第4話 風来坊の親と月夜はいつも良い(1)
肺を焼くような冷気が、烏丸の不規則な息遣いと共に夜の森へ白く吐き出される。頭上を覆い尽くす常緑樹の隙間から、青白い望月の光が針のように射し込み、ぬかるんだ獣道をまだらに照らしていた。
烏丸の尖った聴覚が、背後から迫る複数の重い靴音と、下草を無造作になぎ払う刃物の風切り音を拾う。
「こっちだ!」
出雲の細い腕を引き、苔むした大木の根を飛び越える。追っ手は重武装の大人五人。手には刃こぼれした鉈や長剣が握られ、強烈な血と泥、そして酒の腐臭をまとっている。彼らの濁った目に映っているのは、二人の人間の子供ではない。戦場跡に群がる死肉食いにとって、孤児は奴隷商人へ売り飛ばすためのただの金貨だ。
暗闇と極限の恐怖により、出雲の視覚を操作する霊術は完全に沈黙している。背中に庇う彼女の身体が、小刻みに震えていた。
烏丸は踵を泥に食い込ませて急停止する。腰帯から引き抜いた刃こぼれだらけの短剣に、冷ややかな月光が滑った。
「金はない。一歩でも動けば、喉笛を裂く」
低い声で威嚇する。
先頭の男が黄ばんだ歯を剥き出しにして歪んだ笑みを浮かべ、錆びた鉈を高く振り上げた。烏丸が膝のバネを沈め、獣の領域へ踏み込もうとした刹那。
唐突に、血と泥の臭いを上書きして、甘く重い沈丁花の香りが鼻腔を打つ。
パキリ、と空気が凍てつく音がした。
男たちの頭上に、極小の銀の文字盤が幾重にも重なる幾何学陣が展開される。青白い閃光が弾け、光の線は無数の極細の鋼糸へと分裂し、驟雨となって降り注いだ。
実体を持たぬ銀の網が男たちの四肢に食い込み、強固に縫い留める。
「な、なんだこれは!」
「動けねぇ!」
男たちが地面を転げ回り、泥に塗れる。
呆気に取られる烏丸の視界の端で、月光を吸い込んだ純白の外套が翻った。
「――今のうちに」
涼やかな男の声が鼓膜を打つ。外套の主は烏丸と出雲の手首をつかむと、音もなく森の奥へと駆け出した。
暗闇の木立を縫う足取りに、一切の迷いはない。夜目が利いている。烏丸と同じ半獣の暗視能力だ。
追っ手の罵声が完全に遠退き、三人は月明かりの差し込む獣道で立ち止まった。
「……あんた、何者だ。俺たちを売る気なら、今のうちに殺すぞ」
烏丸が短剣の柄を握り直す。男は静かに外套のフードを下ろした。
烏丸は息を呑む。
フードの下からこぼれ落ちたのは、色素を持たない透徹した銀糸の髪だった。双眸には月光の破片が鈍く輝いている。女と見紛う精緻な輪郭だが、首筋から肩にかけての骨格には確かな男の筋力が宿っていた。
「既望という。ただの風来坊だ」
「さっきの奇妙な技は何だ」
「西部に伝わる結界術の応用だ。君のそれは、視覚の情報を操作する霊術だな」
既望の銀の瞳が、出雲を真っ直ぐに見下ろす。出雲は小さく息を吐き、一歩前に出た。
「助けていただき、ありがとうございます。私は出雲。……あの、さっき使ったのは、灰霄の霊術ですよね」
「そうだが」
「あなたの術を、教えていただけませんか。私には幻影を見せる術しかなく……導いてくれる師を探していたんです」
出雲の切実な声に、既望の美しい眉が微かに寄る。
「君たち、親無しか」
哀れみではない。どこか遠い記憶を探るような、ひどく静かな響きがあった。
「私も成人前に両親を亡くした。何かの縁だ。身を守る術くらいは教えてやろう。……君たちも、来るか」
「はい!」
出雲の即答に、烏丸は一拍遅れ、黙ってうなずいた。
この男の武力と術があれば、出雲が命の危険にさらされる確率は劇的に減る。打算に基づく、奇妙な三人暮らしの始まりだった。
数日後。戦火から逃れた三人は、深い森の奥で放棄された木こりの荒屋を根城に定めた。
傾いた屋根。塵埃とカビの匂い。だが、周囲を密集した木立が囲み、冬の刺すような寒風を防ぐには十分だ。
「なかなかの掘り出し物だ。野宿せずに済む」
既望が満足げに室内の埃を払う。
「魚が獲れそうな河原も近い。悪くない」
烏丸が窓枠の強度を確かめていると、出雲が外から乾燥した羊歯の葉を大量に抱えて戻ってきた。
「これで冷たい土間の上に敷布団が作れるよ」
泥で頬を汚した出雲の笑顔に、烏丸は短く息を吐き、肩の力を抜いた。
「さて、食糧調達だ。俺は河原で魚を獲ってくる」
「私も手伝う。師匠は?」
「私は森で山菜を探してこよう。日没前には食事を済ませたい」
既望が白の外套を翻し、森の奥へ消えていく。その背中を見送りながら、烏丸と出雲は河原へと足を向けた。
「……なあ、既望って人間だと思うか」
「え? どういうこと」
「あいつ、気配がないんだよ。足音も、枯れ葉を踏む音すらしねぇ。息を殺した猛獣だって殺気は漏れるもんだ」
烏丸は背後の森を鋭く振り返る。
「でも、師匠は私と同じ灰霄の民じゃないかな。霊術を使える人が多いんだ。髪色も灰色系だし」
出雲は足元の小石を蹴りながら、あっけらかんと言った。
烏丸の胸の奥では、鈍い警鐘が鳴り続けている。
善人の顔をした悪党など、この帝国には掃いて捨てるほどいる。もし女の出雲に手を出せば、即座にあの白い喉笛を掻き切る。烏丸は短剣の柄を親指で弾いた。
河原に出ると、冷ややかな水音が響いていた。
獣の感覚に切り替え、水面下の魚影を探していた烏丸の耳が、対岸の茂みが不自然に揺れる音を捉えた。
ズシン。
湿った土を踏み砕く重低音。
その気配に混じる強烈な飢餓感を、烏丸の研ぎ澄まされた感覚が捉える。
「出雲、離れてろ!」
烏丸は出雲を背後に突き飛ばす。
対岸から河原の砂利を踏み越えて現れたのは、眼を血走らせた巨大な雄熊だった。体長は優に二メートルを超える。ひどく痩せ細り、獣特有の強烈な体臭が風に乗って鼻腔を突いた。
獰猛な瞳は、完全に二人を餌と定めている。
目が合った瞬間、熊が猛突進を始めた。
烏丸は剣を引き抜き、腹の底から威嚇の咆哮を上げる。
だが、飢餓に駆られた巨獣は止まらない。丸太のような剛腕が風を裂いて振り下ろされた。
烏丸は剣の腹で受け流そうとする。しかし、圧倒的な質量の前では小手先の技術など無意味だった。
ガァン!
金属が軋む音と共に、烏丸の身体は宙を舞い、冷たい河原の砂利に叩きつけられた。全身の骨が悲鳴を上げる横で、折れた剣の切先が転がり金属音を立てる。
「烏丸!」
出雲の悲鳴。
熊の巨体が、烏丸に覆い被さろうと立ち上がる。視界を覆い尽くす黒い影。
出雲を守る。その感情だけが、烏丸の恐怖を塗り潰した。
必死に腕を伸ばして折れた剣を握り直し、死を覚悟して地面を蹴ろうとした刹那。
「退きなさい!」
出雲が両手を前へ突き出した。彼女の掌から放たれた未熟な銀煙が、熊の眼球の直前で破裂する。一瞬の幻覚に惑わされた熊が、苛立ちに咆哮を上げて腕の軌道を逸らした。
その僅かな隙を、一条の銀の閃光が突き刺す。
ドスッ!
熊の背に乗り、その太い首筋に深々と牙を立てたのは、熊より一回り小さい銀色の狐だった。
美しい銀の体毛。ふっさりとした長い尻尾。狐の口から漏れるうなり声が、空気をビリビリと震わせる。
血飛沫が舞い、首を裂かれた雄熊は錯乱して地面を転がり、腕を振り回す。それでも銀狐は背中に喰らい付いて離れない。
致命傷を負った熊は悲鳴を上げながら森の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った河原で、銀の狐は優雅に尻尾を振ると、その姿を水が溶けるように変化させた。




