第2話 籠の鴉、雲を恋う(2)
季節が冬へ傾き始めた頃。
西の国境に近いこの森の空気は、日増しにきな臭さを濃くしていった。
稜線の向こう側、山間部の夜空が不気味な赤銅色に染まる夜が続く。東風に乗って、木材の爆ぜる音と凄惨な怒号が森の奥まで届いた。
ある昼下がり。
烏丸と出雲は身を潜めたシダの葉の隙間から、崖下を通る細い街道を見下ろしていた。
列をなして歩かされているのは、黒曜領の成人男たちだ。農具を取り上げられ、粗末な槍を持たされた彼らの顔に生気はない。前後を固める重装歩兵が、容赦なく鞭を振るう。
「歩け! 東の翠樹の腑抜けどもはすでに我が軍が平らげた!」
兵士のかれた怒声が森に響く。
「次は貴様らが南の紅灼領で肉の盾となる番だ! いずれは、厄介な霊術師が潜む西の果て、灰霄領を完全に火の海にしてやる!」
その言葉に出雲の肩が強く跳ねた。
烏丸は咄嗟に彼女の口を塞ぎ、気配を殺す。
押し寄せる戦火の硝煙が山裾を黒く染め上げ、柿の木の森からは食える果実が一つ残らず消え去った。
徴兵の網から逃れるため、二人はより標高の高い奥山へと足を進めるしかなかった。
鋭い小石が散らばる獣道を、出雲の傷だらけの足が踏みしめる。爪先から滲む血を土で汚しながら、彼女は一度も泣き言をこぼさなかった。
日暮れ前。
二人はせせらぎの音が響く沢筋で、巨大な黒岩が庇となって張り出した岩穴を見つけた。奥は深く、雨風を遮るには十分な広さがある。
烏丸が出雲の作った笹の籠で山栗や乾いた落ち葉を集め、岩穴の奥に敷き詰めた。
「今夜はここで寝るぞ」
日が落ちると、山の空気は骨を削る冷気に変わる。
石を組み合わせた炉に火をおこし、二人は交代で火の番をした。パチパチと爆ぜる乾いた竹の音と、オレンジ色の炎が出雲の灰色の髪をかすかに染める。
烏丸が揺らめく影を見つめていると、横で小さく息を吐く出雲の頭が、カクンと彼の肩へ落ちてきた。
その華奢な重みを崩さないよう、烏丸は身動きを絶ち、夜が明けるまでじっと炎を見つめ続けた。
翌日。
本格的な肉の糧を得るため、烏丸は一人で沢を離れた。
日陰の岩場で着物を脱ぎ捨てる。
体内の異形がうごめき、皮膚の裏から漆黒の羽毛が一斉に突き出した。骨格が異音を立てて歪み、四肢が収縮する。
影を呑み込む巨大な翼を広げ、黒鴉の変身を果たすと、風を切って上空へ飛び立った。
視界いっぱいに広がる針葉樹の海。
研ぎ澄まされた鳥の眼球が、藪の隙間を跳ねる灰色の影をとらえた。肥えた野ウサギだ。
烏丸は両翼を畳み、落石の勢いで急降下した。
土を蹴る直前、鋭利な鉤爪がウサギの首筋を捉える。首骨の砕ける鈍い音が、確かな手応えとして爪先に伝わった。
着物を羽織り直し、烏丸は獲物の脚を掴んで岩穴へと戻った。
「出雲、獲れたぞ」
岩穴の口で火の準備をしていた出雲が振り向く。
だが、死体を目にした瞬間、彼女の顔から表情が抜け落ちた。
「……かわいそう」
「甘ぇこと言うな。食わなきゃ俺たちが死ぬ」
烏丸は腰から小刀を抜くと、躊躇なくウサギの首元に刃を突き立てた。毛皮を割き、内部の肉を剥ぎ取っていく。
暗赤色の粘質な血が、乾いた岩肌に染みを広げた。
鉄の錆びた異臭が微風に乗る。
「……っ!」
出雲の呼吸が突如として引きつった。
烏丸は本能的にその異音に視線を上げる。
瞳孔が限界まで開き、焦点が虚空をさまよい始める。出雲は自分の喉を掻きむしるように押さえ、その場に崩れ落ちて過呼吸を起こした。
「おい、出雲!?」
小刀を置き、烏丸が駆け寄る。
出雲は両手で頭を抱え込み、悪寒に襲われて小刻みに震えていた。
泥にまみれた指先が、無意味に地面の草を千切り取る。
「ご、ごめん……っ、私、血の匂いが……」
出雲の声はひどくかすれ、歯の根が合わずにガチガチと鳴っていた。
「兵隊たちが……みんなの首を……血が、いっぱい……」
首をはねられ、地面を赤く染め上げた大量の鮮血でも故郷で目にしたのか。
彼女の視界は今、凄惨な惨劇の真っただ中に縫い止められていた。
烏丸の胸の奥が、冷たい針で刺されたような痛みを帯びる。
生き延びるために気丈に振る舞っていた少女が抱える、決して塞がらない傷口を突きつけられた瞬間だった。
烏丸は短く息を吐き出すと、ウサギの死体を自分の身体で完全に隠した。
「ここには兵隊なんかいねえ。俺とお前だけだ。敵が来たら追い払ってやる」
「……うん」
出雲の呼吸が落ち着くまで、その震える痩せた背中を撫でてやる。
しばらくして顔色が戻り、息が安定したのを見計らい声をかける。
「……出雲、飯ができるまで、沢の向こうへ行ってろ。水の音でも聞いて頭を冷やしてこい」
「でも……っ」
「いいから行け。何かあれば大声を上げろ。すぐ飛んでいくから」
烏丸は背を向けたまま、乱暴に手を振った。
出雲は何度も首を振りながら後ずさり、ふらつく足取りで沢のせせらぎの方へと去っていった。
一人残された岩穴。視線の先に置かれた、出雲お手製の即席の籠。
烏丸は静かに小刀を握り直す。鉄の匂いが鼻腔を突く。
だが、もう迷いはなかった。
この世界に満ちる血の匂いは、己が引き受ければいい。
手が血で汚れようと、あの灰色の髪の少女に、火の通った温かい肉を食わせるために。
烏丸は丁寧に必要な肉だけを切り分け、岩穴の苔むした上部から流れてくる細い水流で血を完全に洗い流した。
臭みを消すために山菜の根をすり潰し、肉に擦り込む。
串枝に刺して焚き火の遠火でじっくりとあぶり、皮目が香ばしく爆ぜるまで時間をかけた。
血の痕跡を削ぎ落とした狐色の焼き肉を持って、烏丸は沢へ向かった。
岩に座り、流れる水面を見つめていた出雲の隣に腰を下ろす。
「ほら。血なんかどこにもねぇぞ」
差し出された木の串を見て、出雲は息を飲んだ。焦げ目のついた肉からは、ただ香ばしい脂の匂いだけが漂っている。
「……烏丸」
「食え。冷めたら硬くなる」
出雲は震える手で串を受け取り、小さくかじりついた。
彼女は溢れそうになる涙を必死にこらえながら、何度も頷いて肉を噛み締めた。
「美味しい……ありがとう、烏丸……」
「ふん」
烏丸はそっぽを向き、自分の分の肉を口に放り込んだ。
口の中に広がる肉汁と熱。
一人で食べる時より、味わって噛み締める。
山を渡る風が、二人の頭上を静かに吹き抜けていく。
過酷な現実の中で、二人が肩を寄せ合う岩穴の灯火は、小さく、けれど確かに燃え続けていた。




