第3話 月にあえぐ雲 ー出雲Sideー
夕闇がはい寄る岩穴に、烏丸が忌々しげに舌打ちをして戻ってきた。
出雲の目を引いたのは、平たい石を握る手ではなく、彼の右袖だった。
ただ一着の黒い着物が肩口から縦に無残に裂け、皮膚の下からのぞく、ぬけ落ちた漆黒の羽根が寒風にさらされている。
獲物を追って深いトゲの藪を突ききった代償だった。
「チッ。一番丈夫な布地だったんだがな」
烏丸は破れた袖をうとましそうにたくし上げると、無言で火の番を始めた。
出雲はその背中を静かに見つめる。
野山での生存術において、出雲は烏丸に頼りきりだ。
だが、ただ守られるだけの荷物になるつもりはない。裁縫の針も糸もないこの状況下でも、知恵ならしぼれる。
*
翌日の日中、烏丸が沢へワナを仕かけに向かった隙に、出雲は行動を起こした。
岩穴の周辺を探しまわり、冬の寒さに引きしまった硬い細枝を拾い集める。小石の鋭い角を使って先端をけずり出し、骨針のように鋭利な道具を作りあげた。
糸の代用には、前日収穫した藤のツルを用いる。外皮をはぎ、中の繊維を一本ずつ手で細くさいて水にさらす。指先で何度も引っぱり、極限まで強度を高めた太い一本の糸へと編みあげた。
岩穴の口に座りこみ、烏丸がぬぎ捨てた着物を膝に広げる。
分厚く硬い生地に、手製の木の針をねじこむ。両手に体重をのせ、布の繊維を押し広げるようにつきたてる。
プツッ。
嫌な音とともに、力あまって弾けた木の針が、出雲の左手の人さし指の腹を深くうがった。
ぷつりと皮が破れ、傷口から光沢を放つ血が玉となって浮かびあがる。
西部・灰霄の血脈を引く者だけに流れる、特異な銀灰色の血だった。
出雲は顔色を変えず、傷口を強く吸って血をぬぐった。
生きのびるためにともなう痛みに、頓着している余裕はない。
すぐさま針を拾い直し、血の止まらない指で再び生地へ突き立てる。
粗いツルの糸が、裂けた黒い生地を無骨に、しかし強靭につなぎ合わせていく。
*
夕刻、岩穴に戻った烏丸は、さし出された己の着物を見て足を止めた。
不格好だが、簡単には解けないよう重厚に縫い合わされた袖口。
「木の枝とツルで縫った。これで風はしのげるよ」
出雲が淡々と告げる。
烏丸は目を見はり、着物を受け取った。
その視線が、袖口に付着した微細な銀灰色の斑点と、はれあがった出雲の指先をとらえる。
「……手の汚れを落とせ。化膿するぞ」
烏丸は出雲の手首をつかみ、沢の清流へと引いていった。
冷たい水の中にはれた指を沈め、銀灰色の血を丁寧に洗い流す。
続いて、みずからの首に巻いていた布を裂き、指先を固く縛りあげた。
「ありがとう、烏丸」
「こっちのセリフだ」
怒鳴ることも、あきれることもない。
ただ、生存のための処置を淡々とこなす手つきには、出雲の作業にたいする確かな敬意がまじっていた。
「……頑丈な縫い目だ。助かった」
明後日の方向を見ながら烏丸がぼそりと告げる。手作りの糸で縫われた袖はつっぱっていたが、冷たい隙間を見事にふさいでいた。
殺伐とした戦乱の世で、二人の共同生活は互いの欠落を補い合いながら続いていった。
*
季節が真冬のどん底に落ちこむと、山は死の世界へと変貌した。
山をけずる寒風が岩穴の入り口でうなりをあげ、吹きこむ粉雪が積もった枯れ葉を白くうめつくす。凍結した沢からは水音が消え、獣の気配もとだえた。
小さくおこしたたき火のかたわらで、烏丸が出雲のさし出した干し肉を無言で押し返した。
烏丸の腹の奥から、乾いた胃が鳴る音がかすかにもれる。彼がまともな獲物を口にしていないことは、出雲には明白だった。
翌朝になると、烏丸が吹雪の合間を縫って尾根へ向かった後、出雲は岩穴をぬけ出した。
頭に布を巻き、新雪に足を沈めながらヤマドリの通り道をめざす。
極寒の冬、鳥や獣も体力をけずられ、警戒心がにぶる。己の力でも食料を得る好機だった。
雪にうもれた倒木の陰にひそみ、冷気に感覚を奪われていく指先をこすり合わせながら待つ。
やがて、藪の奥から丸々と太ったヤマドリが姿をあらわした。餌を求め、出雲のしかけたツルのワナへと近づいてくる。
あと三歩。
しかし、鳥が雪をふむわずかなきしみを察知し、首を鋭くもたげた。
逃がすわけにはいかない。
出雲は前にふみ出し、己の血脈に眠る力へ意識を集中させた。
頭の奥が焼けるように熱くなり、出雲の両手から己の視覚にしか映らぬ銀色の煙が立ちのぼる。
鳥に悟られぬよう吐息に小さく詠唱をまぜる。
烏丸の前で見せた灰霄の秘術───『幻影』の霊術。
空間の光を屈折させ、ヤマドリの眼前に巨大な岩壁の幻を構築する。銀煙が幾何学的な紋様を描いて空中で結像し、鳥の視界を完全にふさいだ。
混乱したヤマドリが羽をばたつかせ、ワナの輪の中へみずから飛びこむ。
ツルが作動し、鳥の足を高く吊りあげた。
「よし……っ痛……」
獲物をしとめた達成感よりも早く、脳髄をたたき割るような激痛が出雲をおそった。
正統な訓練を経ていない子供の霊術は、生命力そのものを燃料として燃やす。
急激な体温の低下と霊力枯渇が同時に押し寄せ、出雲の膝が折れた。
雪面に顔からくずれ落ちる。
手足が鉛のように重く、指先一つ動かせない。
意識が急速に白く染まっていく。
*
どれほどの時間が過ぎただろうか。
雪を蹴りとばす激しい足音とともに、出雲の身体が乱暴に引き起こされた。
目を開けると、血の気の引いた烏丸の顔があった。
「出雲!しっかりしろ!死ぬな!」
烏丸は即座に彼女を背負いあげ、半獣の脚力で雪山を駆け戻った。
岩穴にすべりこみ、残りの柴薪をすべて火にくべる。炎が赤く燃えあがり、凍てついた空気を強引に温めた。
烏丸は出雲の濡れた上着をはぎ取り、己の着物と藁の中に包みこむ。
みずからも横にすべりこみ、凍えきった出雲の背中へ自身の胸板を密着させた。
野生の血を引く彼の身体は、炉の火のように熱い。烏丸の無骨な掌が、出雲の凍てついた指先を必死に包みこんでこすり合わせる。
「……捕まえた獲物は」
震える唇で出雲が問うと、烏丸の腕にぎゅっと力がこもった。
「あぁ。立派なヤマドリがワナにかかってた。お前の手柄だ」
烏丸の声には怒りではなく、深い安堵がにじんでいた。
「だが、お前が死んだら、せっかくの獲物も喉を通らなくなる」
烏丸の体温と、力強い鼓動が背中から直接伝わってくる。
「次からは、俺がいる時に霊術を使え。たおれても、俺が必ず担いで戻ってやる」
それは、一方的な庇護ではない。ともに戦い、ともに生き残るための対等な約束だった。
「うん......これからは、そうする。ありがとう」
「......こっちのセリフだ」
出雲は烏丸の腕の中で目を閉じる。
自分の力を正しく制御し、彼の隣に胸を張って立つ。
その固い決意が、出雲の胸の中で確かに根を下ろした。
*
冬が終わり、山に芽吹きの春がおとずれた頃。
山のふもとから、連日のように黒い煙が立ちのぼるようになった。黒曜帝国の軍勢と市民勢力の衝突が本格化し、あぶれた野盗や人買いの群れが奥山へまで侵入し始めていた。
春の空気に、血と腐臭がいりまじる。
「この山も危ねえな」
烏丸が低くつぶやき、荷物をまとめる。
「もっと深い北西の森へ移動するぞ」
「月守様がいらっしゃる、中央の八光丘に行きたい」
「ダメだ。あそこは大きな街があって兵隊も多くて危険だ」
警戒心をあらわにした烏丸に、出雲は唇を噛む。
「霊術を教えてくれる人に出会いたい。もっと使いこなせたら、食料を取れるし、烏丸のことも守れる」
「俺の心配はいらねえ。自分の身は自分で守れる。それに、お前は十分よくやってる」
世辞を言わない烏丸が労ってくれる言葉に、出雲は嬉しいと思う反面、やはり未熟な術を磨きたい気持ちが増していた。
いつも側にいて、自分の危機ほど体を張ってくれる烏丸と、ずっと一緒にいるために。
奪われた家族のように、なじんできたこの身内を、二度と失わないために。
二人の連携は、冬をこえて格段に向上していた。
だが、せまり来る戦争という巨大な暴力の前では、まだあまりに非力だ。
新たな力を求め、二人は住み慣れた岩穴を後にし、濃密な緑が支配する西の深林へと足をふみ出していった。
そして運命の風が、銀の狐を呼び寄せる。
<タイトル/慣用句>
呉牛月に喘ぐ:
暑さを嫌う中国・呉の水牛が、夜空の月を太陽と見間違えて、苦しそうにハアハアと息を荒くする様子。転じて、思い過ごしをして取り越し苦労をすることや、必要以上にびくびくしておびえる例え。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/na6e674e37d0e




