第32話 籠の鴉に鏡花水月
咽喉の奥が灼けつく。酸っぱい胃液が口中に広がり、黎は荒い息を吐いた。
八光丘をおおいつくす濃密な闇。星一つまたたかない亡月の夜だった。
精霊殿を囲む白い石畳の広場を、帝国軍がかかげる無数の松明が赤黒くなめまわす。獣の脂が焦げる臭気と、湿った夜気が肌にまとわりついた。
広場の中央。白妙の神職装束をまとう精霊神・月守が引きずり出される。華奢な四肢に噛みつく重厚な呪具が、歩みのたびににぶい鉄音をひびかせた。
足元の御影石には、神の理を縛る幾何学模様の錬成陣が描かれている。術式をめぐる青白い燐光が、脈うつ命のように明滅をくり返していた。
背後で、極太の呪具でできた鋼鎖に全身を縛られた黎が膝をつかされる。視界の端で、赤黒く変色した巨大な木桶がいくつもならんでいた。
「たかだか神官どもの命ひとつで、あっけなく捕まるものだな」
「慈悲の神など口ほどにもない。反撃のひとつもしてみせろ!」
兵士たちの下劣な嘲笑が夜気をゆらす。
月守はあらがわず、処刑台の石柱へ背をあずけた。足元のせまい台に立たされ、両足を太い麻縄で頑丈に縛りあげられる。
続けざまに黎も引きあげられ、鋼鉄の鎖で石柱に固定された。冷えきった石の感触が、背骨を通して全身の体温を奪っていく。
豪奢な玉座に腰を下ろした黒曜皇帝・玄海が立ちあがった。漆黒の甲冑を鳴らし、冷酷な笑みを浮かべる。
そのかたわらには、目隠しをされ、後ろ手に拘束された銀髪の恩師・既望がひかえていた。感情を殺した能面の横顔。
「月守のための磔台を特注してやったのだ。念には念を。術の印が組めぬよう、手に螺旋釘を打って磔にしてやる」
十字状の石柱には、等間隔にネジ受けの穴が開いている。月守の両腕が左右に広げられた。兵士たちが、鋭利にとがった黒曜加工石の釘をその手の甲に当てがう。
「ねじ込め」
玄海の短い命。容赦なく突き刺された釘が、旋回しながら皮ふと骨の隙間をえぐり開けていく。黒曜石の表面に刻まれた暗黒色の術式が、神力を吸いあげて禍々しく発光した。
「……ッ」
見ているだけでも壮絶な激痛。月守の咽喉から短い息がもれた。
神たる存在の血が、白妙の装束を白銀色の斑点に染めていく。それでも月守は絶叫を放たず、ただ瞳の奥に静けさをたたえたまま天を見すえた。
足場は不安定で、両手を刺し貫かれれば自重で傷口が広がる。玄海が好む見せしめの拷問だった。
「ほう。精霊神とて肉体をもつ以上、痛みは感じるのだな。人間ならば叫び狂うものを、静かすぎて興がそがれる。───螺旋釘を深く締めあげろ!」
首に巻きつけられた粗い麻縄が黎の喉を締めつける。かすれたうなり声に反応し、既望が裂帛の叫びをあげた。
「烏丸……! 無事なのか!?」
「赫夜。お前は黙っておれ」
「陛下、烏丸には手を出さないと約束されたはずだ!」
目が見えぬまま、既望が初めて玄海へ牙をむく。
玄海は鼻で笑い、既望の目隠しを乱暴に引きちぎった。みずからの足元へ強引に膝をつかせ、銀糸の頭を低く押さえつける。
「お前が神官と内通していた罰だ、特等席で見せてやる。この場の命はすべて我が手中にある。黎の命を散らすのを早めたくなくば、分をわきまえよ」
泥をなめ、己の尊厳を投げ打ってでも弟子を救わんとする恩師。思慮深き男が屈辱をのむその背中が、ただ囚われているだけの黎の無傷な胸に、重い疼痛を刻みつけていく。
「──お前が玄海だな。神官を解放せよ。それが条件だったはずだ」
月守の声が静かにひびく。手に刺さる黒曜石から、白銀の血がしたたり続けていた。
玄海は兵士たちへ顎をしゃくった。
「解放してやろう。血肉の一部だけでも、愛する主の元へ返してやる」
台座に上がった兵士たちが複数の木桶を傾けた。
ドプゥッ、と重い水音がひびく。真っ黒に濁った液体が、月守の頭上から全身へぶちまけられた。
強烈な鉄錆の悪臭が広場を支配する。
液体の中に、白い法衣の切れ端が浮いていた。霊能をもつ人間の血が大量にまざり合い、錬丹術の触媒として強制的酸化をとげた結果の汚泥だった。
「神聖な血がどれほど澄んでいるか見物だったが、腹の中も血の色もこの惨状よ。精霊信仰は国家をむしばむ猛毒。神官はすべて屠るよう命じた」
「……まさか……。その中に、出雲の血も混ざっているのか……!」
「──!!」
黎の問いに、愕然とした既望の顔から血の気が引く。
答えは返らない。
既望が言葉を失い、衝撃に頭蓋を小刻みに痙攣させて嗚咽をもらした。
黎の胸の鼓動が不自然なほど静かに停止する。出雲が、あの濁った桶の中で素材として分解されつくしたという現実。
理解が脳髄に達した瞬間、胸の中で積みあげられてきた理が音を立てて崩壊した。
「……烏丸、……師匠?」
幻聴が聞こえ、わずかな救いを求めて首を動かす。焦点の合わない視界に出雲の影が重なった。
「──お前が探しているのは、この女か?」
割って入ったのは、黒ひげの緇条だった。嘲りながら、一人の少女を引きずり出してくる。
「出雲……!?」
黎の大声と、既望のもらした呼び声が重なった。
出雲は生きていた。
一瞬の安堵。既望は我に返り、玄海に悟られていないか鋭い視線を走らせる。すぐに口をつぐみ、出雲へ視線だけで合図を送った。
──私を知らぬふりをせよ。
黎の位置からも、出雲がその無言の命を理解したと解った。出雲もまた、既望の姿をとらえて出しかけた言葉を喉の奥へ押し戻す。
呪具の鎖で厳重に拘束された出雲が、玄海の前につき出された。
「皇帝陛下。こいつが黎将軍と密通していた神官です。しかも敵領の怪我人に治療をほどこしていた反逆者! 我が帝国の悪例として、赦してはなりませぬ!」
玉座から蹴り立ち、玄海が出雲へ歩み寄る。
側にひかえていた既望が強引に口を閉ざした。己が出雲に関心を向けた瞬間、独占欲の強い玄海の嗜虐心に火がつくと理解している。
「貴様が、帝国を裏切り慈悲をほどこす神官か。──黎も師弟そろって信仰深い。道理で、俺が下賜した配下の女どもに見向きもせぬわけだ」
玄海の分厚い手が出雲の顎をわしづかみにし、その顔面を強引に引き寄せる。
出雲の肩が小さく震えた。しかし、その双眸は失意に沈むことなく、真っ向から玄海をにらみ返す。
「貴方が黒曜皇帝か……! 主上と烏丸を今すぐ解放しなさい!」
「ほう、案外気が強い女だな。黎は俺が将軍に育て上げた息子だ。反抗期ゆえ、親として躾が必要なのだ。だが、月守は我が帝国の害悪。酒の肴にもならぬ月の神など、いっそ無い方がいい」
出雲の瞳に拒絶の炎が宿る。拘束された身をよじり、頬をつかむ玄海の掌へ思いきり歯を立てた。
「痛っ! ──この、下賤が!!」
玄海の親指のつけ根から黒い血が飛び散る。
ふり払われた手が豪快に出雲の頬をたたき、出雲は石畳の地面へ転がった。激怒した玄海が腰の黒曜剣を引き抜く。
すかさず既望が飛び出し、拘束された腕のまま倒れた出雲の上におおいかぶさった。
「陛下! ご無礼を何卒お許しください! この子は……この子は私の娘なのです! どうか、命だけは……!」
とっさに機転を効かせる既望の言葉を聞きながら、黎は呼吸を忘れていた。
「……なるほど、そういうことか。娘を月守の元にあずけ、内通していたわけか。お前に子がいたとはな」
「左様です! 私は神を信仰している訳ではございません……! ですから、何卒……!」
玄海はゆったりと鞘に剣を納め、絶望を味わいつくす笑みを深める。
「処罰を待つ身でありながら、ねだり事が多いな。聞くが、弟子と娘、どちらの命を取る? 余興に赫夜、お前に選ばせてやろう」
「そんな……! 命を選ぶなど、出来ようはずもございません……!!」
既望の双眸が、愕然として黎と出雲の間をさまよう。
玄海は冷酷な一言をたたきつけた。
「ならば、三つ巴と行こう。誰が裏切りの咎を背負うか、首を賭けろ」
ありがとうございます。絵文字や★評価などあれば今後の執筆に役立てます。
<タイトル/慣用句>
籠の鳥:
身の自由が強く束縛され、思い通りに行動できない状態やその境遇にある人のたとえ。
鏡花水月:
鏡に映る花や水に映る月のように、「目には見えても、決して手で触れることができない儚い幻」を意味する四字熟語。
小説挿絵を公開中|note
https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847




