第4話 風来坊の親と月夜はいつも良い(2)
「烏丸!」
出雲の悲鳴。
熊の巨体が、烏丸に覆い被さろうと立ち上がる。視界を覆い尽くす黒い影。
出雲を守る。その感情だけが、烏丸の恐怖を塗り潰した。
必死に腕を伸ばして折れた剣を握り直し、死を覚悟して地面を蹴ろうとした刹那。
「退きなさい!」
出雲が両手を前へ突き出した。彼女の掌から放たれた未熟な銀煙が、熊の眼球の直前で破裂する。一瞬の幻覚に惑わされた熊が、苛立ちに咆哮を上げて腕の軌道を逸らした。
その僅かな隙を、一条の銀の閃光が突き刺す。
ドスッ!
熊の背に乗り、その太い首筋に深々と牙を立てたのは、熊より一回り小さい銀色の狐だった。
美しい銀の体毛。ふっさりとした長い尻尾。狐の口から漏れるうなり声が、空気をビリビリと震わせる。
血飛沫が舞い、首を裂かれた雄熊は錯乱して地面を転がり、腕を振り回す。それでも銀狐は背中に喰らい付いて離れない。
致命傷を負った熊は悲鳴を上げながら森の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った河原で、銀の狐は優雅に尻尾を振ると、その姿を水が溶けるように変化させた。
「......既望?」
銀の髪を揺らし、白の外套をまとった既望がそこに立っていた。
息を切らした既望の腕と頬、頭部の傷口からは、銀色の血が流れている。
「怪我はないか」
「お前……半獣か」
「そうだ。隠すつもりはなかった。お前たちが怖がると思ったのだ」
烏丸の額から冷や汗が滴り落ちる。獣にすら敵わない己の無力さと、半獣の規格外の頼もしさ。
「……助かった。鴉の嘴より、狐の牙の方が役立つな」
人よりも獣としての感覚が優れる分、力を制御する苦痛は烏丸自身がよく知っている。この帝国で半獣の正体を隠して生きる過酷さも同じだ。
同類である既望に対し、烏丸は初めて警戒心の底を一つ外した。
「おい。怪我してるぞ」
傷を指摘するが、既望は気にも止めず、烏丸と出雲に順番に鼻先を近づけ匂いを嗅いだ。
「血の匂いはないようだ」
「俺の臭いを嗅ぐな」
既望の怪我した腕をぶっきらぼうに掴むと、川縁に引っ張る。その肌は、血が通っているのか疑わしいほど冷たかった。
「傷口を洗え」
「平気だ、どうせすぐ治る」
「チッ。めんどくせえ奴」
既望は無頓着だが、烏丸は逃がさない。小さな怪我でも、汚れが入れば膿んで腐る。その傷口を氷のように冷たい川の水で洗い落としてやった。
すかさず出雲が懐から手拭いを出して川の水で浸し、既望の頬の傷を丁寧に拭う。
しばし体を硬直させ、既望は目を見開いていた。銀の双眸が小刻みに揺れる。
「……世話をかけてすまない」
「別に、お互い様だ」
「君たちの手は、温かいな」
「お前の肌が冷たすぎなんだ。飯、ちゃんと食ってんのか?」
「……そんな心配をされたのは、子供の頃以来だ」
しみじみとした口調で詫びる既望に、烏丸は鼻を鳴らして応えた。
出雲が顔をのぞき込み、不思議そうに首を傾げる。
「師匠、目が潤んでる。痛いの?」
確かに既望の目がわずかに潤み、銀の瞳が揺らいでいる。烏丸はぎょっとして、バツが悪そうに頭をかいた。
「傷でも染みたのか。……雑で悪かったな」
「違うのだ。……ただ、他人に利用されてばかりの人生だった。何の打算もない気遣いに触れたのが、久しぶりだっただけだ」
静かに目を伏せる既望の横で、烏丸と出雲は顔を見合わせる。
「そんなんで泣きそうになるなよ。腹が減っちまうだろうが」
「痛いの、飛んでいけ」
出雲が手拭いで既望の目元を軽く拭いてやると、既望はふっと顔を綻ばせた。
「涼しい顔して、意外と苦労人だな」
溜め息をつく烏丸の横で、出雲が小さく笑っていた。
その夜。羊歯を厚く敷き詰めた寝床に、三人は横になった。
奥の壁際に出雲。中央に烏丸。入り口側に既望が横たわっている。
烏丸は腕の中に短剣を抱き込み、扉に背を向けて出雲を守る体勢を取っていた。出雲の土と草の匂いが混じった寝息が聞こえる。
だが今は、背後に既望がいる。得体の知れない男だが、あの結界術と銀狐の力は強力な盾だ。その事実がもたらす安堵感が、烏丸の意識を深い微睡みへと引きずり込んでいく。
「ん……さむい……」
どれくらい眠っただろうか。背後から聞こえた出雲の寝言に、烏丸は即座に覚醒した。
入り口側で寝ていた既望も静かに身を起こす。
「おい……どうした」
烏丸が低く問うと、既望は自らの白い外套を脱ぎ、丸まった出雲の身体にふわりと掛けた。
「冬の冷え込みが堪えるのだろう」
既望は火の番をするように、少し離れた土間に座り直した。昼間、既望の頬にできていたはずの深い擦り傷は、すでに完全に塞がっている。
「お前、頬の傷は治ったのか」
「……ああ。面の皮が厚い分、大した傷ではなかった」
自分の頬を撫でながら、自嘲気味に既望は答えた。
「君も寒ければ、火の側に寄るか」
「俺はいい。獣の血が濃いから、この程度の寒さは平気だ」
「私も同じだ。毛皮の分、狐姿の方が暖かいかもしれんな」
既望の静かな声を聞きながら、烏丸は出雲の方へ寝返りを打つ。
既望の外套に包まれた出雲が、寝ぼけ眼を擦りながら烏丸を見つめていた。
「烏丸、起きてるの?」
「ああ。これ、あいつが掛けてくれたんだ」
出雲は外套の温もりに顔を埋め、小さく笑う。
「烏丸も、半分こする?」
「いいって。俺は寒くねぇ」
烏丸が断るのも聞かず、出雲は外套の端を引っ張り、烏丸の肩まで強引に引き上げた。
外套の下で、出雲の小さな手が、烏丸の武骨な指を探り当てて握りしめてくる。その柔らかな掌の確かな体温に触れ、烏丸は初めて、自分の指先がひどく冷え切っていることに気づいた。
「ほら、やっぱり我慢してた」
「……別に、我慢なんかしてねぇよ」
強がりではない。ただ、出雲を守り抜くことに必死で、自分の身体の限界にすら気づいていなかっただけだ。
「烏丸。今日も守ってくれてありがとう。……私ももっと霊術を覚えて、烏丸を守るからね」
出雲の握る手が、きゅっと力を増す。
気恥ずかしさに烏丸は目を逸らし、ただ身体を硬直させた。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
烏丸はそっと目を開ける。
月明かりに照らされた、泥に汚れた頬。極限の緊張から解放された静かな寝息。この手を離すまいと握りしめる彼女の確かな脈拍が、烏丸の凍えていた芯をゆっくりと溶かしていく。
背後からは、入り口で静かに息を潜める既望の気配がする。
烏丸は出雲の手を優しく握り返し、ゆっくりと目を閉じた。
誰かに背中を預けるという、とうに忘れていた安堵感。気づけば烏丸は、微睡みの底へと落ちていった。
既望が加わったこの暮らしは、季節の移ろいとともに、烏丸と出雲の脆い絆を、確かなものへと変えてゆくことになる。




