最終話・後編 二千五百年、欠けゆく月を待ち望む白花
※末尾に著者あとがきを掲載しています。
季節が幾度も巡り、月守の肉体が治癒を果たしたのは十六夜の夜であった。真円を過ぎた月は、その裏側から黒い陰をはらみ、密やかに欠け始めている。
八光嶺に清冽な水をたたえる泉の先で、月魄の光沢を放つ長髪が夜風へ幻想的に舞う。精霊力の回復を示すその髪は、一点の濁りもない白銀を取り戻している。
しかし、まとう衣には、あの時命を散らした神官たちの血が今なお色濃く刻まれていた。薄墨のような鈍色が、ぬぐえぬ喪の気配を漂わせている。
月守もまた、自らのために命を落とした神官たちを偲び、あの欠けゆく月を仰いでいるのだろうか。
藍色へと染まりゆく宵の天。烏丸は雲海を見下ろす月守の背へ向け、乾いた石床へ強く額をたたきつけた。
「───望」
すべてを捨て去った、精霊神への最後の懇願。
「……俺は、恩師の暴走も、皇帝の過ちも正せなかった」
石床に押しつけた喉の奥から、魂を灼かれるほどの悔恨が絞り出される。
「出雲を無惨に死なせ、俺だけが生き残った……! この罪を、死んでも自分で赦すことなどできない……!」
冷ややかな石床に、落ちた大粒の雫が黒い染みを広げていった。
「あいつがいる月へなど、還れない……!既望と玄海が永劫の償いを背負って地をさまようならば、どうか俺にも罰を……生き地獄で構わない。俺に、贖罪の道を与えてくれ……!!」
静寂が、白磁の廃墟を満たした。
月守はゆっくりとふり返り、白銀の瞳で平伏する烏丸を見下ろす。細い吐息をこぼし、憐憫と諦念を宿した眼差しで、深く首を垂れる烏丸の首筋を見つめた。
「……ならば、お前はこれより皇統の影となれ。神と崇められても、死霊しか鎮められぬ私には、お前を救済するすべがない」
冷ややかな指先が烏丸の頬を包み、顎をそっと持ちあげて視線を交わらせる。哀しみの底に、ゆるぎない意思を秘めた悲壮な瞳。
眼前の烏丸へ覚悟を示すように、月守は白磁の指先を犬歯で噛み裂いた。したたる白銀の神血が、烏丸の首筋を優しくなぞっていく。
首周りをめぐる生温かい神血の痕を、烏丸はただ黙して受け入れた。
「天狐が還した、命脈を絶やさぬ繁栄の力だ。お前の血がこの煉獄を受け入れられれば、霊狐となった野狐のように、お前を霊鳥の神使に変える呪いとなる。......耐えられなくば、死ぬ」
「受ける。……構うものか。本物の……呪われた化け物に堕ちようとも」
冷たい指先が幾何学的な円陣を描ききると同時に、月守の薄い唇が動いた。
『─── 烏 丸 黎。そ の 魄 命 を 解 き、天 地 人 の 哉 生 魄 を 刻 め。命 脈 を 灼 き 霊 鳥 の 影 と な れ 』
詠唱の刹那、銀の神血は皮膚の下へと這い入り、柊のトゲで直にえぐられたような猛烈な熱を発した。
「ァ”──────ッ!」
あまりの激痛に、叫びすら喉の奥で潰された。首筋と胸元を狂ったようにかきむしり、烏丸は月守の足元で無様に転げまわる。視界が紅蓮に染まり、全身の血液が全細胞ごと焼きつくされていく。
月守はただ、その悶絶する姿を無慈悲なまでの哀れみをたたえた目で見下ろし、静観していた。
胃液をぶちまけ、奥歯を噛み砕くほどの苦痛にもがく間にも、神血は漆黒の荊の刺青へと変貌をとげ、首筋の肉の奥深くまで脈打つ根を張り伸ばしていく。
まさに壮絶なる灼熱地獄。極寒と錯覚するほどの激熱を全身にあび、業火に焼かれる痛覚に喘いではのたうちまわる。
だが、耐え難い肉体の悲鳴の中にあっても、脳裏に焼きついた灰霄の髪と、銀色の髪をした家族の面影を消し去ることはできない。身を灼く痛みを容易く凌駕したのは、心をどこまでも塗りつぶしていく凄絶な喪失感であった。
何度も呼吸を忘れ、意識の糸が切れかけた。
一刻近くもがき苦しみ、夜空が完全なる濃藍色へと沈みきった頃。
荒い吐息とともにようやく激痛の波が引き始めると、烏丸はよろめきながらも必死に身を起こし、再びその場に膝を折った。
成り行きを見守っていた月守は、なにも言わず、呪いの受け皿となった烏丸へ静かにうなずく。腕を伸ばし、血のにじむ指先を烏丸の額の中央へ深く押し当てた。
「黒曜の血はたびたび狂う。お前の血は必ずその君主に死を与える。皇帝の贖罪が終わる百代まで、お前の魂は月へ還れぬ」
永遠にも等しい、暗殺と守護の絶対命令。
白銀の神血と、烏丸の黒い半獣の血が混ざり合う。皮膚の下で高熱を帯びた銀黒の霊印が結ばれていく。
『 爾 が 死 ね ば 子 孫 の 器 を 依 代 に 命 が 遷 る 。次 代 の 生 を つ な ぐ 霊 能 ・哉 生 魄 を あ ず け 魂 を 縛 る 。 黒 月 が 無 に 帰 す ま で、 我 に 下 れ ─── 天 狗 』
神の言霊と天名が、烏丸の心臓と頭蓋へ、二重の楔となって打ちこまれる。
全身の細胞が凍りついた。直後、烏丸の魂が授けられた魄の霊能をのみこみ、黒銀の炎となって激しい燃焼を始める。
己の魂魄が、完全に人の理を外れ、神の眷属たる呪いへと変質していく。
『 我 が 掌 中 に 皇 帝 の 魂 を 封 じ、二 度 と 人 世 に は 関 与 せ ぬ 。天 狗 よ 。雲 海 を 天 界 と の 境 と し、人 の 身 に 生 ま れ た 爾 へ 人 界 に お け る ─── 月 魂 の 命 根 を 託 す 』
無造作に下された最初の神勅が、脳天から爪先までを撃ちぬき、全身の血潮が激しいざわめきとともに波立つ。
人世すべての命運をゆだねられるという途方もない神命に、烏丸は息をのみ、目を見ひらいた。
人界における、月魂の命根───人間たちの息の根を、人界終焉の真実を目撃した己の手で握れというのか。
あまりの不相応さに拒絶の言葉を絞り出そうとした途端、首筋に刻まれた呪印が灼熱を帯び、頸骨ごと強烈に喉を締めあげた。
己の意思に反し、額の霊印が抵抗できぬほどの引力を放ち、その頭蓋を月守の足元へ深く伏せさせた。
「…………主上の……仰せの、ままに」
これが神使の呪い。霊術に長けた既望ですら逃がれられぬ神力。
己の言霊が、霊体が、全身の血が、月守に物理的に抗うことを許さなかった。
月守が下したその呼び名の通り、己は天の卑しき狗と化したのだ。
首筋の黒い荊が熱くうずく中、月守は静かに一株の白い花をさし出す。
「庭園の植物は一度すべて枯れ果てたが、この一輪だけが朽ちずに咲いていた。………出雲が植えた花だ」
瓦礫の死灰に埋もれ、ただ一箇所、白く息づいていた待雪草。
烏丸は凍りついたまま、呼吸を忘れた。
すべてが死に絶えた灰色の世界で、出雲が愛した春の色彩だけが、そこだけやわらかな命の熱を放ち続けている。
『雪の下でも、生きてるんだよ』
残雪の森の中、隣で無邪気に笑う横顔が、胸の奥で鮮明によみがえった。
「今生の私はやがて還るが、この記憶は次代の月守へ継承される。呪いとともに、私は常にお前の側にいる。……必ず返しに来い。未来で待っている」
待雪草をさし出したまま、静寂の中で待つ月守。その前で、烏丸の喉が引きつり、指先がかすかに震えて、縮こまる。
血と咎にまみれた不浄の手で、この清浄な花を穢したくはなかった。
その胸中を見透かす瞳で見つめてくる月守が、触れることを許すと言いたげに、うなずいて促す。
意を決して伸ばした指が、はかなげな花弁に触れた瞬間──烏丸の胸を、鋭利な刃が貫いた。
自分が殺した世界に残る、出雲の鮮やかな残滓。
壊れきった心に無理矢理「明日」という杭を打ちこまれる、希望という名の激痛。
烏丸はその小さな株を、出雲の生命の化身として敬い、傷つけぬよう両手で丁寧に包みこんで受け取った。
これがある限り、二度と弱い己から逃げることは許されない。出雲の遺した希望を胸に抱き、どれほど苛烈な地獄であっても生き続けなければならない。
永遠に失われた日々を想い、目頭が焼けるように熱を帯びる。
烏丸は待雪草を胸に抱きすくめ、膝を折り、嗚咽を押し殺して泣きくずれた。
白く可憐な花弁からゆらめくのは、記憶の中の出雲に似た、どこか切なく優しい清らかな香り。
「 出 雲 」
愛しいその名を呼ぶと同時に、甘い香気が不意に立ち昇り、包み込むような温もりがあふれだす。そこに懐かしい面影が重なり、そっと寄り添った気がした。
烏丸はこぼれ落ちる雫もそのままに、己の涙で濡れた白花へ、祈るように静かに唇を重ねた。
*
凍てつく風が吹き抜ける八光嶺の頂。
月守は一弦の切れた擦弦楽器を引き寄せ、静かに弓を引く。
弦の振動が、天をおおう鉛色の雲を震わせた。虚空から、銀灰色の鱗粉をまき散らす燐光の蝶が無数に羽化する。
雲海が円形に割れ、夜に昇る白銀の月魄が射しこんだ。哀切な旋律と蝶の光が宙を震わせ、この世をさまよう死者の魂を淡い光の粒へと変え、月へ導いていく。
「……兄者」
月守は雲海を見つめた。
転生せず、人柱となって奈落にとどまり続ける双子の半身。
「貴方だけは、……この世の無常………ともに慈しんでくれようか」
落涙する神の独白は、烏丸の耳を打ち、風に溶けて消える。
悠久を生きる神すら、最愛の者を失い、絶対の孤独を背負って生きている。その事実が、今の烏丸にとってなによりの救いであり、歩み続けるための慰めだった。
烏丸はその細い背中を網膜に焼きつけ、首に待雪草を入れた小さな荷を掛ける。
鴉の骨格に変異しようとした途端、衣服と髪紐ごと全身が白い光に溶けて、奇怪な三本足の霊鳥へと変化した。
この身は、人間でも、半獣ですらもない、神の眷属──天狗へ堕ちた証。
漆黒に銀色を宿した濡れ羽を大きく広げ、雲海の彼方へと身を躍らせた。
雲の下では雨粒が黒い羽を打つ。
崩壊し再生していく世界を漂うのは、鎮魂の調べと銀灰の光だけ。
その光が涙に濡れた黒い頬羽へ寄り添い、雲へ溶けて消える。
霊鳥が飛び去ったその雲間には、月の暈が反射し、美しい彩雲が現れた。
音色に導かれた出雲の魂が、虹橋のたもとを結ぶ雲と化し、月へ還らぬ濡鴉を永遠に待ち続けることを、天狗となった男は知らない。
烏丸の魂は黒曜王の影となり、彼の抱く待雪草とともに歴史の闇を延々と受け継がれてゆく。
二千五百年後の雪闇が解ける春暁 ─── 出雲が咲き誇ったあの丘に、文明開花の紅き陽が昇るその時まで。
『月魂の命根』 完
<タイトル>
欠けゆく月・哉生魄:
満月を過ぎ、少しだけ光が欠け始めた月。月が満ちた後、光の当たらない暗い部分「魄」が再び生じ始める様。陰暦十六日の月であり、別名は「十六夜」「既望」。
哉生魄は烏丸を象徴し、2500年後の十六夜御前と既望の魂を暗示。白花は、出雲を象徴し、篝月白 望の魂を暗示。
*
【あとがき──命根は、まだ握られたまま】
『月魂の命根』を読んでくれて、ありがとうございました。
人生2度目の執筆、初めてのオリジナル小説でした。じつは、この物語は外伝です。烏丸が出雲と結ばれる別ルートも執筆したものの、想像以上の長編になるため、今回は今の形にまとめました。
この物語は、別の主人公たちが生きる2500年後の世界へと受け継がれます。
神話劇から一転、怪異との戦争のさなかに転生した「オカン」が導き手となる、笑いと涙の英雄譚です。
第一部は謎・バトル・仲間と成長。第二部は恋愛・家族愛・サスペンス。
全編通して、自然科学・社会科学・古典まで飛び出す、オカンの知恵袋。
100名を超える人物たちが織りなす本編長編は、現在、執筆・編集・英訳中です。投稿時期は未定ですが、日本語版は「小説家になろう」または「カクヨム」での公開を予定しています。
【執筆中シリーズ紹介】
「若モンが早死にする理不尽な世、
誰もが大往生する時代に変えたるわいっ!」
月魂之世の歴史から消えた、鴉と白花の『建国神話』から2500年後。
99歳、大往生──したはずの「オカン」
月からバケモン襲来の異世界へ転生!?
年寄りの象徴「白髪」が不敬罪になる漆黒の国で、人生2回戦スタート!
「特技はタコ焼きとお節介を焼くことですぅ」
「白寿必殺!聞こえんフリ」
つい世話を焼いて入学してしまったのは、世界最高峰の軍事研究学府・黒曜国錬成院。月守直下で非公式に存在する幻の『早世局』。
性別を偽る男装で弓矢を引き、世界防衛最前線で、藍染の髪をなびかせ夜空を駆けまわるハメに!
極彩色の科学、主婦の知恵と度胸を武器に、士たちと王女のシリをたたき、物語の導き手・オカンが大奮闘!!
第一部 英雄譚──壊れても、月に還るその日まで。
(夜の怪異と戦う英雄たちの浄戦時代)
・終章 月魂の帰根──オカン帰郷と神旅立
・一章 月魂の播種──オカン転生と錬成院
・二章 月魂の種火──白蓮と王権なき王女
・三章 月魂の散華──月の士と天地の浄界
第二部 文明開花譚──赦しが咲かせる、開花の世。
(新たな早世と戦う生存者の改革時代)
・四章 月魂の萌芽──文明と情念の芽生え
・五章 月魂の狂咲──紅蓮の炎と革命の毒
・六章 月魂の命脈──大地と天命の継承者
・七章 月魂の開花──百花繚乱たる夜明け
外伝集 人生譚──月満つれば則ち虧く、月魂の環。
(本編を紐解く重要人物たちの叙事詩)
黙示録 月魂の命根──濡鴉の抱く待雪草 ★本作
異聞録 月魂の苗床──象牙の塔に梔子茶
恋文録 月魂の花芽──蘭を焦がす向日葵
告白録 月魂の朽花──黎末へ傾ぐ福寿草
春秋録 月魂の結実──菖蒲を渡る春告鳥
簒奪録 月魂の爛熟──大蛇へ誘う蝋梅香
開国録 月魂の落果──有明が興す紅牡丹
黎明録 月魂の残花──音無へ散る白詰草
【小説の背景】
じつは作者、異世界転移者です。
日本の常識が世界の非常識になる海外でのサバイバルは、まさに異世界生活。
運河沿いの17世紀建造で夜気に充ちた寝室にまぶしい月光の照明。
白壁のどデカい聖堂にひびくパイプオルガンと聖歌隊の哀調。
髪目・肌・人生観まで異色の人たちとのエモい交流。人種差別のニガい経験。
「もし海外が地球の光学的理論と違ったら、ただでさえカラフルで奇抜な世界に、どんな色彩や常識があるのか」
異文化日常と宇宙物理学への傾倒からの着想が、シリウスのごとき夜の恒星が射す「月魂之世」の原点。
日本文学好き海外の友人たち、将来世界へ羽ばたく甥へ贈るため、和色や東洋的思想と西洋的視点を織り交ぜています。
ラストまでお付き合いありがとうございました。物語の全編を異世界好きな世界の読者に届けられるよう頑張ります。
★評価・絵文字・コメントありましたら今後の執筆に役立てます。
『月魂の命根』挿絵と、本編キャラクターデザインは下記リンクから無料閲覧できます。お時間あればのぞいてみてください。
https://note.com/k_s_shina/n/nc69482a9a3b4
更科 佳世晴 (さらしな・かぜはる)




