最終話・前編 濡鴉の抱く待雪草
おぼろ月が分厚い鈍色の曇り空に隠れ、宵闇が深まる空の下。烏丸は、理をこえた精霊の奇跡をただ立ちつくして見上げていた。
半壊した精霊殿の白磁の庭を、真白な一角獣──草樹を掌る霊獣『麒麟』の群れが迅風となって駆けぬける。
彼らが硬い石床へひづめを打ちすえるや否や、刻まれた裂け目の古土から鮮烈な松竹色の若草が爆発的に吹き出した。
「この麒麟は、生命の芽吹きを呼ぶ」
生命の気配をもたぬ霊獣の群れを凝視する烏丸へ、月守は手元へ寄った麒麟の耳裏をなでながら告げる。
彼女の氷色だった双眸が、鬼神となったあの夜と同じく月魄色に変貌し、虹色の光彩を帯びていた。
『四霊獣よ。清霊たちの還魂を迎えられるように、地上を揺籃へと再生する。力を貸してくれ』
月守が朗々とした声音で夜空をふるわせた瞬間、八光嶺の上空をおおっていた分厚い雲が割れ、現れた望月が清烈な光を解き放つ。
陥没した巨大な亀裂へ雲海が流れこみ、あふれる雨水が巨大な深藍の泉を形成していった。その底でゆらめくのは、白銀のウロコと巨顎をたたえた『応竜』だ。
応竜のひと鳴きが大気を震わせると、霞立つ雲海の下に恵みの雨が降りそそぐ。乾ききった枯色の大地が水分を吸いあげ、麒麟たちがいっせいに下界へ向かって空を駆けた。
八光嶺から見下ろせば、黒鉄のように焦げた野山がまたたく間に生命の千歳緑へぬり替えられていく。
背後にそびえる鳳山は完全に沈黙し、月守の影の玉座と化していた。その火口の褐色の淵には純白の『鳳凰』が翼を休めている。時折、鷹のように天空を舞い、羽ばたくたびに白銀の光沢をきらめかせた。
風巻いていた極寒の風が一度凪ぐと、暖かな薫風へ変わり、下界の木々が一気に背を伸ばした。
遠く下界から、人々の歓声が地響きとなって届く。
だが、その歓喜は烏丸の耳には届かない。全身の傷が重く痛み、世界に一人取り残された冷たい虚無感が、体を地面へ引きずり下ろす。
どれほど世界が再生しようと、失われた命はよみがえらない。人間が新たな命を育み、里を再生させるには途方もない時間を要する。
「霊亀が地上とつなぐ水脈を穿っている。案ずるな」
八光嶺の下で脈動する地鳴りに青ざめる医術師たちをよそに、月守は静かに言い放つ。
「四霊獣は自然を奪いもすれば、与えもする精霊。天狐もその一つ……だが、大昔の罰が魂に刻まれているのか、私に懐かぬ」
「……既望が、精霊」
「人を愛し、惹く力が災いを呼ぶ。今生では分をわきまえるだろう」
「既望は……生きているのか!」
「死ねば他の霊獣が報せる。それがないのが証左」
人智を超えた理の前に、烏丸は乾いた喉を濡らすように息をのむ。
「俺がともに暮らした既望には、確かに人の心があった。……俺の方が、人の心を忘れていた」
「忘却は真の人間らしさゆえ起きる。精霊は永遠に記憶し続けてしまう。良くも、悪くも」
月守は烏丸を責めなかった。ただ、絶望の淵に立ちつくす者へ、凪いだ水面のごとき静寂な眼差しを向けるのみだ。
自分だけが神に赦されているという事実が、烏丸の胸の奥を激しくえぐり取る。
既望は生きている。だが、月守は追うなと告げた。人間である自分への執着が破滅を呼ぶのだと。霊能を奪われた既望は、満たされぬ愛に飢え、果てのない荒野を孤独にさまよい続ける。
自他を犠牲にしてまでも情愛に執着した既望。覇権に溺れた玄海。そして、暴力にすがることでしか生きられなかった己。
この残酷な乱世において、出雲だけが最後まで人の道を失わなかった。
その彼女を救うことすら叶わず、世界を瓦解させる因果となった己だけが、なんの罪も償えぬまま生き長らえている。
*
月守の傷が癒滅するまでこの霊峰にとどまるつもりの烏丸は、魂の抜け落ちたような日々を送っていた。
どれほど生きる気力を失おうとも、人間である以上、肉体は否応なく腹を満たそうとする。芽吹いた野草や山菜を摘んでは、かろうじて命の細糸をつなぎとめる日々。
ある日、森でヤマドリを狩り、手の中で弱々しくもがく生命にとどめを刺そうとした瞬間、ふと手が止まった。
『かわいそう』
遠い昔、野ウサギをさばこうとしていた己の横で、出雲がぽつりともらした声が耳奥によみがえる。動植物を愛おしみ、無垢な哀れみを向けた彼女の眼差しが、鮮明に網膜へ浮かびあがった。
人間の争いによって数を減らし、それでも健気に生きのびてきた野生の姿が、泥水をすすって命をつないでいた名もなき民の親子と重なった。
これ以上の血を流してまで、己を生かす意味などどこにあろうか。
烏丸は、ヤマドリの羽をそっと解き放ち、夕空へと還した。
黄昏が訪れるまで、橙や真紅に熟した森の果実を集める。精霊殿で治療にあたる医術師たちの分も籠いっぱいに詰めこみ、茜色に染まる空を裂いて飛び立った。
半壊した精霊殿には、不気味な静寂が満ちている。
紫苑の空から夜の漆黒が落ちると、死んでいった神官や兵士たちの断末魔が、幻聴となって廃墟にこだました。
鎮魂されぬ死霊がさまよっているのか。あるいは、己の罪悪感が呼び寄せているのか。
まぶたを閉じれば、冥色の夜闇に浮かびあがる出雲の血に濡れた白い指先。烈風の中を無残に転がる玄海の首級が焼きついて離れない。
濃密な血の臭気が視界を緋色に染めあげ、過呼吸で胸が詰まる。悲鳴をあげて跳ね起き、頭をかきむしりながら膝を抱く。そんな夜が幾度となく繰り返された。
彩りを取り戻したはずの世界の中で、烏丸の眼には色づくものが無機質な灰色に映り続ける。
気がつけば、すべてが崩落したあの夜から、月は十二度その相を変えていた。
帰る場所のすべてを失ってはじめて、足元からくずれ落ちるような孤独を知った。己の弱さに、乾いた嘲笑がもれる。
「……ガキの頃から、なにひとつ変わってねえな、俺は」
もはや、この身を罰する者はどこにもいない。自分への赦しが訪れることも永遠にないのだ。
初めて出雲と出会った柿の木の下。「ついて来たいなら好きにしろ」と言って歩き出した時、小さな背中が追ってきたことにどれほど胸をなで下ろしただろう。
人として扱われ、必要とされる温もりの中で、独りで生きる恐怖を忘れていたのだ。
あの森で始まったのは、出雲との出会いだけじゃない。神々との縁の始まりだった。
そして、幼い心には名付けようもなかったが、時を経た今なら、当時の己を突き動かしていたものの正体がはっきりとわかる。
鴉が一度選んだ番と死ぬまで添いとげるように、己の魂のすべてを彼女一人へ捧げつくす、激しい慕情の始まりだった。
生涯でただ一人、出雲という存在を、心から愛していたのだ。
それでも、いつ拒絶されるかもしれぬ恐怖に、必死で自分にしがみついてきた彼女を、抱きしめ返すことすらできなかった。
最期までまともに触れることすら叶わなかったというのに、愛に無自覚だった頃、彼女と触れ合った温もりだけが、己の肌と本能に深く刻みつけられている。
太陽の下で彼女と過ごした、温かな日向の記憶。あまりに色鮮やかだった光を知ってしまったからこそ、孤独の闇に心が裂けそうになる。
出雲とともに生きた時間を、永遠に忘れたくない。
彼女を失ったこと、犯した罪を忘却していく己を、断じて許したくはなかった。
決して枯れぬ想いが、ひとつの道を選び取る覚悟へと、静かに固まっていくのだった。
次回、最終話・後編(完結)は明日28日(月)22:10に投稿予定です。
サッカー観戦後の一服になれば幸いです。
<タイトル/慣用句>
濡鴉:
カラスの黒い羽が水に濡れて光を浴び、青や緑などの光沢を帯びて一層黒く見える様子から名付けられた伝統色。万葉集の時代から、日本女性の艶やかで美しい黒髪を称える言葉として「烏の濡れ羽色」などと共に使われる。
待雪草:
別名スノードロップ。うつむき加減に咲く、雪のしずくのような白く小さな花。寒い冬の雪が残る時期や雪の中から、じっと春を待つように、あるいは春の訪れを告げるように茎を伸ばして白い花を咲かせる姿に由来。
花言葉は「逆境の中の希望」「初恋のため息」「慰め」「あなたの死を望みます(イギリスの一部伝承に由来する怖い意味)」。
挿絵や設定ガイド note|https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847
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