。破竹の勢いで南方の紅灼領を攻め落とした黒曜帝国軍は、その勢いを緩めない。残る敵対勢力は、北方の青淵領、西部の紫耀領、そして出雲の故郷である沿岸の灰霄領のみとなった。
戦の長期化は、黒曜の民の生活を容赦なく擦り潰す。度重なる不当な徴兵と重税に耐えかね、山深くへ逃げ込む落人が急増し、森の静寂は日ごとに危険な色を帯びていた。
さらに恐ろしいのは、奴隷として黒曜へ連行された紅灼領の民の存在だ。過酷な労働環境から脱走した彼らは、黒曜の一般民へ刃を向け、略奪と暴行を繰り返している。
ある日、烏丸は鴉の姿で焼き払われた村の上空を跳び、泥と血だまりの中に転がる一本の長剣を見つけた。
「錆びてない。これなら……」
出雲と自分の命を守る力は、他人に頼るわけにはいかない。
烏丸は出雲と既望の目を盗み、森の奥深くで独り長剣を振るう日課を始めた。
ブン、シュッ。
冷気を含んだ刃が風を切る。太い樹皮を仮想敵の首筋に見立て、皮膚が裂けて血がにじむまで素振りを重ねる。指の関節は擦り切れ、手のひらには不格好で固い豆が刻まれていった。




