第36話 月に狂う一つ穴の天狐
網膜を焼きつくすのは、理が崩壊していく世界の断末魔。
月守のまとう血染めの黒い袖が大きくひるがえり、薄い唇からこぼれた細い吐息が大気に溶ける。ただそれだけで、猛烈な突風が重装甲の帝国兵を軽々と宙へはね飛ばした。
兵士たちはもはや、荒ぶる神の前に散るただの塵芥にすぎない。
悲鳴をあげて高く舞いあがる黒甲冑の群れを横目に、紫電の落雷が精霊殿の白磁の柱を粉砕する。
水脈が逆流を始め、意志をもってうごめく黒濁の激流が、逃げ惑う兵士たちを泥の底へ引きずりこんでいった。
吹き荒れる暴風の中、汗で銀髪を濡らした既望が、ぬかるむ岩肌へ激しくたたきつけられる。
出雲を奪われ、悲痛に顔をあげた既望に対し、あらゆる慈悲をそぎ落とした月守は、見る者の魂まで凍てつかせる極寒の視線を向けた。
「───お前の人世での名は、既望。その由来を知っているか」
荒れ狂う風の轟音を切り裂いてひびく月守の声は、かたわらで息をひそめる黎の鼓膜すら、澄んだ刃のごとき冷気で刺し貫いた。
既望は口内の泥を吐き出し、低くかすれた声で応じる。
「……父が授けてくれた名だ。それがどうしたというのだ! 創造主たるお前が、いまさらこの世を滅ぼしつくす気か!」
「父、か。お前にその名を授け、灰霄の乳母へ引き渡したのは私だ。満ちれば必ず欠ける……それが、その名に込めた意味だ。だが、里親からも逃げ出すとは呆れ果てる」
「違う!幼いうち黒曜民にさらわれ、見世物小屋に捕らわれていた私を、紅灼の養父が救い出し育ててくれたのだ!......お前が母に、私を......どういうことだ!?」
「灰霄へ戻らなんだのは、お前がその養父とやらに固執したからか。だが、その男とて非業の死をとげたであろう」
「……...重病を患い、私に苦労させまいと自死を……なぜ、お前がそれを知っている……!」
眉根を寄せ、いまだ理解の追いつかぬ既望を、月守は氷の双眸で見下ろした。
「最長命の灰霄こそ、お前の末裔。祟りが及ばぬはずが、我が獣の中でお前だけが私から逃れ、人間どもに無用な争いを吹きこむ」
「末裔だと......!?私に子孫などおらん!…… 月守ともあろう方が、なぜ私ばかりを責める......! 私はただ、烏丸と出雲を取り戻したかっただけだ!」
既望の叫びに対し、月守の喉の奥からこぼれたのは、冷ややかな嘲笑だった。
「神使が親を気取るか。人間への分もわきまえず、強すぎる情念にのまれたことがお前を狂わせたのだ」
「……さっきから、なんだというのだ! 私を人ではないとでも言いたいのか……! 私は……私は人間だ!!」
既望は泥で汚れた銀髪をふり乱し、声を荒げた。
「野狐が人まねをし、哀れな忘却を選んでいるにすぎぬ」
「なにを、言っている……!......お前は私の、なにを知っている!!」
ゆらぎを見せた彼を見透かし、月守の白銀の瞳が冷酷に射ぬく。
『 ─── 醜 悪 を 喰 ら え 。 天 狐 ─── 』
大気を震わせる絶対の神命が、既望の鼓膜を、頭蓋を、物理的な衝撃となって打ちぬいた。
「ァア”ア”アアッ───!!」
直後、既望の全身が凄まじい痙攣に見舞われ、その身体が人間ならざる異形へとゆがみ始める。
銀糸の髪が逆立ち、優美な喉から獰猛な野獣のうなりがあふれ出た。四肢を縛りつける鉛色の鋼具をふり払おうと、口の端から白い泡を吹きながら地表を転げまわる。
「どうした赫夜!? 気が狂ったのか!」
暴風と落雷の渦中、いまだ天変地異の治まらぬ地面に身を伏せていた玄海が目をむいた。執着をもって手元につなぎ止めてきた寵姫の異様な変貌に、激甚な困惑と怒声が爆発する。
「月守め、赫夜になにを施した!!」
「喰われる前に刮目しておけ。そやつの真の姿を」
抑揚のない冷淡な声で、月守が玄海とその視線の先でのたうちまわる既望を見下ろした。
既望は自我を失ったように狂乱し、背中に刻まれた封術の印を地割れの角へこすりつけ、肉ごと陣を破砕する。腕の皮が内側から裂け、銀の血がしぶきをあげた。
己の肉をそぎ、爪をはがしながら、力まかせに鉄の戒めを粉砕していく。
血を散らしながら枷を破った途端、既望の美しい銀髪がまばゆい発光を始めた。人間の肉体が、骨の奥から生じた高熱によって光の中へ溶けくずれていく。
閃光と爆風が去った後、そこには巨大な銀白の霊狐が鎮座していた。
黎がかつて森で目撃した姿とは次元が異なる。重装歩兵すら一呑みにする巨躯。全身から苛烈な銀糸の狐火をゆらめかせ、九本の尾が夜風の中で妖しく波打っていた。
荒ぶる殺気を放ち、銀の虹彩に縦長の金の瞳孔を浮かべ、天狐は玄海を見下ろし、舌なめずりする。
「赫夜、貴様……! 神の手先が、人に化けて俺をだましていたのか! ───あの狐を討ち取れ!! 討伐した者を次の大将軍に任ずる!」
狂愛から一転、玄海が血走った目で叫んだ。
戦意を失いかけていた兵士たちが、欲望と恐怖に突き動かされて刀を抜く。
「俺が仕留める! 再び大将軍の座に返り咲いて───」
先頭を切った黒髭の緇条が、雄叫びをあげきる前に天狐の前脚が閃いた。
鈍い破砕音。分厚い鋼の大楯ごと、緇条の胴体が上下に両断される。一瞬遅れて、大量の血煙が周囲を黒く染めた。
続く兵士たちも、天狐の鋭利な爪の一閃によって肉片と化して宙を舞う。
黎の頭上に血の黒雨が降った。
「……既望……それが、お前の……本当の姿なのか……?」
首を縄で縛られたまま、黎は言葉を失った。
『 ─── 天 狐 よ 、 皇 帝 の 首 を 持 て 』
月守の静かな神命が風に乗って届く。
天狐の瞳孔が極限まで絞られた直後、獲物を捉えた金の虹彩が凶暴にひらいた。
標的は、黎の目と鼻の先に立つ玄海。猛烈な殺気をたぎらせ、鼻先をゆがめて咆哮をあげる。
死も神も恐れぬ不屈の意思を誇った玄海の顔に、初めて明確な戦慄が走った。
「この……化け物がッ!!」
声をうわずらせ、腰の宝剣を構えようとした瞬間。
巨大な銀のあぎとが視界をおおう。
ガチン、と硬質な破砕音がひびき、鋭い牙が鉄兜ごと玄海の頸椎を打ち砕いた。
悲鳴をあげる暇すらない。黒曜皇帝の首から上が、またたく間に虚空へ消え去る。
「玄海……!」
噴きあがる黒濁の血柱とともに、金糸と黒曜石で飾られた重厚な甲冑が、泥の中へドシャと崩れ落ちた。
ゴトリ、と天狐の口から吐き出された首級が、黎の足元へ転がり出る。
「ち…………父、上」
自分を息子と肯定した男の顔。見ひらかれた漆黒の双眸が、己の血をあびたまま空洞な夜空を見上げている。
あまりにもあっけない終焉に、黎の思考は完全に凍りついた。
天狐は怨嗟のうめきをあげ、残された胴体を前脚で力まかせに踏みにじる。九つの尾の先で渦巻く白銀の狐火を放ち、黒曜の甲冑ごと肉塊を一瞬で灰燼へと変えつくした。
地表に残されたのは、玄海の首と黒い血痕のみ。
さらに巨体をしならせ弾ませた天狐は、八光丘の上で腰を抜かす兵士たちへ襲いかかった。
神速の爪と巨大なあぎとが、重装歩兵の命を片端から刈り取っていく。断末魔の絶叫が八光丘の闇にこだました。
血を求めて暴れまわる天狐の目は細められ、愉悦にゆがんでいる。
(あの既望が……人間を、殺戮している。)
惨劇の連続に胃袋が激しく痙攣し、黎は石柱に縛りつけられたまま、吐き気に胸を焼かれてむせびこんだ。
天狐が丘上の敵を狩り尽くすと、人間の声は虫の息すら消え失せた。周囲には原型をとどめぬ無数の血肉が散乱し、臓物の生臭い悪臭が狂風にのって漂いわたる。
処刑台へと戻ってくる銀の毛並みは、黒濁した返り血を全身にあびていた。
殺戮に酔いしれる凶暴な眼光と、籠の鳥となったまま黎の視線が交差する。
喰われる───そう確信した。
噛み殺されるのを覚悟して全身をこわばらせた黎だったが、天狐は虫ケラのごとく一瞥し、その横を悠々と通り過ぎていった。
月守のかたわらへ戻った天狐が脚を止める。
その鼻面が、地面に残る出雲の血だまりをとらえた。肥大した瞳孔をギラつかせ、銀灰の血へ湿った舌をゆっくりと伸ばしていく。
獣の本能に残る出雲への執着か、それとも血に宿る霊力をむさぼろうとしているのか。
「やめろ……ッ!」
人間性を完全に喪失した獰猛な牙に、恩師の面影も、側室・赫夜の面影も欠片すらない。
「出雲のことも忘れちまったのか、既望……!!」
悲痛な叫びも、滅びの嵐を巻き起こす天狐の耳には届かない。
大切な者をすべて失った世界に、自分だけが取り残されていく。
「動け……ッ! くそッ、動け……!!」
全身を縛りあげる呪具の鎖に対し、黎は歯をむき出しにして身をよじった。みちみちと冷たい鉄鎖が肉に食いこみ、両手首から温かい血が噴き出す。
皮膚が裂け、骨がきしもうとも、絶望に打たれた半獣の身では呪具の鎖一本引きちぎることすら叶わない。
出雲は命を散らし、恩師は怪異へと化し、養父は首だけ残して燃え去った。
精霊たちの暴力だけが地上を踏みにじり、すべてを無へ還してゆく。己だけが泥にはいつくばり、その終わりをただ見つめることしか許されない。
その間にも、世界はうめきをあげながら、狂乱の天地変動によって崩落していく。
「この世に俺だけ取り残されて……たまるかよ……ッ!」
はがれた爪の先が、石柱の表面を猛烈に削り落とした。指先から流れる血が、冷たい石肌を黒く濡らしていく。
周囲からは化け物と蔑まれ、己の腕力のみを頼りに生きてきた。だが、神々の絶対的な破壊が吹き荒れる中で、誇ってきた腕力すらなんの意味もなさない。骨の髄までたたきこまれる、あまりに苛烈な無力感。
それでも──この滅びゆく人界で黎だけが、無様でちっぽけな「人間」の意志として、泥を噛みながら抗い続けていた。
降りそそぐ暗灰色の火山灰が、視界を灰塵でぬり潰していく。
その視線の先で、鬼神と化した月守の壮絶な怒りは、未だみじんも収まることなく煮えたぎっていた。
「───玄海。お前の魂だけは、月へ還さぬ」
<タイトル/慣用句>
一つ穴の狐:
一見して無関係や別々に見えても、実は同類であることや、裏で同じ仲間であることを意味する言葉。同じ穴の狢と同義。
挿絵や設定ガイド note|https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847
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