第7話 月とすっぽんの別れ
2026/09/13 改稿(最新)
移動を続けながらも、既望の霊術伝授は行われた。
薄日が差す森の空き地。風に灰色の髪をゆらしながら、出雲は既望の隣で複雑な幾何学模様が描かれた錬丹術の書物を熱心にのぞきこんでいる。
陽光を反射する既望の純銀と、出雲のやわらかな灰色の髪が寄り添う。
光の射す場所にいるふたりが、獣として泥をはってきた自分との決定的な質の差を突きつける。
烏丸は離れた木陰に座りこみ、手元の小枝を力まかせにへし折った。
出雲は霊術の才を開花させ、既望の知性に必死に食らいついている。対して、烏丸には術の才が一切ない。危険がせまれば、鴉の姿になって爪と牙で敵の肉を引き裂くことしかできない。
血と暴力。それは出雲がもっとも恐れて嫌う、野蛮な力だ。
(俺の力では出雲をおびえさせるのに。既望の術なら、あいつはあんなに笑う。俺には、出雲の命をつなぐことはできても、心を救うことはできない。)
烏丸は無造作に伸びた自身の黒髪を乱暴にかきむしった。
視界に入る自分の節立った指も、泥の入りこんだ爪も、彼らの透き通るような色彩に比べてひどく薄汚れていた。
*
数日経ち、鬱蒼とした森をぬけ、西部の国境沿いにたどり着いた夕暮れ時。
烏丸が唐突に歩みを止めると、前を歩く二人がふり返った。
「どうしたの、烏丸」
「……俺は、この先へは行かない」
冷たく突き放す言葉に、出雲の顔からスッと血の気が引いた。
「なにを言っているの」
「お前たち二人だけで灰霄領へ逃げろ。霊術で入国できたのなら、逃げ隠れることもできるだろ」
既望が眉間に深いシワを寄せる。
「ふざけるな。お前を置いていけるわけがないだろう」
「そうだよ、三人で一緒に暮らすって決めたのに」
反対する声が静寂の森に鋭くひびく。烏丸は苛立ちと共に自身の前髪をわしづかみにし、忌まわしい漆黒を二人へ突きつけた。
「俺はこの黒い髪と目を持つ、生粋の黒曜民だ。灰霄の敵として命を狙われるのがオチだ!」
「それなら、私の霊術で隠すから心配ない」
「そんな小手先のごまかしが、永遠に通用するものか!素性が割れれば、敵をかくまった罪でお前らも処刑される」
烏丸は現実の重みで、二人の甘い希望を冷酷にたたき潰す。
「それに、俺が国境を越えれば、兵役逃れとして黒曜の兵にも追われる。俺はただの足手まといだ」
「そんなことない!」
「出雲。俺はお前らよりもこの国の血生臭い現実を見てきた。冷静に言っているんだ」
聞き分けのない子供を突き放す、ひどく低い声色を作った。
膠着した三人の間に沈黙が降りる。鳥のさえずりと木々のざわめきだけがその場を支配した。
実際には一分にも満たない、永遠に思えるほどの時間。
動いたのは烏丸だった。
既望と無言の視線を交わして後を託し、見納めに出雲の輪郭を視界に焼きつける。その澄んだ銀灰の瞳から、無理やり目をそらした。
「......灰霄に行っても達者でな」
短く別れを告げ、踵を返す。
ぬかるんだ土を踏みしめ、歩み去ろうと一歩踏み出した直後、草葉を激しく弾き飛ばす足音が背後からせまった。
ふり返るより早く、背中に鈍い衝撃が走る。
「待って! 烏丸!」
出雲が烏丸の背中へ激しく飛びこみ、その細い両腕が胴体をきつく締めあげた。
背に押し当てられた少女の体温が、衣服ごしに火傷しそうなほど熱い。肩口に顔をうめる出雲の呼吸が、荒く乱れていた。
肩に掛けた籠から立ちのぼる薬草の青臭い香りと、彼女の陽だまりの匂いが混ざり合い、烏丸の鼻腔を埋めつくす。烏丸の心臓が限界まで跳ねあがった。
「頼むから……行かないで、お願いだから!」
涙で濡れた声が、烏丸の背中を震わせる。
出雲は必死に腕へ力をこめ、烏丸の黒い衣を指が白らむほど強くつかみしめていた。
全身の血が急激に沸騰し、直後に氷点下まで冷え切る。
異形の血を引く自分は、石を投げられるのが日常だったのに、この少女は恐れるどころか、みずからその温もりをなすりつけてくる。
彼女の視界を占領している間だけは、自分が化け物であることを完全に忘れてしまう。それは、黒曜領で生きのびるための警戒心をマヒさせる、甘く危険な猛毒だった。
伝わる体温の愛おしさが、かえって烏丸の胸の空洞を激痛でひき裂く。
歳を重ねるごとに、内なる鴉の暴力衝動は増していく一方だ。今ここで自分がほんの少し力を解放すれば、この華奢な身体など一瞬でへし折って殺してしまう。
「……手を離せ、出雲」
「いやだ! 一緒に来ないなら、絶対に離さない!」
喉の奥がひきつり、烏丸のしぼり出す声が不自然にうわずってかすれた。
「解れよ、出雲……」
「烏丸を置いて行くなんて、いやだ。今度は、私が烏丸を守るから!」
全身が熱に浮かされ、耳の奥で激しく暴れる脈打つ音に鼓膜が支配される。行き場を失った烏丸の両腕が宙をさまよう。
だが、その手で背中の彼女を抱き返すことはできなかった。
出雲の一挙手一投足に神経を灼かれるようになってから、彼女の側で自分が以前、どうやって正常な呼吸をしていたのかすら思い出せない。
背中の彼女はどこまでも純粋で、清廉で、ひどくまぶしい。それに比べ、自分の爪の先には、獣の暴力性と獰猛な衝動が黒い穢れとなってこびり付いている。
(こんな手で、この白い花に触れるわけにはいかないんだ。)
圧倒的な劣等感と恐怖が、物理的な鉛となって烏丸の腕を縛りつける。
宙をさまよっていた両手は、決して彼女へ触れぬよう、ただ硬く握り拳を作るしかなかった。
*
結局、二人と別れられず、境界の森で夜を明かした翌日の午後。
烏丸は敵の動向を探るべく、上空高く旋回していた。風を切りさらに西へ飛翔した彼の眼下に広がったのは、大地を黒く染めあげる軍勢の群れだった。
西部の紫耀領をのみこまんと、じわじわと国境線を侵食していく帝国軍の漆黒の軍旗。
紫耀が落ちるのも時間の問題だ。次はこの灰霄へと戦火がおよび、出雲たちの逃げ場は完全に断たれる。
「くそっ。どこもかしこも戦ばかりだ。どうすりゃいいんだよ」
強烈な焦燥感で、烏丸の臓腑が重く潰れ、呼吸が浅くなった。
眼下では、黒曜の重甲冑をまとった将が剣をふり下ろし、大軍の足音が地鳴りをあげて空間を震わせる。個人の武力など塵に等しい、圧倒的な暴力の塊だ。
(俺があの将だったなら。あいつらが逃げこんだ里だけを、確実に見逃すことができるのに。)
悔しまぎれに吐き出した妄想が、急速に冷たい現実味を帯びて烏丸の思考を支配した。
出雲を側で守ることばかりで、今まで気づかなかった。半獣の身分を隠し、黒曜の兵として潜りこめばいいのだ。
(妙案だ。俺の唯一の強みを最大限に活かせる。)
おびえる二人の横で無力に逃げまどうくらいなら、いっそ戦火を操る側にまわる。そうすれば、遠くからでも確実に二人を守りぬける。
出雲の清らかさに触れることすら許されない、この身を灼く劣等感にあえぐ日々も終わる。
烏丸は昏い決意を胸に秘め、力強く翼を羽ばたかせて森へと舞い戻った。
*
野営の準備をする出雲には近づかず、烏丸は既望だけを樹海の物陰へ呼び寄せた。
敵の布陣と包囲網のほころびを短く告げると、既望の眉間に深いシワが刻まれる。
「……よく知らせてくれた、烏丸。少しばかり先を急ぐ必要がありそうだ。お前も必ずついてこい」
「出雲には黙っておけ。無駄におびえさせたところで、戦況はくつがえらない」
ついてこい、という発言を意図的に無視し、烏丸は鋭い声で話題をきり替えた。
既望は強くうなずき、労る手つきで烏丸の黒髪をなでた。
出会った当初は血の気すらなく冷え切っていたその大きな掌は、いまは確かな血が通い、ひどく温かい。
「ああ、そうしよう。だが、戦況は変えられずとも、身を守る術なら変えられる。いざという時、出雲が霊術で己の身を十分に守れるように鍛えてやらねばな」
既望の何気ないその言葉は、烏丸にとって二人と共にいる理由の完全な喪失宣告だった。それが叶えば、自分がいなくても、彼女はみずからの力で生きていける。
烏丸は沈黙したまま、重い足を引きずって出雲の側へと歩み寄った。
「烏丸、お帰り!空からなにか見えた?」
自分に気づくと出雲は声を弾ませて走り寄ってきた。
出雲の白い手が烏丸の黒い袖をつかむ。移動中も自分の寝床に敷く植物を集めているせいで、彼女の細い手は樹液で汚れている。「自分は直接土の上でも眠れるから不要だ」と言っても、出雲は必ず烏丸の分まで用意してくれる。
「ああ……国境はすぐそこだ。既望には安全な道を伝えておいた。紫耀領を抜ければ、お前の同胞たちがいる場所だ」
「うん! いよいよだね。私たちには師匠がいるから、きっと大丈夫だよ」
せまり来る暗雲など知る由もなく、出雲は明るく澄んだ瞳でほほえむ。
敵の命を奪う残虐な力など欠片も求めない彼女の純真さ。それが烏丸の胸の奥を深々とえぐる。
まともに顔を見れず、烏丸は弾かれたように視線を地面へ落とす。
彼女が強くなること。自分がいなくても一人で生きていけるようになること。それを、どうしても素直に喜べない。
血生臭い手段でしか己の存在意義を証明できない自身の浅ましさに、強い吐き気がこみあげる。
烏丸は口内に鉄の味が広がるまで、己の唇を強く噛みしめた。
*
翌朝、国境を越える手段を探る既望のかたわらで、出雲が巨木の太い枝からみずから虚空へ身を投げた。
墜落すれば骨がくだける硬い地面。
烏丸が反射的に背の皮膚を破り、漆黒の羽を広げかけた刹那。落下する出雲が空中で素早く詠唱する。
『縮縛結界!』
出雲の腕に描かれた陣が銀色に発光する。
虚空に編みこまれた光の帯は物理的な質量を持つツタと化し、太い枝に巻きついて落下の凄まじい勢いを殺した。
突風をはらみ、滞空時間がひき延ばされた静かな軌道。
出雲は枯れ葉一枚散らすことなく、ふわりと足先から着地した。
「上出来だ、出雲」
既望が静かに手をたたく。
「やった。師匠と出会った時の術、私もできた!」
「ああ。これなら、国境の追っ手から逃げる際にも有用だ。出雲ならできると思っていた」
歓喜に顔をほころばせ、既望へと駆け寄る出雲。陽光の下で笑い合う二人を、烏丸は一歩引いた深い暗がりから見つめていた。
烏丸の背中で、中途半端に飛び出しかけていた漆黒の羽が、行き場を失い力なく皮膚の下へと沈んでいく。
出雲が夜盗に追われ、恐怖に震えていた夜。あの時は、烏丸の翼と牙だけが彼女を守る唯一の盾だった。
だが、もう違う。出雲は自らの力で着地できる。
烏丸の獰猛な獣の背中など、もうどこにも必要ない。
圧倒的な知を誇る師の庇護と、凄まじい速度で自立していく少女。彼女の放つ光が強くなるほど、自分の中に巣食う醜い暴力の影が色濃く浮き彫りになる。
独り取り残された烏丸は、黒く汚れた己の両手を見下ろした。
ともに国境を越えれば、黒曜民の象徴たるこの黒い血と髪目が、二人を危険にさらす最大の枷となる。
「……ちょうどいい。引き際だ」
烏丸は誰の耳にも届かない声でつぶやき、みずからの未練を断ち切った。
これまでも、常にこうして生きのびてきた。他人にすがっては疎まれ、残り物と雨露をしのぐ屋根と引きかえに蔑みを耐える日々。暴力で打ちすえられ、奴隷商人の手元に落ちる直前、闇へまぎれて姿を消す──それが烏丸の生きてきた世界のすべてだった。
どれほど温かい顔を向ける人間も、自分が足手まといに変わった瞬間、冷淡な眼光へと豹変する。その絶望の痛みを、これまで嫌というほど骨に刻んできたのだ。
もしも出雲と既望の温かな瞳が、あの蔑みの色に染まる日が来るのなら──その前に、自ら姿を消した方がましだった。
(既望があらわれるまで、出雲を生かしてやれた。俺があいつの側にいる役目は、もう終わったんだ。)
二年弱。孤独であいまいだった時間より、圧倒的に濃密で色鮮やかだった日々に決別を告げる。
出雲の銀鈴のように透き通る声と、既望のおだやかで知的な声がひびく日差しの下。烏丸は誰にも気づかれないよう、冷たく暗い森の底へとひとり静かに踵を返した。
遠ざかる出雲の笑い声だけが、消えない残響となって、いつまでも鼓膜の奥底にこびりついていた。
<タイトル/慣用句>
月とすっぽん:
表面は似ていても、価値や能力に雲泥の差があること。夜空に輝く「月」と、泥の中にいる「すっぽん」の甲羅は、どちらも丸い形をしている、美しさや尊さが全く異なることから、大きな隔たりを例える言葉。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n0f21ecb6b5cd




