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月魂の命根〜カラス将軍、敵神官への一途な恋が招く世界の終焉〜  作者: 更科 佳世晴


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第38話 月やこの世と鴉の鏡なる

 



 八光丘の隆起した地盤は、やがて雲上に達してゆれを止めた。


 精霊殿の広大な敷地は最果ての山頂と化し、冷徹な高空の風が血の臭気も、激痛の残響もすべてを吹きさらしていく。


 残されたのは、風音と、呼吸をくり返す己の醜い生動音のみ。


 振り返ると、傷だらけの月守(つきもり)が黒衣を風になびかせ、空の彼方を見つめて直立していた。


 虚無の内で、烏丸も夜空を仰ぐ。


 天上には、再び宙へ隠れた月を失った漆黒と、幾万のきらめく星々が散乱している。

 地上で散った命の数々が最期の記憶を燃やしてまたたく、遠く静かな輝きだった。




 *




 銀灰色の火山灰が絶え間なく降り注ぐ空の下、月が三度その相を変えた。


 八色の神官たちの血を吸い上げた小高かった丘は、分厚い雲海を穿つ峻厳な霊峰『八光嶺(はっこうれい)』へと変貌をとげている。


 背後には、大噴火の傷跡を刻んだ鳳山(ほうざん)までもが月守の威光の影のように雲上にそびえる。その頂は黒々とした巨躯を濡らし、底知れぬ火口を天空へ向けて大きく開いていた。


 半ば崩壊した精霊殿。


 足音と風音だけが静かに反響する回廊をめぐると、出雲の使っていた診療部屋に取り残された薬草や治療器具が視界に入る。


 散乱した分厚い帳面には、細かな文字が丹念に書き連ねられていた。


「あいつが、書いたのか……」


 つぶやいた声がひび割れた白磁の壁に虚しく反響する。


 食い入るようにその筆跡をたどる。基礎的な文字を覚えた程度の己には読めぬ専門用語の数々。自分の知らない出雲の知性と研鑽(けんさん)の痕跡が、胸の奥を激しく締めつける。


 帳面の間に挟まれたしおりには、一輪の押し花が添えられていた。

 変色して乾燥した花弁へ、指先で静かに触れる。


 だが、過酷な乾燥は押し花の命脈さえも奪い去っていた。触れた端からポロポロと灰白色の粉末となってくずれ落ち、虚空へ消えていく。


 最愛の者が遺した確かな生の痕跡。それが、あの凄惨な夜が夢幻などではない現実なのだと冷酷に突きつけていた。


 手慣れた手つきで薬草を選び出し、井戸の底に残ったわずかな水をくみあげる。

 枯れた庭園の木片をたたき割り、火をおこした。


 沸き立つ湯の中へ、布に包んで縛った薬草を沈める。煮だした湯を別の土鍋へ少し取り分け、冷ます。

 戦場で覚えた、無駄のない薬湯の作り方だった。


 精霊殿の最奥。月守の広い自室は壁や天井へ荒々しく亀裂が走り、窓枠のガラスは一枚残らず砕け散っていた。


 半壊した露台から庭へ降りる石階段に、彼女は腰を掛け、静かに目をつむっている。神官たちの黒い血が染みこんだ装束を身にまとい、何度も洗った末にその布地は薄墨色へ変色していた。


 精霊の力をそぎ落とした月守は、水も口にせず、横にもならず、ただ光を浴びて傷を休めている。月光と日光を取りこむことでしか、その力は戻らない。


 人間の姿を借りながら、生の理を外れた異質な存在。

 世界を灰に帰した精霊神であり、同時に出雲が命を賭して護ろうとした存在。


 行くあてを失った身であっても、この神を残して飛び去る気にはなれなかった。


「───望(ぼう)。薬湯ができた。手当てをしてやる」


 烏丸が荒焼きの土器を石床へ置き、低く声をかける。土鍋から立ち上る薬草の苦い蒸気が、冷え切った室内に広がった。


 月守は閉じかけていた目を薄く開け、かすかに顎を引く。白銀の光沢を失った髪は、乾燥した血を吸って濁り、つるばみ色へ沈んでいた。


 膝をつき、粗い麻布を温湯に浸して固く絞る。布を伸ばした先にあるのは、折れそうなほど細い四肢だった。

 掌の中央に穿たれた黒曜釘の痕は深く、傷口の縁から白銀の神血が糸を引いてにじむ。


「……あれほどの神威を持ちながら、傷ひとつ癒えぬのか」


「応竜は水風を喰み、天狐は情念を喰む……我が身を巻き戻す回帰の理とて同様。だが発すれば、地上の月魂を根こそぎ喰らいつくす」


 月守の双眸から、透き通った虹色の光芒がさっと散り、空気を揺らした。だがその光輝も、またたく間にかき消える。鬼神から理性を取り戻した月守の瞳は、あの晩から白銀色が絶え、氷藍色をしている。


 恩師が人ではない、神の使いであった現実。いまだに完全には受け入れられぬ事実に、烏丸は動きを止める。

 食の細かった既望は、人間の姿を象りながら、本当に情念を糧にしていたというのか。


 理を動かすには糧がいる。万物の頂に立つ精霊神とて、なにひとつ例外ではない。烏丸は息を詰め、湿らせた布を傷口へあてがった。


「死んだ人間を……よみがえらせる手立てはないのか」


「死者を呼び戻すなど、創世の理において不可能だ」


 即答する月守の声には、一切のゆらぎがない。


「この世の魂は死ねば現世にとどまらず、月へ還るというが、真か」


「月で因果の汚れをそぎ落とし、異なる生として還魂(かんこん)する。……それが、兄と組み上げた世界の巡りだ」


「ならば……地上で果てた者どもは、玄海以外、すでに月へ渡ったのだな」


 月守は首を小刻みにふった。


「まだだ。あの夜、私が力を使い果たしたゆえに……魂を導く道が開かぬのだ」


 烏丸は手の動きを止め、膝の上の麻布を見つめた。


 出雲の魂もまた、この冷えた風の中に漂っている。月守の力が戻れば、あの出雲も月へ還り、いつか別の命として生まれる。

 だが、ともに生きた記憶と痕跡は、どこにも残らない。


 肉体を苛む異形化の痛みを殺し、烏丸は肌にこびりついた黒血を静かにぬぐい去った。


「……血は止まった。手当てはこれが限界だ。薬草の蓄えも尽きる。下界から連れ出してきた薬師どもを、後で寄こす」


「世話をかける。今の身では、さまよう死霊の鎮魂(ちんこん)すら叶わぬ」


 処刑場を焦土へ変えた鬼神の威圧は、跡形もない。

 白銀の色を失って薄墨の衣をまとい、静かに伏せられた目元は、どこにでもいる十六、七の少女の輪郭だった。

 灰霄(かいしょう)民を思わせる薄い髪色と幼い顔立ちが視界に入るたび、みぞおちが硬く収縮する。


 力を求めて森を飛び出した日、置き去りにした出雲の面影が眼前の少女に重なる。


 下界を焼きつくした炎は、数千年にわたり溜めこまれた怒りと絶望の果てだ。赦し続けた神の慈悲が底をつき、世界そのものが破滅へたたき落とされた。


「……しみったれた顔をしやがって。あんたも、後悔しているんだろう」


 口の内で潰したつぶやきは、誰の耳にも届かない。


 己の醜悪さを鏡で見せつけられている気分だった。

 内なる獣性にのまれ、大切な存在から逃げ続けた己の無力さが、静かに鎮座している神の姿と重なり合っていた。




 *




 手当てを終えた烏丸は、無言で外へ踏み出した。


 焦げた烏羽色の羽織を肩からすべり落とし、からんだ髪紐を指で引きちぎる。背から解き放たれた双翼は、骨格がゆがんで異形に引きつれていた。鉛色の気流を力まかせに打ち払い、蹴りあげた体が重く空へ浮く。


 羽ばたくたび、節々の砕けた骨先が肉をけずる。強烈な横風に煽られて体勢がくずれかけるが、歯を食いしばり、強引に空を握り潰すようにして押し通した。


 ───眼下に広がる視界のすべてが、灰の静寂にのみこまれていた。


 黒曜領の周縁には天を衝く巨大な岩壁が真円を描いてそびえ立ち、内部と外界を完全に隔てる牢獄と化していた。壁の向こう側でさえ、地殻をえぐる亀裂が大地を真っ二つに切り裂いていた。


 半ばが吹き飛んだ山容。水分の干上がった大河の底には、干からびた魚の骨の残骸が転がる。

 灰に埋もれた都市の骨組みから、黒く焦げた絹服をまとう人々がはい出していた。泥水に汚れた手を天へ向け、声をなくして震えている。


 繁栄を極めた黒曜帝国は、完全に霧散した。


 着地の衝撃で、ひび割れた地表が小刻みにきしむ。烏丸は足元へ視線を落としたまま、荒涼とした灰の地を進んだ。


「……既望」


 擦れた吐息は、熱気を帯びた風にさらわれる。あの高空から落ちて、生きていられるはずもない。だが、足は止まらなかった。


 生き残った命の重みが、みずから死を選ぶことすら許さない。


 瓦礫の陰で、身を寄せ合う親子がいた。破れた着物を抱えた父親が、ひび割れた茶碗で泥水を掬い、小さな幼子の口元へ運んでいる。幼子の首には、使い古された木彫りの魔除けがゆれていた。


 烏丸の足音が灰を踏み鳴らすと、父親は悲鳴すらあげず、子供をかばうように小さく丸まった。


 烏丸は足を止め、懐を探る。残っていた硬い干し肉の塊を布袋ごと、無言で瓦礫の脇へ転がした。


「……行け」


 低く言い捨て、背を向ける。父親が震える手でそれを拾いあげ、泥に顔を押しつけて拝む気配が背中に刺さった。


 泥をなめて生きていた幼少の記憶が、指先の冷たさからよみがえる。

 凍えそうな夜、手を握り返してきた出雲の温もり。粗末な小屋の炉で、火をおこしては野草茶を差し出してきた既望の慈愛。


 自分を「家族」だとあいつらは呼んだ。拒絶される前に突き放し、劣等感を埋めるために力ばかりを求めた己を、最後まで見捨てなかった。帰るべき場所のすべてを灰の下に沈めたのは、他の誰でもない、俺自身だ。


『大丈夫、春は必ず来るから』


 降灰の音に混じり、鼓膜の奥で澄んだ声がひびく。


 わずかな希望を求めて、日が暮れるまで枯れた樹木の根元を掘り返した。膝を折り、爪に泥を詰まらせながら、積灰を必死にかき分ける。


 絶望の縁でうつむくように咲く、あの白い小花を探して───だが、指に触れるのは砕けた石片と、煤けた骨の粉だけ。干からびて死んだ大地に、その色彩は一ひらも存在しなかった。




 *




 黒翼が再び風をたたく。

 浮力を得た体が、濁流の煮え立つ連山の上空へと舞いあがった。


 光をそぎ落とされた鴉の瞳がとらえるのは、黒い濁流と真っ赤な業火を吹き立てる連山。崩壊した世界の残骸が、音もなく眼下を灰色に染めあげていく。


 強まりゆく風が、漆黒の羽毛を散らした。天をおおう灰の雲が、残された命の息の根を止めるように低く垂れ込めている。烏丸は眉ひとつ動かさず、滅びゆく地平の彼方へと翼を向けた。


 視界の果てまで広がるのは、朱と黒煙が交錯する修羅の荒野。


 それは、まぎれもなく、開闢(かいびゃく)より続いた人界が終焉を迎えた景色であった。




次回、最終話前編。

★評価・絵文字・コメントがあれば今後の執筆に役立てます。


<タイトル/慣用句>

見る人に もののあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ:

「人生のはかなさをしみじみと知らせる月は、この世のすべてを映し出す鏡なのだろうか。」

平安時代の第75代天皇である崇徳院が詠んだ有名な和歌『風雅和歌集』。保元の乱に敗れて讃岐へ流された波乱の生涯の中で、変わらぬ月の美しさに人生の無常を重ね合わせた。


小説挿絵を公開中|note

https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847


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