第4話・後編 狐親と月夜はいつも良い
光の残滓をまとい現れたのは、見なれた人間だった。
「......既望?」
銀の髪をゆらし、白の外套をまとった既望がそこに立っていた。
珍しく息を切らした既望の腕と頬、頭部の傷口からは、銀色の血が流れている。
「怪我はないか」
「お前……半獣だったのか」
「そうだ。隠すつもりはなかった。お前たちが怖がると思ったのだ」
烏丸の額から汗がしたたり落ちる。
獣にすら敵わない己の無力さと、半獣の規格外の頼もしさ。
無意識に短剣の柄を握りしめていた手の力がゆるんだ。
「……助かった。鴉のくちばしより、狐の牙の方が役立つもんだな」
人よりも獣としての感覚が優れる分、力を制御する苦痛は烏丸自身がよく知っている。この帝国で半獣の正体を隠して生きる過酷さも同じだ。
同類である既望に対し、烏丸は初めて警戒心の底を一つはずした。
「おい。怪我してるぞ」
傷を指摘するが、既望は気にも止めず、烏丸と出雲に順番に鼻先を近づけ臭いをかいだ。
「血の臭いがしない。大した怪我は無いようだ」
「勝手に俺の臭いをかぐな。お前が大した怪我してるだろ」
「私の心配は不要だ。君たちの大声が聞こえて、山菜を投げ捨てて来てしまった。明るいうちに拾って来なければ」
踵を返そうとする既望の袖を、反射的につかんで引き止める。
「汚れが入ると膿むぞ。大人のくせに知らねえのか?」
烏丸はあきれてため息をついた。
既望の怪我した腕をぶっきらぼうにつかむと、川縁に引っぱる。
その肌は、血が通っているのか疑わしいほど冷たかった。
「傷口を洗え」
「平気だ、どうせすぐ治る」
「チッ。めんどくせえやつ」
既望は無頓着だが、烏丸は逃がさない。
小さな怪我でも、汚れが入れば膿んで腐る。山暮らしを始めた年、指が腐りかけて苦しんだからこそ知っている。
川の中に足底を浸しながらしゃがみ、既望の腕の傷口を氷のように冷たい川の水で洗い落としてやった。
すかさず出雲が懐から手ぬぐいを出して川の水で浸し、既望の頬の傷を丁寧にぬぐう。
しばし体を硬直させ、既望は目を見ひらいていた。銀の双眸が小刻みにゆれる。
「……世話をかけてすまない」
「べつに、お互いさまだ」
「君たちの手は、温かいな」
「お前の肌が冷たすぎなんだ。飯、ちゃんと食ってんのか?」
ぶっきらぼうに問うと、既望がふっと顔をほころばせた。
「……そんな心配をされたのは、子供の頃以来だ」
しみじみとした口調で詫びる既望に、烏丸は鼻を鳴らして応えた。
出雲が顔をのぞき込み、不思議そうに首をかしげる。
「師匠、目が潤んでる。痛いの?」
確かに既望の目がわずかに潤み、銀の瞳がゆらいでいる。
烏丸はぎょっとし、バツが悪くなって頭をかいた。
「傷でも染みたか。……雑で悪かったな」
「違うのだ。……ただ、なんの打算もない真心に触れたのが、久しぶりだっただけだ」
静かに目を伏せる既望の横で、烏丸と出雲は顔を見合わせる。
「そんなんで泣くなよ。腹が減っちまうだろうが」
「痛いの飛んでいけ」
出雲が手ぬぐいで既望の目元を軽く拭いてやる。
「ふたりとも、かたじけない。ありがとう......」
ふたりに世話をされる既望が、一筋の涙を流した。
「涼しい顔して、意外と苦労人だな」
ため息をつく烏丸の横で、出雲が小さく笑っていた。
*
その夜、シダを厚く敷き詰めた寝床に、三人は横になった。
奥の壁際に出雲。中央に烏丸。入り口側に既望が横たわっている。
土と草の匂いが混じった寝床の上で、出雲の安らかな寝息が聞こえる。
烏丸は腕の中に短剣を抱きこみ、扉に背を向けて出雲を守る体勢を取っていた。
だが今は、背後に既望がいる。
寝返りをうち、視線の先に横になって目を閉じている狐の半獣の男をとらえる。
日中、自分たちの前で感謝して泣いていた涙は偽りなどではない、善良な人間の証に思えた。
まだ得体は知れないが、あの結界術と銀狐の力は強力な盾だ。その事実がもたらす安堵感が、烏丸の意識を深いまどろみへと引きずりこんでいく。
「ん……さむい……」
背後から聞こえた出雲の寝言に、烏丸は即座に覚醒した。
入り口側で寝ていた既望も静かに身を起こす。
「おい……どうした」
烏丸が低く問うと、既望はみずからの白い外套を脱ぎ、丸まった出雲の身体にふわりと掛けた。
「冬の冷え込みがこたえるのだろう」
既望は火の番をするように、少し離れた土間に座りなおした。
烏丸は目をしばたいて、薄暗い屋内で目をこらす。
昼間、既望の頬にできていたはずの深い傷が、すでに完全にふさがっている。
「お前、頬の傷は治ったのか」
「……ああ。面の皮が厚い分、大した傷ではなかった」
自分の頬をなでながら、自嘲ぎみに既望は答えた。
「君も寒ければ、火の側に寄るか」
「俺はいい。獣の血が濃いから、この程度の寒さは平気だ」
「私も同じだ。だが、毛皮でできた狐姿の方が暖かいかもしれんな」
既望の静かな声を聞きながら、烏丸は出雲の方へ寝返りをうつ。
はた、と灰色の瞳と目が合った。
既望の外套に包まれた出雲が、寝ぼけ眼をこすりながら烏丸を見つめていた。
「ふたりとも、起きてたの?」
「ああ。これ、あいつが掛けてくれたんだ」
出雲は外套の温もりに顔を埋め、小さく笑う。
「烏丸も、半分こする?」
「いいって。俺は寒くねぇ」
烏丸が断るのも聞かず、出雲は外套の端を引っぱり、烏丸の肩まで強引に引きあげた。
外套の下で、出雲の小さな手が、烏丸の武骨な指を探り当てて握りしめてくる。その柔らかな掌の確かな体温に触れ、烏丸は初めて、自分の指先がひどく冷え切っていることに気づいた。
「ほら、こんなに冷たい。やっぱり我慢してた」
「……べつに、我慢なんかしてねぇよ」
強がりではない。ただ、出雲を守りぬくことに必死で、自分の身体の限界にすら気づいていなかっただけだ。
「烏丸。今日も助けてくれてありがとう。……私ももっと霊術を覚えて、烏丸を守るからね」
出雲の握る手が、きゅっと力を増す。
「......そんなことしなくても、お前はそのままでいい」
気恥ずかしさに烏丸は目をそらし、ただ身体を硬直させた。
己の早まる鼓動が聞こえそうで息を殺していると、やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
烏丸はそっと目を開ける。
月明かりに照らされた、土に汚れた頬。極限の緊張から解放された静かな寝息。この手を離すまいと握りしめる彼女の確かな脈拍が、烏丸の凍えていた芯をゆっくりと溶かしていく。
背後からは、入り口で静かに息をひそめる既望の気配がする。
(親と一緒に暮らしてるやつらって、こんな感覚なのかな)
烏丸は出雲の手を優しく握り返し、ゆっくりと目を閉じた。
誰かに背中をあずけるという、とうに忘れていた安堵感で、烏丸はまどろみの底へと落ちていった。
既望が加わったこの暮らしは、季節の移ろいとともに、烏丸と出雲の脆い絆を、確かなものへと変えてゆくことになる。
<タイトル/慣用句>
親と月夜はいつも良い:
親がそばにいる安心感と、明るく穏やかな月夜の晩は、どちらもいつでも心和むものだという例えの日本のことわざ。親が子どもを守り安心させてくれる様子を、暗い夜道を照らす月夜に重ねている。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n68a4bc500474




