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月魂の命根〜カラス将軍、敵神官への一途な恋が招く世界の終焉〜  作者: 更科 佳世晴


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第35話 月魂之世に鬼神降臨

 



 全身の震えが止まらない。この場から一刻も早く逃亡したい衝動。

 黎(れい)は脂汗を流しながら身をよじるが、極太の鋼鎖が虚しく音を立てるだけだ。


 月守(つきもり)の声は、世界の理を振動させながらひびき続ける。


『 爾(なんじ) ら の 愚 行 に 贖 罪(しょくざい) の 慈 悲 を 与 え る 。帝 国 領 土 が 食 い 荒 ら し た 人 間 を 月 へ 還 し 因 縁 を 断 つ ──── そ の 咎 を の み こ も う 』


「贖罪の慈悲だと? この期に及んでなんの世迷言を!」


 玄海を無視し、月守が天を仰ぐ。


 双眸に宿る虹彩色の白銀が極限まで濃縮され、網膜を焼き斬るほどの閃光を放った。


 大きく息を吸い込んだ瞬間、広場を満たす酸素がそぎ落とされ、死の気配が充満する。大気が完全な静寂に沈んだ。


 黎の本能が絶叫する。体中の血液が冷たく凝固していく。


 月守を中心に、空間そのものがいっせいに鳴動を始めた。

 玄海の放つ威圧とは桁違いの、世界そのものが逃げ場なく押し潰してくる密度ある怒り。


( これは……天地そのものの憤怒だ……!)


 森羅万象に宿る名もなき精霊たちが、月守の意思に同調して脈動を始めていた。


 野山で育ち、風の匂いで天候を察知してきた黎だからこそ解る。大樹や草花、風や清流、篝火(かがりび)の炎に至るまで、人智を超えた生命の息吹が世界を満たし、いま月守の呼びかけに応えているのだと。


 月守の発する異様な気迫に、玄海もようやく顔色を変え、剣を握り直す。


「なにをする気だ……! 小癪(こしゃく)なその首、たたき切ってくれる!」


 横なぎに大剣をふりかざした、その瞬間。


『 開(かい) 闢(びゃく) 以 来 の 解 放 じ ゃ ─── 』


 異形の覚醒を直感し、黎は叫んだ。


「待て、望(ぼう)ッ!!」


 だが、黎の叫びは突如巻き起こった暴風に瞬時にのみこまれた。


『 ─── 荒 ぶ れ 四(し) 霊(れい) 獣(じゅう) 、 天 地 の 畏 怖 を 月(げっ) 魂(こん) に 刻 め ─── 』


 術ではない。呪文でもない。

 それは、世界の「理」そのものを力づくでぬり替える、神の絶唱だった。


 胸の奥を激鉄でたたかれた衝撃が走り、黎の呼吸が一拍とだえた。


 音を置き去りにして、足元の御影石が割れ飛ぶ。緑青の鉱物粉で描かれていた大呪縛の霊術陣が、もろい硝子さながらに砕け散った。


 月守を束縛していた太い鉄鎖が鳴動とともに弾け跳び、ちぎれた鉄片が黒曜兵の皮膚を容赦なくそぎ落としていく。


 至近にいた玄海が漆黒の胸甲をきしませて吹き飛ばされ、石畳の上を転がった。


「くっ……緇条(しじょう)! 月守の霊術を封じたのではないのか!」


「は! 確かに封術の釘を打ったはず……しかし!」


 たたきつけられる強烈な風圧に、緇条が黒衣の袖で顔をおおいながら悲鳴をあげた。


 大気に生暖かい疾風が渦を巻いて駆けぬけ、八光丘の夜空へ墨を流したような重い雲煙がわき立つ。


 処刑場の真上だけが、円形にくりぬかれたように開いていた。本来ならば光をそぎ落とした「亡月(なきづき)」の夜。暗黒にぬり潰されるはずの天空から、赤黒い光線が束となって地表を射す。


 漆黒の暗雲の開口部で、現れるはずのない月が血を流すように紅く蝕(むしば)まれていた。赤銅色にゆがむ光の輪郭は巨大な眼球へ変貌し、地上を冷徹に見下ろしている。


「空を見ろ! 今夜は亡月のはずだぞ……なぜ紅い月が!?」


「月喰(つきぐい)……! 馬鹿な、ありえん! 月無き夜に、月が喰われるなど……っ!」


 暦の理を根底から踏みにじる、不吉極まりない天象の異形。兵士たちの陣列に悲鳴が走り、動揺が波のように広がっていった。


 ───ズズズ、と腹の底をゆらす地鳴りがとどろく。

 大地がうねり、封じられていた地脈が暴竜のごとく脈打ち始めた。


「な、なんだ……!? 地底が動いてやがるのか!?」


「陣が割れるぞ! 退け、退がれッ!!」


 八光丘の麓を埋め尽くしていた数万の黒曜帝国軍が、一瞬にして底なしの狂乱におちいる。重装甲冑で身を固めた兵士たちが、無数に走る地表の亀裂に足をすくわれ、悲鳴を上げながら雪崩となって重なり合っていった。


 甲冑のきしむ不快な金属音と、生身が押し潰される阿鼻叫喚。

 処刑台の真下から四方八方へ太い亀裂が走り、圧倒的な地圧に玄海すら踏みとどまれず、数歩後ずさった。


 轟音とともに地盤が隆起し、月守を縛りつけていた巨大な石柱が、天へ向かって突きあげられる。背中を固定していた石材が破砕音をあげて砕け散り、解き放たれた月守は、渦巻く土煙の中へ静かに着地した。


 両手の甲を貫く黒曜石の楔から、白銀の神血をしたたらせながら───精霊神は、ゆったりと顔をあげる。


「捕らえろ!! たかがひとりの女だ、逃がすな!」


 死線の恐怖を打ち消すように、たたきつけられた玄海の怒号。

 だが、その声は、降りそそぐ月守の言霊によって一瞬でかき消された。


『 ─── 魃(ばつ) に 哭(な) か せ 麒 麟(きりん) ど も ─── 』


 一音ごとに大気が凍てつき、黎の視界からあらゆる生気が色あせていく。


 極度の乾燥をはらんだ熱波が大気を瞬時に焼きつくす。豊穣を司るはずの精霊力が逆流し、現世の命を激しくむさぼり始めた。


 処刑台の周囲をおおっていたシダや巨木が、瞬時に焦げ茶色へ変質し、もろい白塵と化す。土壌の水分は一瞬で干上がり、亀裂の走る地表から灼熱の蒸気が立ち上った。


 八光丘を囲む巨樹群が乾いた音を立てて灰へくずれ落ちる。逃げ惑う兵士たちの皮膚は粉をふき、裂けた唇から黒ずんだ血がにじみ出た。


『 ───  応 竜(おうりゅう) 鳳 凰(ほうおう) 、 濁(だく) 風(ふう) 雷(らい) 噴(ふん) に 激 せ ─── 』


 重なり合う重低音の束が地表を激震させる。それは目に見えぬ巨大な圧迫の波となり、地上をたたき潰す音圧の暴力であった。


 月守の解き放つ声には、人間の知覚を超えた超低周波と高周波が過剰に渦巻いている。人並外れて鋭敏な黎の耳を強大な衝撃波が突き破り、鼓膜の奥から熱い血がしたたり落ちた。


「っ……耳が……頭が、割れるッ……!」


 脳をゆさぶる劇痛に耐える黎のはるか頭上で、八光丘のかたわらにそびえる最高峰・鳳山(ほうざん)が沸騰を始める。


 ズシン──と腹底をえぐる衝撃とともに、直後、山頂から穿たれた巨木のごとき黒煙が天へ突風となって噴きあがった。火雷をまとう鳳凰の胎動が溶岩の底で暴れ狂い、舞い散る大量の火山灰が大気中で凄まじい放電を引き起こしていく。


 漆黒の煙の隙間を、太く青白い雷光が幾重にも走りぬけた。稲妻を従えた大噴火が、夜空を白昼の惨劇へとぬり替える。


 直後、天地を破砕する空前絶後の爆発音が世界をゆるがした。

 黎も玄海も、その場に立ちすくむ万の軍勢がいっせいに身を縮める。


「鳳山が噴火……!? 死火山のはずだぞ!!」


 丘の下を埋めつくす兵団が、天から降りそそぐ赤熱した浮石の雨と黒煙を見上げたまま、絶望に硬直した。


 その間にも天をおおいつくす暗雲から、暗灰色の漏斗雲が幾本も地へとなだれ落ちてくる。


 応竜の呼ぶ濁流の湿気と、大噴火の熱波が激突して生まれた大竜巻。黒々とした巨躯へ膨れあがり、地表を根こそぎなぎ払いながら、重装歩兵も軍馬も陣幕も、巨大な遠投投石器すら一飲みに巻きあげていく。


 兵士たちは悲鳴を上げる暇すら与えられず、鋼の大楯ごと上空へ跳ね飛ばされ、ねじれた暗雲の開口部へ消えていった。


 ───神話の時代にしか存在しえぬ、未曾有の災禍。


 激しい暴風が、粉砕された石畳の鋭片と礫(つぶて)を容赦なくたたきつける。まともに目を開けることすら叶わない。


「緇条様!いったい、なにが起きているのですか……!」


「月守の仕業だ!誰一人として、これほどの天変地異を目にした者などおらん!」


 泥に身を伏せた緇条へ、側近の兵たちが髪を振り乱して叫ぶ。


 鼓膜を穿つ凄絶な大音響と、万の人間があげる死の絶叫。


 耳をふさぎたくとも、鉄鎖で石柱につながれた黎に抗う術はない。破れた片耳から血があふれて聴覚は狂い、視界は激しい振動で白く濁る。思考は麻痺し、ただ半開きの唇から浅い吐息がこぼれ落ちる。


 眼前でくり広げられる光景は、人が理解しうる理の領域をはるかに超えていた。


 その狂乱の正中央で、月守の周囲だけが、不気味なほど凪いだ無風の境界を保っている。


「これが……天地の象を司る、精霊神の力だというのか……!」


 重厚な甲冑をきしませ、玄海が低くうめく。絶対的な支配者の尊厳は跡形もなく吹き飛び、蒼白な顔で、震える手で宝剣を握り直すのが限界だった。


 両の掌に黒曜石の釘を穿たれたまま、月守の人さし指が天を指し示す。八光丘を包む大気が異音を立てて凝縮し、ひずみ始めた。


「───うゥッ……ッ!」


 黎の胸底から酸素がごっそりとかすめ取られる。耳の奥が真空に引っ張られて音が途絶え、息を吸うことすら叶わず悶絶した。


 月守の腕が鋭くふり下ろされた直後、限界まで凝縮されていた空気が一気に弾け飛ぶ。音を置き去りにした高圧の衝撃波が、空間を真っ二つに打ちぬいた。


 八光丘を中心に、爆発的な狂風が地表の岩肌をけずり取りながら、放射状に吹き荒れる。


 万の兵陣も、本陣を囲む太い木柵も、泥と瓦礫(がれき)のチリと化して消え失せてゆく。


 頭上からあびた汚泥に濡れた月守の黒髪が、重力を無視して空中へ逆巻いた。


 怒髪天を衝く乱れた黒髪の奥、闇の中で赫々(かくかく)と白銀に輝く双眸が、この夜全体を一頭の凄惨な怪物へと変貌させていた。


( 目の前にいるのは、精霊神ではない。───鬼神だ)


 神の慈悲が反転した絶望の化身。

 人間が踏みこんではならない、世界の不可侵領域を犯した代償。


 黎は己の絶対的な無力を突きつけられ、鬼神が天罰を下していく惨憺(さんたん)たる情景をただ呆然と目撃し続ける。


 黒く染まった衣の裾を波打たせ、月守が一歩を踏み出す。


 その足が泥を踏みしめるたび、八光丘を包む大気が微細な結晶となって砕け、白銀の波紋が全方位へ広がる。周囲の瓦礫や打ち捨てられた鉄の武具が重力を失って宙へ浮かび上がり、そのまま白銀のチリとなってかき消えた。


 絶対の死を体現した鬼神が、崩壊していく世界を一望に収めながら、悠然と歩みを進める。


 その赫怒が鎮まるまで、誰一人として止める術はない。




<タイトル/慣用句>

鬼神(きじん):

人知を超えた超人的な威力や能力を持つ天地万物の霊魂や、畏怖される荒々しい神々のこと。中国から伝来した概念で、古くは自然霊や死者の霊魂などを指した。


挿絵や設定ガイド note|https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847


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