第37話 黎黒の縄張りと月魄の懐
「───玄海。お前の魂だけは、月へ還さぬ」
月守は右手の掌へ深々と穿たれた黒曜加工石の螺旋釘に指をかけ、きしりと逆回転へ巻き戻す。
肉を割る不吉な摩擦音。憤怒を宿す神の全身が軋み、白銀の皮膚を破って黒釘が抜けた。
傷口からあふれ出すのは、淡い光を帯びた白銀の神血。
月守はその腕をかかげ、泥の上の白磁に転がる玄海の生首へ直接血をしたたらせた。神聖な血が首の断面の黒い濁血を侵食した瞬間、紫黒の瘴気が不気味な泡をたてて立ち昇る。
『 爾 の 魂 、 黒 曜 の 縄 張 り を 獄 と し 百 代 罪 を 贖 い 禊 げ ────── 円 環 地 縛 獄 』
詠唱とともに、月守が片足で岩盤を踏み鳴らす。
細かな地振動が、またたく間に苛烈な波紋となって伝波し、神の呪詛が、はるか彼方の黒曜領の境界線を吹き飛ばした。
『 ─── 天 を 衝 け 霊 亀 ─── 』
大地の最深部からはい上がってきた低重音が、鼓膜を内側から圧迫する。
直後、八光丘の地盤が凄まじい轟音とともに陥没した。
岩土を司る霊亀の権能が動く。足元の岩盤へ、巨大な亀甲の紋様が月魄色の燐光となって鮮烈に浮かび上がる。
黎の視野の遠方で、地表が円状に砕け、赤熱の溶岩が激流となって噴出する。空気に触れて瞬時に固まる黒曜岩をのみこみ、天を穿つ巨大な岩壁が連なり立ちあがる。
広大な領土を外界から断絶し、漆黒の瘴気で満たす天を衝く牢獄。
月喰の赤銅色に濡れた視界の果てには、新しく生み出された絶壁の山脈が雲海を突き破っていた。
あの黒い山峰こそ、玄海の魂を鬼神の掌上に閉じこめる脱出不能な呪詛。
猛烈な地振動が、黎を縛りつけていた巨大な石柱を根元から亀裂だらけに変える。
黎は全身の筋力を絞り出し、背中を激しくたたきつけて石柱を砕き割った。
鉄鎖から逃れた肉体。しかし、視界はどす黒い赤に染まっていく。
残されたのは、圧倒的な破滅と喪失。許容量を超えた苦痛が、脳髄を容赦なく押し潰した。
「あ”あああッ!」
喉の奥が裂け、濡れた漆黒の羽毛が皮膚を突き破ってあふれ出す。
関節と骨格が不可逆な音を立てて砕け、獣の構造へと強制変形していく。残された鎖が肉に食いこみ、膨張する骨と筋肉が鋼の束縛を力まかせに断ち切った。
拘束から解かれても、全身を支配するのは激痛を超えた虚無。もはや、人間の姿を保つ理由などどこにも残っていなかった。
首を締めあげる縄を引きちぎると、背からねじれた漆黒の双翼が爆ぜるように広がった。人間性を完全に脱ぎ捨て、黎は異形の半獣・烏丸へと姿を変えた。
いびつな黒翼を荒々しく羽ばたかせ、精霊殿ごと隆起する岩山の頂へはい上がる。
月守のかたわらへ降り立つと、漆黒の鋭いくちばしを突き立て、鉤爪と化した脚首を噛む鋼具を噛み砕いた。黒色の金属片が火花を散らし、虚空へ弾け飛ぶ。
解き放たれた脚で地を踏みしめ、前を向く。だが、眼前で見下ろす神の双眸は、なおも深冷な怒りをたたきつけていた。
その視線は死体となった玄海から外れ、大穴の淵でうなり声をあげる巨大な天狐へと向けられている。
月守の姿をした荒ぶる鬼神は、間違いなく既望の生命すら奪い去る──背筋を凍らせる直感が、烏丸の動悸を跳ね上げさせた。
漆黒の肉体を、鬼神の足元へ投げ出す。
「──望、待て! 既望の命まで奪うな! こいつが狂ったのは俺のせいだ……俺が力を求めたから……!」
濡羽色の翼を泥へ擦りつけ、不様をさらして土下座で慈悲を乞う。
だが、鬼神は足元の半獣を視界にすら入れない。血のしたたる腕を掲げ、人差し指一本で銀の天狐を冷徹に手招いた。
『 来 い 、天 狐 。 数 十 度 目 の 説 法 じ ゃ 』
手招きに抗えず引き寄せられた鼻面を、鬼神の血まみれの掌が力まかせにわしづかむ。天狐の金の瞳孔が驚愕に収縮した。
「我が兄に拾われた野狐よ。兄がその身に封じた栄枯盛衰の化身。私心なくば繁栄をもたらすが、人に執心し情念を断てぬお前の力は反転し、祟りとなって人間を破滅させる」
鬼神から放たれる圧倒的な神威が、周囲の空気を物理的に凍てつかせ、岩肌に白い霜の文様を走らせる。
「人間を救わんとして人柱となった兄を置き去りにし、お前は逃げ出した。あろうことか天理の霊能と錬丹術を人界へばらまき、人世の戦禍を苛烈に悪化させた。挙句の果てには人間に成り代わったつもりか……身の程を知れ!」
天狐は絶叫に近い悲鳴をあげ、巨大な体を地に伏せて小さく震えた。
「情念を喰らうお前は業人を惹きつけ、人心を惑わす。人世に干渉するなと何度諭しても私に反逆し、みずから忘却を選んで、人界に甚大な祟りをはらませた……お前に慈悲はもう与えぬ。その魂、永久に葬る」
烏丸は言葉を失い、岩肌に伏せたまま唖然と聞き入った。
玄海が狂乱したのも、天狐の祟りだと言うのか。
神の言葉とともに、空気中に浮かぶ放電が蒼白い業火となって天狐を取り囲む。逃げ場のない厳罰が、今まさに下されようとしていた。
神の裁きは、帝国軍を一言で灰に変えるほどの天罰。月へ還ることも、生まれ変わることも許されず、既望という存在そのものを未来永劫消滅させる宣告だった。
黒曜の獄で百代さまよう玄海よりも残酷な、完全なる死。
「───待ってくれ、望! この丘の帝国軍は潰えた! もう十分だ……既望まで消さないでくれ!」
黒翼が狂風を引き裂き、烏丸は対峙する神と獣の間へ強引に割りこんだ。
前方にそびえるのは、赫怒の神気を放つ鬼神の影。背後には、九つの尾を逆立てた天狐の巨大な顎が迫る。神気と野獣の情念が激突する絶対死の領域。双方の縄張りを侵した烏丸の皮膚は、重圧だけで焼き切れるような灼熱に苛まれた。
月守の白銀色の双眸が、立ちふさがる烏丸を冷ややかに射ぬく。その指先から零れる神光が、空気中の水分を一瞬で結晶化させ、異音とともに弾けた。
「精霊獣には天理が存在する。口出し無用」
氷の神威が押し寄せ、烏丸の肩の骨が鈍い音を立ててきしむ。強烈な圧迫に逃げ出しそうになりながらも、烏丸は踏みとどまった。
背後の天狐が低くうなりをあげ、銀毛を逆立てて牙をむく。神と猛獣、双方の殺気が爪先から頭蓋までを駆けぬけた。全身の細胞が恐怖で悲鳴をあげ、喉の奥がカラカラに乾く。
だが、烏丸は両翼を地表へたたきつけ、血のにじむ脚を折り砕く勢いで泥へ伏せた。額を冷たい灰へ擦りつけ、喉を割らんばかりの絶叫を絞り出す。
「俺の命を差し出す! だから……どうか、慈悲を! 頼む……!!」
差し出された両翼の隙間から、ぼたぼたと落ちる血が灰を黒く染めていく。絶対の威圧を放つ神の足元で、ただ一人の人間が、泥にまみれて命を乞うていた。
「鴉一羽の命で、こやつが人界に与えた過ちを贖えるとでも思うのか」
「既望が過ちを犯したなら、俺が追い詰めたんだ!賢いやつらは結局は愚者に足を取られる……今のあんたもそうじゃないか!!」
破れかぶれの怒号となって喉を割いた。
非力な半獣ごときが破壊の鬼神を相手に、惨めな懇願以外に何ができるというのか。
「……望! 頼む……! 既望は、出雲が命をかけて生かしたかった命なんだ! この世から出雲が生きた証を、これ以上奪わないでくれ……!!────あんたの兄が人柱になってまで救った人間だろ!!!」
烏丸は血の混じる唾を吐きながら叫び、潤んだ漆黒の瞳で切実に訴えかける。
岩山に張り詰めた静寂が落ちた。
鬼神の焦点が、天狐から烏丸へと移る。微動だにしなかった白銀の双眸が、戸惑いを帯びてかすかにゆらいだ。
その直後、背後に立つ天狐の鼻先が、烏丸の湿った羽毛へ静かに触れた。
灰の混じる冷気を吸いこむ、重く深い吸気音が耳元でひびく。匂いを確かめるようにゆっくりと動いた巨大な鼻面が背中を離れ、天狐の顔が烏丸の真横へすべり出た。
「よせ、既望っ!!」
圧倒的な神威を放つ月守へ躍りかかる気か。
烏丸は爪先を泥へ突き立て、反射的に黒翼を押し広げて制止を試みた。
だが、殺気は一切存在しなかった。天狐は牙を隠し、柔らかな銀の毛並みを、鴉の漆黒の羽毛へそっとすり寄せる。
「……既望……俺が分かるのか?」
問いかけに応じるように、巨大な獣の喉が低く震えた。
『─── か ら す ま る 』
うなり声の底から、絞り出された人語がかすれ出る。極限まで開いた黄金の瞳孔が烏丸をとらえ、その目尻からあふれた大粒の雫が、銀毛に染みこんで伝い落ちた。
共通の身内を失った悲痛と、抗えぬ宿命を突きつけられ、みずからの暴走が引き起こした破滅に、その黄金の双眸が激しい自責にゆれている。
人世を狂わせた祟りの影をまといながら、既望は音もなく泣いていた。
情念を喰らい、化け物へと堕ちた恩師の悲壮な横顔は、力に執着して居場所を失ったもう一人の自分そのもの。
逃げ続けた己の臆病さと、過ちへの強烈な悔恨が胸を刺す。
「すまない……既望、すまない……!」
烏丸は黒翼をいっぱいに広げ、天狐の濡れた首元へ全身でしがみついた。
差し出される愛を恐れ、背を向け続けていた己が、生涯で初めて、みずからすべてを投げ打って求めた抱擁だった。
屍の異臭をまとう銀色の毛皮は、血の通わぬ氷の冷たさを帯びている。人の姿で自分を抱きしめた時に存在したはずの温もりは、どこにも残っていなかった。
「……お前と出雲から逃げた俺が、一番の愚か者だ……! 最初から、お前たちの情を受け入れていれば……!」
取り返しのつかない懺悔に、既望は言葉を返さない。ただ甲高い声で短く喉を鳴らし、鼻先を濡羽に深くすり寄せ、哀しげに九つの尾を横たえた。
*
鬼神の眼裏で渦巻いていた赫怒の火が静まり、白銀の双眸へ冷徹な理性が戻る。深く重い吐息が、霜の混じる白気となって月守の薄い唇からもれた。
「......気が失せた。己が身を犠牲にした鴉と出雲の命に免じてやろう。……だが、天狐。代々重ねたお前の業、膨れあがりすぎた霊狐の穢れ、祓わねばならぬ」
月守の手が、伏せる天狐の銀毛へ再び触れる。
神の皮膚を濡らす黒血が意志をもち、うごめく黒蛇の群れと化していっせいに喰らいついた。肉が焦げる嫌な音とともに、紫黒の墨印が全身の毛皮へ深く刻みこまれていく。
「これが最後の慈悲だ。その霊能を天に還す。忘却の代償に、子を成せば自らの命を吸い取られる理を与える。お前は永遠に父を知らず、父として生きられぬ。──私が母となれぬように」
天狐の顎から、空間を裂く悲痛な絶叫があがった。
『 ──── 我 が 苦 し み を 見 届 け 、悠 久 に 地 を は い ま わ る が い い 』
月守がその顔面を力まかせにたたきつけ、突き放す。発生した暴風が天狐の巨躯を軽々と弾き飛ばした。
呪いを打ちこまれた既望は、雲上に届かんとする頂から、黒濁した地底の亀裂へ真っ逆さまに落ちていく。
「既望!!」
烏丸は岩山の縁へ飛び出し、眼下を見下ろした。この高空から落ちれば、地表の岩盤にたたきつけられ骨まで粉々に砕け散る。救おうといびつに変形した大翼を広げた瞬間。
「追うな」
低く鋭い言霊が、刺すような冷気となって鼓膜を打った。
「あれは、お前への執着を捨てられぬ。お前が人間である限り、必ず祟りが及ぶ」
暗黒の底へ消えていく銀の毛皮。脳裏に明滅するのは、森の木漏れ日の中、恩師と出雲と笑い合った時間。
そして、この夜までに重なった狂乱、災い、惨劇。人智を超えた天理の暴力に対し、烏丸はうなだれ、伸ばしかけた黒翼が力なく地面へ落ちた。
自分が祟りを被れば、もっとも苦しむのは既望自身だ。
「.........もう、たくさんだ......」
鴉の鋭い鉤爪が、硬い岩盤を激しくえぐる。吹きつける凍てつく風に巻きあげられ、引きちぎれた己の濡羽が暗闇へ舞い散った。
人間としての生へ戻る道筋は、すべて黒濁の底へのみこまれて消えた。
八光丘を起点とした世界の地殻変動は、未だ収まる気配を見せない。
解き放たれた霊獣たちの莫大な威圧が、大地を割裂させ、山嶺を隆起させ、創世の躍動とともに新たな世界へとぬり替えていく。
<タイトル/慣用句>
月魄:
月そのものや、夜空に輝く「月の光」、月に宿る神霊や精霊である「月の精」や「月神」、光らない部分の「月の影」を意味する言葉。
挿絵や設定ガイド note|https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847
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