第2話・後編 籠鴉、雲を恋う
季節がゆっくりと冬へ傾き始めた頃。
西の国境に近いこの森の空気は、日増しにきな臭さを濃くしていった。
稜線の向こう側、山間部の夜空が不気味な赤銅色に染まる夜が続く。東風に乗って届くのは、焼き払われる木々の爆ぜる音と、遠い凄惨な怒号だった。
昼下がり。烏丸と出雲は身をひそめたシダの群生から、崖下を通る細い街道を見下ろしていた。
列をなして歩かされているのは、黒曜領から連行された市井の男たちだ。農具を奪われ、頼りない木槍を持たされた顔に生気はない。前後を固める重装歩兵が、容赦なくムチをふるう。
「歩け! 東の翠樹のふぬけどもはすでに我が軍が平らげた!」
兵士の枯れた怒声が谷間にひびく。
「次は貴様らが南の紅灼領で肉の盾となる番だ! いずれは、厄介な霊術師がひそむ西の果て、灰霄領を完全に火の海にしてやる!」
その言葉に出雲の肩が強くはねた。烏丸はとっさに彼女の口を指でふさぎ、背後から抱きかかえるようにして気配を消す。
押し寄せる戦火の硝煙が山すそを黒く染めあげ、山柿の森からは食える果実がひとつ残らず消え去っていた。
帝国軍の徴兵の網から逃れるため、ふたりはより標高の高い奥山へ足を進めるしかない。
鋭い小石が散らばる獣道を、出雲の足がふみしめる。
爪先からにじみ出る血を泥と埃で汚しながらも、彼女は一度として弱音を吐かなかった。荒い息を殺し、必死についてくる足音に烏丸の胸がうずく。
先頭を行く烏丸の後方で、ふと出雲の足音がとだえた。すぐさまふり返ると、彼女は湿ったコケの上へ慎重にしゃがみこんでいる。
出雲の視線の先にいたのは、一羽の小さな黒い鴉だった。
羽を丸め、琥珀色のつぶらな瞳を小刻みに動かしながら、出雲をじっと見つめ返している。
「見て、烏丸。あなたの友達がいるよ」
「友達じゃねえ。俺はそいつらに嫌われてる」
野生の鴉が人間に無防備に近づくのは珍しい。奴らは利口な分、人間を克明に観察し、敵と見なせば絶対に警戒を解かない。
なにより、半獣である己の異質さを、野生の鳥たちは本能で察知して遠ざかるのだ。
「烏丸は、カラスと言葉が通じたりするの?」
「通じねえよ。ただ、あいつらの習性と、なにを考えてるかがなんとなく分かるだけだ」
ふり返った出雲の瞳には、いっさいの偏見もない純粋な好奇心が宿っていた。そのまっすぐな視線に気押され、烏丸は気まずくなって横を向く。
「むやみに気を許すな。カラスは群れの中で『味方』と『敵』の情報を共有する。一度でも敵とみなされたら、どこまでも集団で追いかけまわされるぞ」
「追いかけまわされたことがあるみたいな言い方」
ふふ、とおかしくなったように笑う出雲。
その頭上で、もう一羽の小さな黒鴉が翼を休めたまま、逃げる素ぶりすら見せずに、地面の番とふたりを見守っていた。
「あのカラスは、この子の家族なのかな」
「たぶんな。群れから離れて二羽でいるカラスは、もう番になってる。一度決めた相手とは死ぬまで離れない。一緒に子育てして、縄張りを作って暮らすんだ」
「烏丸も、番ができたらそうなるのかな」
「あほか。半獣と番いたい女なんてこの世にいねえよ。生まれるガキが半獣かもしれねえだろ」
吐き捨てる烏丸に、出雲は小さく首をかしげた。
「どうして?半獣の子供は、フワフワしてかわいいと思うのに」
のん気な発想に、烏丸はあきれて息を吐いた。異郷生まれの少女は、この国における半獣の残酷なあつかいを知らなさすぎる。
「半獣がいる家は余分に課税されるんだ。まともな仕事にもつけないから、一生日陰でお守りをするか、奴隷商人に金を払って厄介払いするしかない。百害しかねえよ」
それに、と口には出せない苦い事実が脳裏をよぎる。
半獣と番った人間も『穢れた者』と見なされ、等しく迫害される。自分を産んで捨てた母親には、恨みよりも同情に近い冷めた感情しかなかった。
「私はそう思わない」
この国の現実を伝えても、出雲はゆらぐことなく答えた。烏丸から地面の鴉へ視線を戻す。
「自分の子供が空を飛べたら、戦火から無傷で逃がせるでしょう? 親がいなくても、烏丸みたいに自力で生きのびられるし……カラスの半獣親子なら、一緒に空を飛んで逃げることもできる」
両親の手で命を託され、なんとか生きのびてきた日々を重ね合わせているのか、出雲はどこか遠い目をして鴉を見つめていた。
自分が親になることなど考えたこともない烏丸にとって、出雲の言葉はあまりにまぶしく、予期せぬものだった。不吉で穢らわしいと蔑まれてきた己の獣性が、まるで祝福された宝物であるかのように錯覚しそうになる。
十数年を孤立して生きてきた己のゆがんだ本能が、それは危険な毒だと警鐘を鳴らす。すでに骨の髄までこびりついた自己否定を、そう簡単にぬぐうことなどできなかった。
湿った冷気が肌をなでた。見上げると、どんよりとした雲の流れが早まっている。
「日が暮れる。雨が降り出す前に先を急ぐぞ」
背を向けて歩き出すと、出雲はカラスの番に小さく手をふり、後をついてくる。
爪先を痛めても決して痛がろうとしない彼女の足取りに合わせ、烏丸は黙って、一番傾斜のゆるやかな道を選びながら奥山へと登っていった。
*
日暮れ前。ふたりはせせらぎの音がひびく沢筋で、巨大な黒岩が庇となって張り出した岩穴を見つけた。奥は深く、雨風をさえぎるには十分な広さがある。
烏丸が出雲の作った笹の籠で山栗や乾いた落ち葉を集め、岩穴の奥に敷きつめた。寝床を完成させる頃には雨が降り出していた。
「今夜はここで寝るぞ」
日が落ちると、山の空気は骨をけずる冷気に変わる。
石を組み合わせた炉に火をおこし、ふたりは交代で火の番をした。パチパチと爆ぜる乾いた竹の音と、オレンジ色の炎が出雲の灰色の髪をかすかに染める。
烏丸がゆらめく影を見つめていると、横で小さく息を吐く出雲の頭が、カクンと彼の肩へ落ちてきた。
その華奢な重みをくずさないよう、烏丸は身動きを絶ち、夜が明けるまでじっと炎を見つめ続けた。
*
翌日になると、本格的な肉の糧を得るため、烏丸はひとりで沢を離れた。
日陰の岩場で着物をぬぎ捨てる。
体内の異形がうごめき、皮膚の裏から漆黒の羽毛がいっせいに突き出した。骨格が異音を立ててゆがみ、四肢が収縮する。
影を呑みこむ巨大な翼を広げ、黒鴉の変身を果たすと、風を切って上空へ飛び立った。
視界いっぱいに広がる針葉樹の海。研ぎ澄まされた鳥の眼球が、藪の隙間をはねる灰色の影をとらえた。
肥えた野ウサギだ。
烏丸は両翼をたたみ、落石の勢いで急降下した。
土を蹴る直前、鋭利な鉤爪がウサギの首筋をとらえる。首骨のくだけるにぶい音が、確かな手応えとして爪先に伝わった。
着物を羽織り直し、烏丸は獲物の脚をつかんで岩穴へと戻った。
「出雲、獲れたぞ」
岩穴の口で火の準備をしていた出雲がふり向く。
だが、死体を目にした瞬間、彼女の顔から表情がぬけ落ちた。
「……かわいそう」
「甘ぇこと言うな。食わなきゃ俺たちが死ぬ」
烏丸は腰から小刀を抜くと、躊躇なくウサギの首元に刃をつき立てた。毛皮を割き、内部の肉をはぎ取っていく。
暗赤色の粘質な血が、乾いた岩肌に染みを広げた。
鉄のさびた異臭が微風にのる。
「……っ!」
出雲の呼吸が突如として引きつった。
烏丸は本能的にその異音に視線を上げる。
瞳孔が限界まで開き、焦点が虚空をさまよい始める。出雲は自分の喉をかきむしるように押さえ、その場にくずれ落ちて過呼吸を起こした。
「おい、出雲!?」
小刀を置き、烏丸が駆け寄る。
出雲は両手で頭をかかえこみ、悪寒におそわれて小刻みに震えていた。
細い指先が、無意味に地面の草をちぎり取る。
「ご、ごめん……っ、私、血の匂いが……」
出雲の声はひどくかすれ、歯の根が合わずにガチガチと鳴っていた。
「兵隊たちが……みんなの首を……血が、いっぱい……」
首をはねられ、地面を赤く染めあげた大量の鮮血でも故郷で目にしたのか。
彼女の視界は今、凄惨な惨劇のまっただ中にぬい止められていた。
烏丸の胸の奥が、冷たい針で刺されたような痛みを帯びる。
生きのびるために気丈にふるまっていた少女が抱える、決してふさがらない傷口を突きつけられた瞬間だった。
烏丸は短く息を吐き出すと、ウサギの死体を自分の身体で完全に隠した。
「ここには兵隊なんかいねえ。俺とお前だけだ。敵が来たら追い払ってやる」
「……うん」
出雲の呼吸が落ち着くまで、その震えるやせた背中をなでてやる。
しばらくして顔色が戻り、息が安定したのを見計らい声をかける。
「……出雲、飯ができるまで、沢の向こうへ行ってろ。水の音でも聞いて頭を冷やしてこい」
「でも……っ」
「いいから行け。何かあれば大声を上げろ。すぐ飛んでいくから」
烏丸は背を向けたまま、乱暴に手をふった。
出雲は何度も首をふりながら後ずさり、ふらつく足取りで沢のせせらぎの方へと去っていった。
ひとり残された岩穴。視線の先に置かれた、出雲お手製の即席の籠。
烏丸は静かに小刀を握りなおす。生臭さが鼻腔をつく。
だが、もう迷いはなかった。
この世界に満ちる血の臭いは、己が引き受ければいい。手が血で汚れようと、あの灰色の髪の少女に、火の通った温かい肉を食わせるために。
出雲を助けることに、不快感はない。いちいち嬉しそうに目を輝かせる彼女に、頼られるという心地よさを覚えていた。
烏丸は丁寧に必要な肉だけを切り分け、岩穴のこけむした上部から流れてくる細い水流で血を完全に洗い流した。
臭みを消すために山菜の根をすり潰し、肉にすりこむ。
串枝に刺してたき火の遠火でじっくりとあぶり、皮目が香ばしく爆ぜるまで時間をかけた。
*
血の痕跡をそぎ落とした狐色の焼き肉を持って、烏丸は沢へ向かった。
岩に座り、流れる水面を見つめていた出雲の隣に腰を下ろす。
「ほら。血なんかどこにもねぇぞ」
さし出された木の串を見て、出雲は息を飲んだ。焦げ目のついた肉からは、ただ香ばしい脂の匂いだけが漂っている。
「……烏丸」
「食え。冷めたら硬くなる」
出雲は震える手で串を受け取り、小さくかじりついた。
彼女はあふれそうになる涙を必死にこらえながら、何度もうなずいて肉を噛みしめた。
「おいしい……ありがとう、烏丸……」
「ふん」
烏丸はそっぽを向き、自分の分の肉を口に放り込んだ。
口の中に広がる肉汁と熱。ひとりで食べる時より、味わって噛みしめる。
山を渡る風が、ふたりの頭上を静かに吹きぬけていく。
過酷な現実の中で、ふたりが肩を寄せ合う岩穴の灯火は、小さいけれど、確かに暖かかった。
<タイトル/慣用句>
籠鳥雲を恋う(ろうちょうくもをこう):
自由を奪われた者が、外の世界や自由な暮らしを強く憧れ望むこと、または遠い故郷を恋しく思う気持ちを意味。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n00ecb53c52d7




