第6話 いつも月夜に雲と飯
斧を振り下ろす度、凍てついた樫の丸太が鋭い音を立てて真っ二つに裂ける。白い息を吐き出しながら、烏丸は荒屋の玄関越しに揺れる暖かな灯りを横目でにらみつけた。
三人の暮らしは、拍子抜けするほど穏やかだった。だが、烏丸の胸の奥に澱のように沈んだ重苦しさは消えない。
玄関の向こうでは、既望が出雲に霊術の基礎を教えている。机の上に広げられた古い羊皮紙には幾何学的な図形が描かれているが、文字の読めない烏丸にとっては、ただの気味の悪い黒い染みでしかない。
「師匠。この陣の端をこう曲げたら、幻影の輪郭はもっと鮮明になりますか」
「そうだ。筋がいいな、出雲」
火の爆ぜる音に混じって、二人の楽しげな声が漏れ聞こえる。
知的で、洗練された時間。既望から読み書きを教えようかと言われた時、烏丸は乱暴な理由をつけて突っぱねた。難解な理論を理解できず、聡明な出雲に無知な姿を見られるのが、何よりも恐ろしかったからだ。
自分の取り柄は、野山を駆け回り、獣の喉を裂き、魚を獲ることだけ。だが、それらはすべて、あの日出雲を怯えさせた血の匂いと暴力の延長線上にある。
人を殺めた襲撃事件以来、烏丸は彼女の前で獲物をさばくことすらためらうようになり、三人の中で自分がどう振る舞えばいいのかを見失っていた。
化け物扱いされて野山を一人で生きていた時、こんな痛みは知らなかった。孤独など、呼吸と同じで気にも留めないものだった。
それなのに、出雲と既望という拠り所ができたせいで、満たされた二人と無力な自分の間に、目に見えない透明な壁が立ちふさがる。それが鋭い刃となって烏丸の自尊心を削り落としていく。
夜。薄暗い土間の隅で、烏丸は膝を抱えて出雲の横顔を見つめていた。
彼女の灰色の髪が、囲炉裏の炎を受けて柔らかく透けている。既望の言葉にうなずく出雲。賢く、清らかな二人の世界。
既望を憎いとは思わない。彼はこれまで出会った人間の中で、最も底知れぬ力を持つと同時に、最も悪意のない大人だ。
ただ、出雲の視界の中心にいたい。
彼女の灰色の瞳に、自分だけを映していたい。彼女を守るのは、既望の完璧な術ではなく、他の誰でもなく、自分でありたい。己の手がどれほど泥と血に塗れようとも。
「烏丸、そんな隅っこでどうしたの? こっちにおいでよ。師匠がお茶をいれてくれたよ」
不意に出雲に名を呼ばれ、胸の奥で心臓が跳ね上がった。彼女の視線が自分を向いている。それだけで、黒く沈んでいた視界の輪郭が鮮やかに色づく。
無言で立ち上がり、囲炉裏の側に胡座をかいた。何も知らない出雲は、温かい湯呑みを差し出し、烏丸のすぐ脇へ座り直す。触れ合いそうなほど近い距離。麻の着物から、焚き火の煙に混じって、出雲特有の微かな甘い香りが漂った。
「烏丸も冷めないうちに。体が温まるよ」
茶をすする出雲が、横目で笑いかけてくる。烏丸は誤魔化すようにうつむき、茶を口に含んだ。いつも既望が淹れる渋い野草茶が、今日に限って奇妙に甘く感じられる。
だが次の瞬間、出雲は反対側に座る既望へ顔を向け、術式の続きを話し始めた。
彼女の視界から自分が外れた途端、急速に周囲の空気が冷たくなる。隣にいるのに、果てしなく遠い。
烏丸は着物の裾をきつく握りしめた。
出雲の視線一つ、声一つで一喜一憂し、勝手に傷ついている。制御できない己の情けなさに、激しい苛立ちが込み上げる。
こんな弱い自分など、知らない。
苛立ちに任せ、烏丸は湯呑みの茶を一気に煽った。
「……ゴホッ、ゲホッ!」
沸き立った熱湯が喉から胃の腑へと落ち、内臓を焼け焦がすような激痛が走る。
「一気飲みしたの!? 大丈夫?」
「口内を火傷する。水を飲ませてやりなさい」
既望が即座に立ち上がり、水甕から柄杓で水をすくう。むせる烏丸に、慌てた出雲が木椀を受け取って差し出した。
「烏丸、飲んで!」
差し出された木椀を、烏丸は出雲の細い指ごと無意識につかみ取っていた。
氷を砕いたような冷水が口内の熱を奪う。だが、手が触れ合った箇所から、得体の知れない熱が顔面へと一気にはい上がってきた。
目の前には、自分の顔をのぞき込む出雲の心配そうな灰色の瞳。少しひんやりとした彼女の指先の感触が、烏丸の掌を焼く。
凍てつく世界で、自分はただ一人の少女の体温にすがりつこうとしている。
この見苦しくて、ひどく甘い痛みの正体を、十六歳になったばかりの烏丸は初めて悟った。
***
持て余した熱を引きずったまま、凍てつく冬が過ぎようとしていた。
森の日常は静かだが、外の世界のきな臭さは風に乗って確実に三人の隠れ家へ迫っている。
食料探しの鴉の姿で上空から見下ろす世界は、決定的に壊れ始めていた。
国内全土へ拡大した黒い戦火の煙。街道を見下ろせば、重い鉄鎖に繋つながれて雪道を歩かされているのは、東や南で捕虜となった敵国の民だけではない。まだ幼さの残る、黒曜帝国の少年たちの列だ。
北方の青淵領と西部の紫耀領。二方面への同時侵攻が難航し、黒曜帝国軍は深刻な兵力不足に陥っている。前線を維持するため、自国の子供すら捨て駒として徴兵し始めたのだ。
死の包囲網は、すぐそこまで迫っていた。
「……この辺りの村の子供まで、縄でつながれて街道を歩かされていた。俺も例外じゃない」
上空から見た戦況を共有するため、烏丸は囲炉裏の前で重い口を開いた。
「人目につけば即座に最前線へ送られる。かといって山に潜伏し続ければ、兵役逃れの非国民として見つかり次第、首を落とされる」
「……嫌だ。烏丸が前線送りにされたら、生きて帰って来れない」
出雲が顔面を蒼白にさせ、烏丸の着物の袖を硬く握りしめた。その指先の微かな震えが、烏丸の胸の奥を締め付ける。
「一つ、考えがある」
既望が静かに口を開いた。
「世界の最西部にある灰霄領へ逃げよう。海岸沿いに広がる広大な領地だ。戦火の届かぬ安全な里もあるはずだ」
出雲は不安げに視線を落とした。
「私の焼かれた故郷は、帝国の国境沿いだったの。また焼かれないかな……」
「灰霄の民が密集した里なら、霊術使いが多い。帝国軍も容易には手を出せない。それに、海岸沿いに到達するまで、西の紫耀領が強固な防波堤になる。あそこの民は、強力な光線を操る戦闘種族だ」
既望の理路整然とした説明に、出雲の強張った表情がわずかに安堵へと変わる。
「分かった」と短く返し、烏丸は火箸で薪の火を突いた。
共に西へ向かう。だが、自分も一緒に安全な西へ逃げ延びるつもりなど毛頭ない。
西の国境を越え、出雲が安全な地を踏んだその日。血と暴力に汚れた自分は、二人の前から姿を消す。
それが、彼女を想ってしまった己への、唯一の罰だった。
***
数ヶ月の月日をかけ、三人は野営を繰り返しながら道なき獣道を西へ進んだ。
兵士の目をかいくぐるには、烏丸の空からの偵察と、既望の銀狐としての鋭い嗅覚が絶対条件だった。
凍てついた土を押し上げ、柔らかな緑が芽吹く頃。烏丸の骨格は逞しさを増し、出雲の背丈も伸びていた。二人はすでに子供の輪郭を脱ぎ捨て、大人へと向かう過渡期を迎えている。
雪解け水が眩しく煌めく河原のよどみで、既望が静かに身を屈める。
彼は鈍色の小刀で自身の指先を浅く裂き、水際の滑らかな丸石へ銀の血で円と三角の錬成陣を素早く描き出した。その中央へ、首から下げた青い触媒石を押し当てる。
『ーー放電、雷渦水牢』
呪文の詠唱と同時、青い石が限界まで光を吸い込み、爆発的な閃光を放つ。水面を幾何学的な青白い稲妻が走り抜け、鋭い水音と共に雷雨の後のような刺すような匂いが弾けた。
直後、感電した川魚が次々と白い腹を翻して浮かび上がる。
「烏丸」
既望の短い合図。
烏丸の体内で骨格が砕けては再構築される生々しい軋み音が鳴る。皮膚を突き破り、漆黒の風切羽が一斉に芽吹き、巨大な鴉へと姿を変えた。
強靭な羽で宙を蹴り、鋭利な鉤爪で水面をかすめる。気絶した魚を次々と捕らえ、河原の乾いた石の上へ正確に放り投げた。
そこへ出雲が駆け寄る。彼女は指先で石の上に錬成陣の円を描き、触媒石を押し当てながら、短い詠唱と共に枯れ枝へ赤々とした炎を灯した。器用に小枝へ魚を刺し、焚き火の周りに立てていく。
じゅうじゅうと脂の焦げる香ばしい匂いが河原に漂う。
焼き上がった魚にかじり付いた既望が、焦げすぎた皮の苦味にむせて、珍しくひどく顔をしかめた。
出雲がたまらずに吹き出す。
「師匠の顔、変」
「既望、そうやってずっと顔を崩しておけ。不細工な方が人間らしいぞ」
「私は苦いものが苦手なんだ」
「出雲が焼いた魚だぞ。文句を言うな」
悲惨な戦況の中でも、緊張を破る三人の他愛のない笑い声が、早春の森の静寂に溶けていく。
生き残るための完璧な連携。穏やかで温かい時間。
だが、この日々が永遠に続くわけがない。
烏丸の胸の奥底では、冷たい川底に沈む石のように、別離の時を待つ孤独な決意が静かに質量を増し続けていた。




