第8話 歳月と鴉は人を待たず
谷底の泥濘は、ひどく冷たく、濃密な血の鉄臭さをはらんでいた。
出雲と既望の元を飛び出した烏丸の胸の奥には、黒く焼け焦げた大穴が空いている。瞼の裏に焼き付いているのは、あの透き通る霊術の輝き。あんな美しい光の世界に、自分は相応しくない。残酷な劣等感と絶望が、重い泥となって足首に絡みついていた。
不意に、鋼が激突する甲高い音が鼓膜を打つ。
烏丸は崖下を見下ろした。
谷底のぬかるみで、漆黒の重甲冑をまとった大柄な男が、数十人の刺客に取り囲まれている。男の顔は返り血で赤黒く染まり、その双眸は獲物を狙う猛禽の眼光で周囲を射抜いている。
男は闘争と支配の愉悦に口角をゆがめ、身の丈ほどある大剣を振り上げた。
「――磁波連斬!」
男の剣先が、大気を致命的にねじり曲げる。視覚できない重力の波形が空間を削り取り、周囲に降る雨粒を円形に弾き飛ばした。
次の瞬間、凄惨な金属音が谷底に響き渡る。
男の周囲にいた敵兵の重装鎧が一瞬にして内側へひしゃげ、不可視の斬撃が肉体を装甲ごと真っ二つになぎ払った。
「……なんだ、あの術」
命を奪わぬ人道的な霊術ではない。敵を完全に屠るための、凶暴な破壊の術。
そのむき出しの生存本能と圧倒的な暴力の熱に当てられ、烏丸の奥底で眠る獣の血が激しく沸騰する。
烏丸は短い咆哮を上げ、谷底へ身を投げた。
落下の風圧の中、骨格が軋みを上げて組み替わる。皮膚を内側から突き破って漆黒の羽毛が肉体を覆い、巨大な鴉の半獣へと姿を変えた。
黒い突風となって刺客の群れに突っ込む。美しい霊術の光など、今の自分には必要ない。巨大な鉤爪が鎧の隙間をえぐり、鋭い嘴が次々と敵の急所を的確に破壊していく。
生温かい血飛沫が泥を黒く染め上げた。
これが俺の力だ。己の肉体を穢すことでしか戦えない、醜い獣の証明。
物言わぬ骸の山が築き上げられる中、烏丸は人型に戻り、肩で荒い息を吐く。血と泥に塗れた両手を見下ろし、小さく自嘲した。
男は警戒するどころか、血濡れの烏丸を見て豪快な笑い声を上げた。
「すばしっこい牙だ。半獣の奴隷にしておくには惜しい」
「……あんた、何者だ」
「不躾な奴だ。この国の主を知らぬのか、小僧」
烏丸は目を見開いた。この国の民で「月守」と並び、「皇帝」を知らぬ者はいない。
黒曜領王の座を武威でもぎ取り、下賤の身から下剋上を成した男。破竹の勢いで領土を拡大する黒曜皇帝・黎黒玄海。
人相は年を重ねているが、鍛え抜かれた体躯に衰えは微塵も感じられない。
玄海は血の滴る大剣を泥に突き立て、烏丸の前に歩み寄る。
「……そんな偉い御仁が、なぜこんな場所にいる」
「出征中に射撃の訓練で野鳥を狩りに来たのだが、刺客に護衛の臣下どもが殺されてな。大した敵ではなかったが」
その長身から、玄海は若い烏丸を値踏みするように見下ろす。
「俺の身分に気づかず、劣等の本性をさらして見ず知らずの男を助けに入るとは、殊勝な奴だな」
「別に。久しぶりに、暴れたかっただけだ」
偉い御仁など人生に縁がない烏丸は、何の期待も胸に抱くことなく、素っ気ない態度で答えた。軍を統べる皇帝に半獣と見られた以上、身分を偽ることはできない。
「あんたがさっき飛ばした術、俺にも使えるか」
「その黒い瞳。半獣とて黒曜の血筋のはず。黒曜の錬丹術ならば、お前にも使える」
「ならば、その術、俺に教える気はないか。武功を上げたいんだ。代わりに、あんたの敵を俺が狩ってやる」
烏丸は自らの片腕を眼前に掲げ、鴉の鉤爪へと変形させて見せた。
異形の腕を見ても、玄海は驚く様子を見せない。
「俺が皇帝と知って、その程度の要求か。欲が無いが、新鮮だ。小僧には主がいないのか」
「餓鬼のうちに人里で保護を得ない代わりに、奴隷にはならなかった。訳あって今は独りだ」
「我が国では珍しいな。地位や報奨をくれとねだらぬのか。特別に検討してやっても良いのだぞ」
「半獣が人目につくなら、実力で示さなきゃ根首をかかれる」
返答した烏丸の腹が、まぬけな音を立てて激しく鳴った。極限の飢え。
玄海は一瞬目を丸くし、腹の底から笑い飛ばした。
「お前も、己の力しか信じておらぬ質だな。千年の昔から、この領土に安寧などない。血塗られた歴史を俺がすべて喰らい尽くし、ただ一つの帝国を創る」
玄海は一歩踏み出し、重圧のある声で告げる。
「――小僧、俺に仕えよ。飢えも孤独も無知も、俺が全て喰らい尽くしてやる」
「……俺なんかに親切にする理由は何だ」
「俺は身分より実力重視だ。己のみを信じて自ら孤独を選べる者は、大業をなす素養がある。若造ならば、投資する価値はある」
玄海が差し出した、血まみれの巨大な掌。
それは、烏丸を異端の獣としてではなく、力ある一人の戦士として肯定する、強烈な熱を帯びていた。
烏丸はその掌を、強く握り返す。
「名は何という」
「烏丸」
「その名では、すぐに敵へ素性が知れる。鴉の鉤爪は、隠してこそ有効な暗器になる」
玄海の重い声には、単なる武力だけでなく、冷徹な計略に長けた統治者の風格があった。
「俺の『黎黒』の姓から、一字授けてやる。今日から『黎』と名乗れ」
古い名を剥ぎ取られ、新しい居場所と存在証明を与えられる。烏丸の胸の空洞が、皇帝の圧倒的な覇気で満たされていく。
名無しのまま親に道端へ捨てられ、拾われてから、たらい回しにされた幼少期。名前も都度変えられ、もはや覚えてもいない。
親のいる周囲の子供たちが嘲って呼んだ蔑称に過ぎない、「烏丸」の名。名を呼ばれるたび、己への侮辱を受け入れてきた。
だが、他郷の少女と師匠から呼ばれる時だけは、その屈辱を完全に忘れられた。
『――烏丸!』
自分を呼ぶ出雲の明るい声が、幻聴となって耳奥で響く。
烏丸はその残響を完全に殺すため、玄海の背中を追って泥濘を力強く踏み出した。
この日を区切りに、彼はその幼名を捨て、黒曜皇帝の臣下・黎となった。




