第30話 月に叢雲花に風 ー烏丸・出雲Sideー
「月守よ。無抵抗で降伏し、皇帝の軍門に下れ。さもなくば、すでに捕らえた神官どもの命はない」
緑青色の錬丹炎が天井をなめ、白磁の柱を爆音とともにくずしていく。
立ちこめる異臭のなか、黒曜の重臣・緇条が兜の隙間から不遜な嘲笑をもらした。
刃をつきつけられた月守は、眉ひとつ動かさない。
「降伏もなにも、こちらに敵意はない。手荒なまねはやめよ。皇帝・玄海に会わせてもらいたい」
静謐な月魄の瞳が、あわれな虫けらを見下ろす冷ややかさをたたえている。
「敵意がない、だと? 部外者が陛下に諫言する無礼を働いておいて。慈悲の精霊とは、かくも甘いものか」
「死者の魂を禊ぐ精霊殿を戦火で侵すほどの不届き者が、開闢以来存在しなかっただけの話だ」
「へらず口を!」
緇条の怒号がひびくやいなや、月守の華奢な四肢へ、蛇のごとく黒泥の呪具がからみついた。
「この丘の近くにあった診療所──素鵞という医術師とその娘らも、すでに拷問の末に処分した」
「……なんだと」
「口の硬い女だったが、娘の骨を折れば洗いざらい吐いたぞ。逃亡した灰霄の霊術師どもを隠したとな! 罪人の幇助は帝国への反逆だ!」
残虐な事実がつきつけられ、月守の双眸が激しい怒りに見ひらかれる。
「救護をほどこす良民にまで苛烈な爪を立てるとは……戦に狂い、人の心を捨てたか!」
「神を騙る者が人の心を語るな! 皇帝陛下は、貴様を邪悪な反逆者と断じた! ──処刑場へ引きずっていけ!」
鉄甲冑の強靭な擦過音を鳴らす精鋭たちに挟まれ、精霊神が奥へと連行されていく。
同時に、本殿の深い闇から大勢の神官たちが、土足の兵士に乱暴に引きずり出されてきた。床一面に散らばる白磁の破片が、彼らの無防備な肌を容赦なく切り裂く。
連行される神官たちの必死な哀願と、それを力づくで押し立てる兵士たちの苛烈な怒号がうずまく中で。黎の視線を強烈につなぎ止める姿があった。
「──待って! 怪我人の中には、あなたたちの同胞である黒曜の兵もいるの! 最後まで治療をさせて!」
たくし上げた袖。灰白色の神官装束を負傷者の紅と黒の混ざり合った血で汚した女が、兵士の刃を恐れる素振りも見せず必死に訴えかけている。
敵味方の区別なく救護をほどこすというウワサの神官。
黎の双眼がその顔に釘づけになり、息の根を止められたように固まった。
──出雲。
頭の中で、爆発音も兵士の怒号もすべてが遠のいた。
血の跳ねた白い衣。背に流れる灰色の髪。花咲く気品をまとった二十二歳の姿が、黎の網膜に鮮烈に焼きつく。
抑えつけられた黎の顔をとらえた瞬間、出雲もまた灰色の双眸を限界まで見ひらいた。
「烏丸……!?」
「出雲ッ!」
幼名を呼ぶ切実な響きに、六度の冬の間に封印してきた熱が一気にあふれ出し、焦燥で焼けた喉を突き破る。
ともに育った記憶の先で、彼女がこれほど美しい女性へと至った年月。その時間のすべてを己は知らない。
澄んだ瞳は森で別れた日の面影を残していたが、今は明確な恐怖と狼狽にゆれていた。
「どうして……敵の軍勢の中にいるの?」
血の気を失った薄い唇が細かく震える。
「──この女が例の医術師か。黎大将軍が、我が国に反逆する神官と通じていたとはな。あの銀髪の古狐と同じく、月守の密通者だったというわけだ」
黎を追い落とさんとする緇条が、酷薄な笑みを浮かべて二人の間に割りこんだ。神官長と若き神官の髪を強引につかみあげ、白磁の床へたたきつける。
靴底で頭をふみつけられた青髪の若き神官が、眼球に血しぶきを浮かべて黎をにらみつけた。
「……お前が黒曜の、あの血に飢えた黎将軍か! 降伏を拒んだ私の故郷を黒炎で焼きつくし、数万の民を灰に変えた惨虐の悪鬼!」
「……!」
「どれほどの命を奪えば気がすむ! お前の軍のせいで、私の家族は……!この、死神め!!」
若き神官の叫びは血の涙となってあふれ、苛烈な憎悪の刃となって黎の全身を深く突き刺す。
出雲の目の前で容赦なく暴かれた、隠し続けてきた己の罪業。黎の思考が完全に凍結した。
「烏丸が、帝国の黎将軍……?」
出雲の顔から、すべての色彩と感情がぬけ落ちていく。
「師匠が手紙で教えてくれたの。あなたが生きているって……ずっと帰りを待っていたのに。どうして……!」
灰色の表情に浮かぶのは、激しい裏切りへの絶望と深い混乱。
「違う! 俺はお前を助けに来たんだ!」
剣戟と怒号が交錯する中で、黎の叫びが空気を切り裂く。
「既望の代わりに、俺がお前を守る! 信じてくれ、出雲……!!」
必死の懇願。だが、引きずられていく出雲の背中は遠ざかっていく。
再会の熱情をうち砕く凄惨な大罪の暴露。緑青色の錬丹炎が爆ぜる白磁の空間が、不気味にゆがむ。
( 身勝手に置き去りにしておいて、今さら向き合うなど、もう、手遅れなのか......。)
血に染まった獣の手では、光の世界の住人に触れることすら許されない──その冷酷な断絶が黎の胸をえぐりぬく。
それでも、なんとしても救いたい。出雲が無事であるなら、彼女から永遠に忌み嫌われても構わない。
「──出雲!!!」
喉を裂かんばかりの声で、想い焦がれた名を叫んだ。
連行されかけていた出雲の足が、一瞬だけ後ろ髪を引かれるようにして止まる。
*
「……烏丸」
出雲は兵士に腕を乱暴に引かれながら、首だけを後ろへふり返る。
視線の先で、帝国の大将軍という高位にいるはずの青年が、味方であるはずの黒曜兵たちに床へ組み伏せられていた。
頭上で束ねられた黒髪。吐き出す太く低い男の声。六年の歳月は、小柄で細身だった少年を、威風堂々たる偉丈夫へと変貌させていた。
けれど、鋭い目元には間違いなく烏丸の面影が残っている。それがかえって、出雲の心に強い動揺を生ませた。
指先にのこる薬草の渋みと、麻酔も使えず切断すら叶わなかった患者の生血の臭い。
昨夜、絶界の楔によって霊術を封じられて以来、息つく暇もなく傷病者の応急処置に追われていた。
疲労で視界がかすむ中、神官長・稲佐のささやきが耳奥でくり返される。
『烏丸という知己が出雲に面会したがっている。昔、貴女が話していた少年ではないの?』
その直後だった。地下治療室の扉が蹴破られ、帝国軍が雪崩のように押し寄せてきたのは。
稲佐の錬丹術が前衛を凍りつかせたのも束の間、後衛の兵たちが仲間の神官らに刃を突きつけた。
人質を取られ、黒鉄の拘束具をはめられた稲佐の悔しげな表情。白磁の床を揺らす靴音と怒号。
めまぐるしい惨状の中、出雲の思考が激しく回転する。
冷血な軍の歯車と化した彼が、この侵略の渦中に訪れたのは自分を捕らえるワナなのか。
ある者からは英雄と称えられ、ある者からは死神と呪われる帝国軍の最高指揮官──それが、あの烏丸だという現実。
願わくば、精霊殿の月守と対峙する敵将としてではなく、もっと違う形で再会したかった。
だが、いま床に伏しながらこちらを凝視する瞳は、あの頃と変わらない。まっすぐで、強い意思を宿した黒い輝き。
『既望の代わりに、俺がお前を守る!』
名を叫んだ痛切な声が、肌を焼く錬丹炎の熱気と重なり、幼い頃に自分をかばって傷ついていた少年の姿を激しく呼び覚ます。
烏丸を見つけ出した既望の身に、何かが起きたに違いない。烏丸はその事実を知り、己の立場も命も捨てて自分を救いに来たのだ。
将軍として、死に直結する謀反行為。それでも彼は、危険を冒して自分の元へ飛んできた。
霊術を磨き、素鵞から医術を学んできたこれまでの年月。そのすべては、烏丸と既望を今度こそ自分の手で守り抜くためのものだ。
(いま彼を信じず、救い出さずに、いつ恩を返せるというの。)
出雲の指先が、薬草と血で汚れた神官装束の裾を強く握りしめる。
医術を授けてくれた素鵞の、黒鳥に転じた姿が浮かぶ。彼女と同じように、烏丸もまた「半獣」という孤独な宿命を背負い、刃の尖端を渡るような心地で生きてきたはずだ。
神よりも信じ続けた烏丸。彼を拒絶する選択肢など、最初から存在しなかった。
( 烏丸……今度は私が、あなたを生かしてみせる……!今度こそ、死ぬまで一緒に行く……!)
意を決した出雲は、行く手を阻む黒鎧の兵士を力まかせに突き飛ばすと、倒れ伏す黎へ向かって一心不乱に駆け出した。
<タイトル/慣用句>
月に叢雲花に風:
よいことにはとかく邪魔が入りやすく、世の中は思うようにいかないことのたとえ。美しい月が雲に隠れ、きれいに咲いた花が風に散らされる様子が由来。
小説挿絵を公開中|note
https://note.com/k_s_shina/m/ma5add2652847




