第3話 月にあえぐ雲
夕闇が這い寄る岩穴に、烏丸が忌々しげに舌打ちをして戻ってきた。
出雲の目を引いたのは、平たい石を握る手ではなく、彼の右袖だった。ただ一着の黒い着物が肩口から縦に無残に裂け、皮膚の下からのぞく、抜け落ちた漆黒の羽根が寒風にさらされている。獲物を追って深い棘の藪を突き切った代償だった。
「チッ。一番丈夫な布地だったんだがな」
烏丸は破れた袖を疎ましそうにたくし上げると、無言で火の番を始めた。
出雲はその背中を静かに見つめる。
野山での生存術において、出雲は烏丸に頼りきりだ。だが、ただ守られるだけの荷物になるつもりはない。裁縫の針も糸もないこの状況下でも、知恵なら絞れる。
翌日の日中、烏丸が沢へ罠を仕掛けに向かった隙に、出雲は行動を起こした。
岩穴の周辺を探し回り、冬の寒さに引き締まった硬い細枝を拾い集める。小石の鋭い角を使って先端を削り出し、骨針のように鋭利な道具を作り上げた。
糸の代用には、前日収穫した藤の蔓を用いる。外皮を剥ぎ、中の繊維を一本ずつ手で細く割いて水にさらす。指先で何度も引っ張り、極限まで強度を高めた太い一本の糸へと編み上げた。
岩穴の口に座り込み、烏丸が脱ぎ捨てた着物を膝に広げる。
分厚く硬い生地に、手製の木の針をねじ込む。両手に体重を乗せ、布の繊維を押し広げるように突き立てる。
プツッ。
嫌な音と共に、力余って弾けた木の針が、出雲の左手の人差し指の腹を深く穿った。
ぷつりと皮が破れ、傷口から光沢を放つ血が玉となって浮かび上がる。
西部・灰霄の血脈を引く者だけに流れる、特異な銀灰色の血だった。
出雲は顔色を変えず、傷口を強く吸って血を拭った。生き延びるために伴う痛みに、頓着している余裕はない。
すぐさま針を拾い直し、血の止まらない指で再び生地へ突き立てる。粗い蔓の糸が、裂けた黒い生地を無骨に、しかし強靭につなぎ合わせていく。
夕刻。
岩穴に戻った烏丸は、差し出された己の着物を見て足を止めた。不格好だが、簡単には解けないよう重厚に縫い合わされた袖口。
「木の枝と蔓で縫った。これで風はしのげるよ」
出雲が淡々と告げる。
烏丸は目を見張り、着物を受け取った。その視線が、袖口に付着した微細な銀灰色の斑点と、腫れ上がった出雲の指先を捉える。
「……手の泥を落とせ。化膿するぞ」
烏丸は出雲の手首をつかみ、沢の清流へと引いていった。
冷たい水の中に腫れた指を沈め、銀灰色の血を丁寧に洗い流す。続いて、自らの首に巻いていた布を裂き、指先を固く縛り上げた。
怒鳴ることも、呆れることもない。ただ、生存のための処置を淡々とこなす手つきには、出雲の作業に対する確かな敬意が混じっていた。
「……頑丈な縫い目だ。助かった」
明後日の方向を見ながら烏丸がぼそりと告げる。手作りの糸で縫われた袖は突っ張っていたが、冷たい隙間を見事に塞いでいた。
殺伐とした戦乱の世で、二人の共同生活は互いの欠落を補い合いながら続いていった。
季節が真冬のどん底に落ち込むと、山は死の世界へと変貌した。
山を削る寒風が岩穴の入り口でうなりを上げ、吹き込む粉雪が積もった枯れ葉を白く埋め尽くす。凍結した沢からは水音が消え、獣の気配も途絶えた。
小さくおこした焚き火の傍らで、烏丸が出雲の差し出した干し肉を無言で押し返した。
烏丸の腹の奥から、乾いた胃が鳴る音が微かに漏れる。彼がまともな獲物を口にしていないことは、出雲には明白だった。
翌朝、烏丸が吹雪の合間を縫って尾根へ向かった後、出雲は岩穴を抜け出した。
頭に布を巻き、新雪に足を沈めながらヤマドリの通り道を目指す。極寒の冬、鳥や獣も体力を削られ、警戒心が鈍る。己の力でも食料を得る好機だった。
雪に埋もれた倒木の陰に潜み、冷気に感覚を奪われていく指先を擦り合わせながら待つ。
やがて、藪の奥から丸々と太ったヤマドリが姿を現した。餌を求め、出雲の仕掛けた蔓の罠へと近づいてくる。
あと三歩。
しかし、鳥が雪を踏む僅かなきしみを察知し、首を鋭くもたげた。
逃がすわけにはいかない。
出雲は前に踏み出し、己の血脈に眠る力へ意識を集中させた。
頭の奥が焼けるように熱くなり、出雲の両手から己の視覚にしか映らぬ銀色の煙が立ち昇る。
鳥に悟られぬよう吐息に小さく詠唱を混ぜる。
烏丸の前で見せた灰霄の秘術――『幻影』の霊術。
空間の光を屈折させ、ヤマドリの眼前に巨大な岩壁の幻を構築する。銀煙が幾何学的な紋様を描いて空中で結像し、鳥の視界を完全に塞いだ。
混乱したヤマドリが羽をばたつかせ、罠の輪の中へ自ら飛び込む。蔓が作動し、鳥の足を高く吊り上げた。
「よし……っ痛……」
獲物を仕留めた達成感よりも早く、脳髄を叩き割るような激痛が出雲を襲った。
正統な訓練を経ていない子供の霊術は、生命力そのものを燃料として燃やす。急激な体温の低下と霊力枯渇が同時に押し寄せ、出雲の膝が折れた。
雪面に顔から崩れ落ちる。
手足が鉛のように重く、指先一つ動かせない。
意識が急速に白く染まっていく。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
雪を蹴り飛ばす激しい足音と共に、出雲の身体が乱暴に引き起こされた。
目を開けると、血の気の引いた烏丸の顔があった。
「出雲!」
烏丸は即座に彼女を背負い上げ、半獣の脚力で雪山を駆け戻った。
岩穴に滑り込み、残りの柴薪を全て火にくべる。炎が赤く燃え上がり、凍てついた空気を強引に温めた。
烏丸は出雲の濡れた上着を剥ぎ取り、己の着物と藁の中に包み込む。自らも横に滑り込み、凍え切った出雲の背中へ自身の胸板を密着させた。
野生の血を引く彼の身体は、炉の火のように熱い。烏丸の無骨な掌が、出雲の凍てついた指先を必死に包み込んで擦り合わせる。
「……捕まえた獲物は」
震える唇で出雲が問うと、烏丸の腕にぎゅっと力がこもった。
「あぁ。立派なヤマドリが罠にかかってた。お前の手柄だ」
烏丸の声には怒りではなく、深い安堵がにじんでいた。
「だが、お前が死んだら、せっかくの獲物も喉を通らなくなる」
烏丸の体温と、力強い鼓動が背中から直接伝わってくる。
「次からは、俺がいる時に霊術を使え。倒れても、俺が必ず担いで戻ってやる」
それは、一方的な庇護ではない。共に戦い、共に生き残るための対等な約束だった。
出雲は烏丸の腕の中で目を閉じる。
自分の力を正しく制御し、彼の隣に胸を張って立つ。その固い決意が、出雲の胸の中で確かに根を下ろした。
冬が終わり、山に芽吹きの春が訪れた頃。
山の麓から、連日のように黒い煙が立ち上るようになった。黒曜帝国の軍勢と市民勢力の衝突が本格化し、あぶれた野盗や人買いの群れが奥山へまで侵入し始めていた。
春の空気に、血と腐臭の匂いが混じる。
「この山も危ねえな」
烏丸が低くつぶやき、荷物をまとめる。
「もっと深い北西の森へ移動するぞ」
「月守様がいらっしゃる、中央の八光丘に行きたい」
「ダメだ。あそこは大きな街があって兵隊も多くて危険だ」
警戒心を顕にした烏丸に、出雲は唇を噛む。
「霊術を教えてくれる人に出会いたい。もっと使いこなせたら、食料を取れるし、烏丸のことも守れる」
「俺の心配はいらねえ。自分の身は自分で守れる。それに、お前は十分よくやってる」
世辞を言わない烏丸が労ってくれる言葉に、出雲は嬉しいと思う反面、やはり未熟な術を磨きたい気持ちが増していた。
いつも側にいて、自分の危機ほど体を張ってくれる烏丸と、ずっと一緒にいるために。
奪われた家族のように、馴染んできたこの身内を、二度と喪わないために。
二人の連携は、冬を越えて格段に向上していた。
だが、迫り来る戦争という巨大な暴力の前では、まだあまりに非力だ。
新たな力を求め、二人は住み慣れた岩穴を後にし、濃密な緑が支配する西の深林へと足を踏み出していった。
――そして運命の風が、銀の狐を呼び寄せる。




