第7話 待雪草と月とすっぽん
「見て、烏丸。ここにも可愛い花」
ざくりと残雪を踏み砕く音と共に、出雲の鈴を転がすような声が響いた。名を呼ばれた烏丸は、弾む足取りを隠すこともなく彼女の側へ駆け寄る。
出雲がしゃがみ込んでいる視線の先。泥混じりの雪の隙間から、可憐な白い花が顔を出している。うつむき加減に咲く純白の花弁には、鮮やかな緑色の斑点が点在していた。
「こんなチビでも、寒さに強いんだな」
「最近、よく見かけるの。なんて名前かな」
出雲が不思議そうに小首を傾げる。
背後から、ふわりと沈丁花の甘い香りが漂った。鴉の鋭敏な感覚をもってしても、足音一つ拾えない。純白の外套を揺らした既望だ。
「それは待雪草。西部では『希望』を意味する」
「希望。師匠のお名前と同じ響きですね」
「ああ。だが球根に強い毒を持つゆえ、黒曜領では『君の死を望む』という恐ろしい意味に反転する」
烏丸の隣にしゃがんだ既望は声の温度を下げ、凄みを含ませた。
「こんなに小さくて綺麗なのに」
出雲が花弁をのぞき込もうと身を乗り出した拍子、彼女の細い肩が烏丸の腕に触れた。
烏丸の喉がかすかに鳴る。粗末な麻の袖越しに伝わる、柔らかな微熱。
隣に並ぶと、彼女の頭頂部が数ヶ月前より少し高くなっていることに気づく。冬を越え、その横顔はふとした瞬間に大人びた輪郭を帯びるようになっていた。
「でも、私は希望の花だと思うことにする」
「お前ってば、いちいち前向きな奴だな」
「だって、そっちの方が眺めていて気分がいいでしょ」
同意を求めて上目遣いになる出雲から、烏丸は焼けるような頬の熱を隠すために視線をそらした。冷たい風に吹かれながらも咲き誇る健気な姿が、出雲そのものに重なる。
出雲が隣にいて、自分に微笑みかけてくれる。既望が絶対的な力で自分たちを庇護する。
待雪草を眺めながら、地面に座り込む自分の両脇を、二人の体温が挟み込む。
——この温かな時間が永遠に続けばいい。
烏丸は強く願った。
だがその裏側で、出雲を穢してはならないという警鐘が、烏丸の胸の奥でどす黒く膨れ上がっていく。
移動を続けながらも、既望の霊術伝授は行われた。
薄日が差す森の空き地。風に灰色の髪を揺らしながら、出雲は既望の隣で複雑な幾何学模様が描かれた錬丹術の書物を熱心にのぞき込んでいる。
陽光を反射する既望の純銀と、出雲の柔らかな灰色の髪が寄り添う。
光の射す場所にいる二人が、獣として泥をはってきた自分との決定的な質の差を突きつける。烏丸は離れた木陰に座り込み、手元の小枝を力任せにへし折った。
出雲は霊術の才を開花させ、既望の知性に必死に食らいついている。対して、烏丸には術の才が一切ない。危険が迫れば、鴉の姿になって爪と牙で敵の肉を引き裂くことしかできない。
血と暴力。それは出雲が最も忌み嫌う、野蛮な力だ。
——俺の力では出雲を怯えさせる。だが既望の術なら、あいつはあんなに笑う。俺には、出雲の命をつなぐことはできても、心を救うことはできない。
烏丸は無造作に伸びた自身の黒髪を乱暴にかきむしった。
視界に入る自分の節立った指も、泥の入り込んだ爪も、彼らの透き通るような色彩に比べてひどく薄汚れていた。
***
数日後。鬱蒼とした森を抜け、西部の国境沿いにたどり着いた夕暮れ時。
烏丸が唐突に歩みを止めると、前を歩く二人が振り返った。
「どうしたの、烏丸」
「……俺は、この先へは行かない」
冷たく突き放す言葉に、出雲の顔からスッと血の気が引いた。
「何を言っているの」
「お前たち二人だけで灰霄領へ逃げろ。霊術で入国できたのなら、逃げ隠れることもできるだろ」
既望が眉間に深い皺を寄せる。
「ふざけるな。烏丸を置いていけるわけがないだろう」
「そうだよ、三人で一緒に暮らすって決めたのに」
二人の声が静寂の森に鋭く響く。烏丸は苛立ちと共に自身の前髪を鷲づかみにし、忌まわしい漆黒を二人へ突きつけた。
「俺はこの黒い髪と瞳を持つ、生粋の黒曜民だ。灰霄の敵として命を狙われるのがオチだ」
「それなら、私の霊術で隠すから心配ない」
「そんな小手先の誤魔化しが、永遠に通用するものか。素性が割れれば、敵を匿った罪でお前らも処刑される」
烏丸は現実の重みで、二人の甘い希望を冷酷にたたき潰す。
「それに、俺が国境を越えれば、兵役逃れとして黒曜の兵にも追われる。俺はただの足手まといだ」
「そんなことない!」
「出雲。俺はお前らよりもこの国の血生臭い現実を見てきた。冷静に言っているんだ」
聞き分けのない子供を突き放す、ひどく低い声色を作った。
既望と無言の視線を交わして後を託し、見納めに出雲の輪郭を視界に焼き付ける。その澄んだ銀灰の瞳から、無理やり目を逸らした。
「......灰霄に行っても達者でな」
短く別れを告げ、踵を返す。ぬかるんだ土を踏み締め、歩み去ろうと一歩踏み出した直後、草葉を激しく弾き飛ばす足音が背後から迫った。
振り返るより早く、背中に鈍い衝撃が走る。
「待って! 烏丸!」
出雲が烏丸の背中へ激しく飛び込み、その細い両腕が胴体をきつく締め上げた。
背に押し当てられた少女の体温が、衣服越しに火傷しそうなほど熱い。肩口に顔を埋める出雲の呼吸が、荒く乱れていた。
背負った籠から立ち昇る薬草の青臭い香りと、彼女の陽だまりの匂いが混ざり合い、烏丸の鼻腔を埋め尽くす。烏丸の心臓が限界まで跳ね上がった。
「頼むから……行かないで、お願いだから」
涙で濡れた声が、烏丸の背中を震わせる。出雲は必死に腕へ力を込め、烏丸の黒い衣を指が白らむほど強くつかみしめていた。
全身の血が急激に沸騰し、直後に氷点下まで冷え切る。
異形の血を引く自分は、忌み嫌われ、石を投げられるのが日常だった。それなのに、この少女は恐れるどころか、自らその温もりをなすりつけてくる。
彼女の視界を占領している間だけは、自分が化け物であることを完全に忘れてしまう。それは、黒曜領で生き延びるための警戒心を麻痺させる、甘く危険な猛毒だった。
伝わる体温の愛おしさが、かえって烏丸の胸の空洞を激痛で引き裂く。
歳を重ねるごとに、内なる鴉の暴力衝動は増していく一方だ。今ここで自分がほんの少し力を解放すれば、この華奢な身体など一瞬でへし折って殺してしまう。
「……手を離せ、出雲」
「嫌だ! 一緒に来ないなら、絶対に離さない!」
喉の奥が引きつり、烏丸の絞り出す声が不自然にうわずってかすれた。
「い、出雲……」
「烏丸を置いて行くなんて、嫌だ。今度は、私が烏丸を守るから!」
全身が熱に浮かされ、耳の奥で激しく暴れる脈打つ音に鼓膜が支配される。
行き場を失った烏丸の両腕が宙をさまよう。だが、その手で背中の彼女を抱き返すことはできなかった。
出雲の一挙手一投足に神経を灼かれるようになってから、彼女の側で自分が以前、どうやって正常な呼吸をしていたのかすら思い出せない。
背中の彼女はどこまでも純粋で、清廉で、ひどく眩しい。対して自分の爪の先には、獣の暴力性と獰猛な衝動が黒い泥となってこびり付いている。
――俺の汚い手で、この純白の花に触れるわけにはいかない。
圧倒的な劣等感と恐怖が、物理的な鉛となって烏丸の腕を縛り付ける。宙をさまよっていた両手は、決して彼女へ触れぬよう、ただ硬く握り拳を作るしかなかった。
***
境界の森で夜を明かした翌日の午後。
烏丸は敵の動向を探るべく、上空高く旋回していた。風を切りさらに西へ飛翔した彼の眼下に広がったのは、大地を黒く染め上げる軍勢の群れだった。
西部の紫耀領を呑み込まんと、じわじわと国境線を侵食していく帝国軍の漆黒の軍旗。
紫耀が落ちるのも時間の問題だ。次はこの灰霄へと戦火が延び、出雲たちの逃げ場は完全に断たれる。
強烈な焦燥感で、烏丸の臓腑が重く潰れ、呼吸が浅くなった。
眼下では、黒曜の重甲冑をまとった将が剣を振り下ろし、大軍の足音が地鳴りを上げて空間を震わせる。個人の武力など塵に等しい、圧倒的な暴力の塊だ。
――俺が帝国軍の将であったなら。あいつらが逃げ込んだ里だけを、確実に見逃すことができる。
悔し紛れに吐き出した妄想が、急速に冷たい現実味を帯びて烏丸の思考を支配した。
ーーそうだ。半獣の身分を隠し、黒曜の兵として潜り込めばいい。俺の唯一の存在価値である獣性を、最大限に活かせる。
怯える二人の横で無力に逃げ惑うくらいなら、いっそ戦火を操る側に回る。そうすれば、遠くからでも確実に二人を守り抜ける。出雲の清らかさに触れることすら許されない、この身を灼く劣等感にあえぐ日々も終わる。
烏丸は昏い決意を胸に秘め、力強く翼を羽ばたかせて森へと舞い戻った。
野営の準備をする出雲には近づかず、烏丸は既望だけを樹海の物陰へ呼び寄せた。敵の布陣と包囲網のほころびを短く告げると、既望の眉間に深い皺が刻まれる。
「……よく知らせてくれた、烏丸。少しばかり先を急ぐ必要がありそうだ。お前も必ず付いてこい」
「出雲には黙っておけ。無駄に怯えさせたところで、戦況は覆らない」
付いてこい、という発言を意図的に無視し、烏丸は鋭い声で話題を切り替えた。
既望は強くうなずき、労る手つきで烏丸の黒髪を撫でた。出会った当初は血の気すらなく冷え切っていたその大きな掌には、今は確かな血が通い、ひどく温かい。
「ああ、そうしよう。だが、戦況は変えられずとも、身を守る術なら変えられる。いざという時、出雲が霊術で己の身を十分に守れるように鍛えてやらねばな」
既望の何気ないその言葉は、烏丸にとって二人と共にいる理由の完全な喪失宣告だった。自分がいなくても、彼女は自らの力で生きていける。
烏丸は沈黙したまま、重い足を引きずって出雲の側へと歩み寄った。
「烏丸、お帰りなさい。空から何か見えた?」
「ああ……国境はすぐそこだ。既望には安全な道を伝えておいた。紫耀領を抜ければ、お前の同胞たちがいる場所だ」
「うん! いよいよだね。私たちには師匠がいるから、きっと大丈夫だよ」
迫り来る暗雲など知る由もなく、出雲は明るく澄んだ瞳で微笑む。
敵の命を奪う残虐な力など欠片も求めない彼女の純真さ。それが烏丸の胸の奥を深々とえぐる。まともに顔を見れず、烏丸は弾かれたように視線を地面へ落とす。
彼女が強くなること。自分がいなくても一人で生きていけるようになること。それを、どうしても素直に喜べない。
血生臭い手段でしか己の存在意義を証明できない自身の浅ましさに、強い吐き気が込み上げる。烏丸は口内に鉄の味が広がるまで、己の唇を強く噛み締めた。
翌朝。
国境を越える手段を探る既望の傍らで、出雲が巨木の太い枝から自ら虚空へ身を投げた。
墜落すれば骨が砕ける硬い地面。烏丸が反射的に背の皮膚を破り、漆黒の羽を広げかけた刹那。
落下する出雲が空中で鋭く印を結んだ。
『ーー縮縛結界』
出雲の腕に描かれた陣が銀色に発光する。虚空に編み込まれた光の帯は物理的な質量を持つ蔦と化し、太い枝に巻きついて落下の凄まじい勢いを殺した。
突風をはらみ、滞空時間が引き延ばされた静かな軌道。出雲は枯れ葉一枚散らすことなく、ふわりと足先から着地した。
「上出来だ、出雲」
既望が静かに手をたたく。
「やった。師匠と出会った時の術、私もできた!」
「ああ。これなら、国境の追っ手から逃げる際にも有用だ。出雲なら出来ると思っていた」
歓喜に顔をほころばせ、既望へと駆け寄る出雲。陽光の下で笑い合う二人を、烏丸は一歩引いた深い暗がりから見つめていた。
烏丸の背中で、中途半端に飛び出しかけていた漆黒の羽が、行き場を失い力なく皮膚の下へと沈んでいく。
出雲が夜盗に追われ、恐怖に震えていた夜。あの時は、烏丸の翼と牙だけが彼女を守る唯一の盾だった。
だが、もう違う。出雲は自らの力で着地できる。烏丸の獰猛な獣の背中など、もうどこにも必要ない。
圧倒的な知を誇る師の庇護と、凄まじい速度で自立していく少女。独り取り残された烏丸は、黒く汚れた己の両手を見下ろした。
彼女の放つ光が強くなるほど、自分の中に巣食う醜い暴力の影が色濃く浮き彫りになる。
共に国境を越えれば、黒曜民の象徴たるこの漆黒の髪と瞳が、二人を危険にさらす最大の枷となる。
「……ちょうどいい。引き際だ」
烏丸は誰の耳にも届かない声でつぶやき、自らの未練を断ち切った。
既望が現れるまで、出雲を生かしてやれた。自分が彼女の人生に介在する役割は、もう終わったのだ。
一年と数ヶ月。孤独で曖昧だった時間より、圧倒的に濃密で色鮮やかだった日々に決別を告げる。
出雲の銀鈴のような透き通る声と、既望の穏やかで知的な声が響く日差しの下。
烏丸は誰にも気づかれないよう、冷たく暗い森の底へと一人静かに踵を返した。
遠ざかる出雲の笑い声だけが、消えない残響となって、いつまでも鼓膜の奥底にこびりついていた。




