第28話 亡月の宵に鴉の行水
「月魂之世の神を殺し、修羅の世に朝寝がしてみたいものだ」
狂言を吐く黒曜皇帝・玄海の獰猛な声が、日の届かぬ豪奢な玉座の間に低く反響する。
石の床にひれ伏す臣下たちの前で、玄海はかたわらに膝をつく赫夜の銀髪をわしづかみにし、その頭部を力で引き寄せた。拘束の鎖が重い音を立てる。
「月守の寄こす停戦の諫言など反吐が出る。捕虜の手負いを治癒し、術使いをかくまう反乱分子の温床だ。我が軍門に降るか、根絶やしにするか。二つに一つ」
玄海の狂気に満ちた眼光は、いまや明確な殺意となって精霊神・月守の座す八光丘へ向けられていた。
数日後の夕闇がせまる城内の練兵場。
鉄と塗料の臭いが立ちこめる中、武器の手入れにあたる古参の兵士たちが、砥石をする手を止めずに低くささやき交わしていた。
「聞いたか。陛下が精霊殿の全滅を命じられたそうだ。正気の沙汰じゃねえ」
「精霊殿の神官は、敵味方なく手負いの兵を治療しているというのに。実際、うちの末端も救われた。灰霄の術師だったそうだ」
「俺たちが裏で灰霄の里をふみにじっているってのに、反罰が当たらなきゃいいが」
とぎ澄まされた刃が、赤黒い夕日をあびて妖しく光る。兵士のひとりが忌々しげに唾を吐いた。
「あの赫夜とかいう術師が後宮に入ってから、陛下のタガがはずれた。たった一年足らずでこの惨状だ。武功もないくせに怪しげな術で陛下の目をくらませ、帝国を丸ごと狂わせる気だ」
練兵場の隅で、密偵としての陣頭指揮を命じられた黎は、手元の革製剣帯をきつく締めあげた。
城のどこを歩いても、恩師を呪いふみにじる声が耳の奥でうずまく。
「黎大将軍。あの術師のウワサになると、とたんに覇気がそがれるな。まさか貴殿まであの妖気に気圧されたか」
黒髭をたくわえた重臣・緇条が、路傍の野犬を見るような酷薄な瞳でならび立つ。獣の血を引く黎を、この男は決して対等な人間とは認めない。
黎は感情を殺し、硬い声で応じた。
「……武功なき神官を惨殺する戦に、大義を見いだせぬだけだ」
「青いな。貴殿は今宵、宣戦布告の使者を務める大役。次の望月には精霊殿攻めの先鋒だ。帝国中に己の腕を誇示する絶好の機会、ぬかりなく励め」
緇条の冷ややかな視線を背に受け、黎は短く顎を引く。無意識の底に引っかかっていた兵士の言葉が、耳の奥で激しく跳ねた。
精霊殿の神官、灰霄の術師。
──まさか、出雲か。
思わずもれかけた吐息を殺し、黎は静かに踵を返す。
「用事を思い出した。先に失礼する」
「黎大将軍。闇が深まる前に、精霊殿へ陛下の勅命を伝えに行くのを忘れるな」
緇条の声にふり返りもせず、黎は歩調を速めて将軍居室の私室へ急いだ。
*
精霊殿侵攻──既望が己の命と引き換えにあずけた出雲の居場所が、戦火にのみこまれようとしている。
胸の奥で、獣の野生が凶兆の警鐘を打ち鳴らし続けていた。帝国のみならず、世界そのものが底なしの奈落へ転がり落ちていくような猛烈な胸騒ぎ。
私室の扉を蹴破るように開ける。
木製の棚を乱暴に引きぬき、逃亡用の金貨、乾燥肉、厚手の防寒外套を背嚢へ押しこんだ。
既望は城の奥宮で、鎖につながれたままだ。出雲の命に危険が及ぶなら、己の全存在を賭けて逃がしに行かなければならない。
育ての親であり皇帝である玄海を裏切る恐怖。だが、出雲を死なせる選択肢など存在しなかった。
出雲のかたわらで彼女を守るはずの恩師を、玉座の鎖に縛り付けた罪悪感。それが漆黒の夜の帳と交じり合い、是が非でも出雲だけは生かすという凄絶な執念となって黎の胃の腑で燃え盛る。
「あいつを、死なせてたまるか……!」
指先が激しく震えていた。数々の修羅場をくぐりぬけてきた男の手が、たったひとりの女の危機に打ち震えている。
耐えかねて厩の脇にある井戸へ走り、汲みあげた冷水を頭から一気にかぶった。
頭蓋を突き刺す激痛のような冷たさ。沸騰していた思考が瞬時に氷結し、世界が異常なほど鮮明にさえ渡る。
木桶を地面に投げ捨て、濡れた髪をそのままに黒曜の外套を羽織る。夜陰に溶けこむ漆黒の駿馬の背へ飛び乗った。
馬腹を強く蹴りあげ、単騎、闇の中へ突き進む。
蹄の重い音が、冷え切った夜気を容赦なく蹴散らしていく。濡れた衣類に冷たい宵風が突き刺さった。
*
この世の三十日でめぐる月の満ち欠け。月末に月は死に絶え、翌月一日に「生月」として生まれ変わる。
今宵は天から光が完全に消え去った、三十日夜──すなわち、亡月。
不吉な闇が世界をおおう中、精霊殿攻めの出軍となる望月まで、残された刻はわずか十五日。
(出雲を灰霄の領地まで届けるか……。 いや、飛翔しても数日はかかる。この時期に長期間、城を開ければ即座に離反と見なされる。俺が逃亡者となれば、城に残された既望の命がない。)
視界の脇を、黒々とした原生林が凄まじい速さで後ろへ流れていく。湿った手綱を握りなおし、黎は奥歯を強く噛みしめた。
(ひとまず、紫耀の難民を受け入れた南西の耕作地へ隠す。あそこなら密偵の目も届きにくい。)
脳内で帝国の地図を広げ、極密の逃避ルートを冷徹に算段する。
将軍である己が皇帝の人質であると同時に、城の奥深くつながれた既望の存在もまた、黎を黒曜につなぎ止める無体な人質だった。
出雲と恩師。ふたりの命が、いま黎の背に重くのしかかる。
(父上は既望を側に置くことに固執している。命までは奪わなくとも、どれほど酷烈な拷問にかけるか分かったものではない。)
出雲の安全を第一に確保しなければならない。だが、己の存在のせいで自由を奪われた恩師を見捨てることなど、絶対に不可能だった。
互いの情を枷としてはめこむ、玄海の冷酷な計算。
手綱を握る革手袋に血がにじむほど、指先に力がこもる。
「……ひと筋縄では行かぬ父親だ」
低いつぶやきは、風を切る激しい蹄の音と夜風のうなりにまたたく間にのみこまれた。
玄海という父に対する敬慕と、絶対的支配者に対する激しい愛憎。無敵の将軍へと自分を鍛えあげてくれたあの男の威光が、重い金縛りとなって胸を絞めつける。
神官を逃がす行為は、これまで絶対と信じて従ってきた皇帝への明確な反逆だ。露見すれば斬首を免れない。
頭上をおおう暗雲へ、とぎ澄まされた視線を走らせる。
夜陰にまぎれて影をひそめるミミズクやコウモリの密偵が、すでに上空から監視の目を光らせている気配があった。
出雲を隠し通し、出陣の前に既望へ極秘裏に場所を伝える。そして自らは皇帝へ侵攻辞退を申し出、腹を切る。
己という楔がこの世から消え失せれば、既望を縛る呪縛は解け、必ず出雲の元へ走るはずだ。
「……最期に、あいつの無事な顔が見られれば、それで十分だ」
自らの命で己の選んだ道に落とし前をつける。
腹をくくった瞬間、胸を焦がしたのは死への恐怖などではなく、出雲に再び相まみえるという猛烈な鼓動だった。
馬蹄が夜の静寂を切り裂き、黒い外套をなびかせた黎は、光の一筋もない漆黒の闇の彼方へ消え去った。
<タイトル/慣用句>
烏の行水 (からすのぎょうずい):
行水とは、神事や仏事などの前に、きよらかな水で身体を清めること。入浴の時間が非常に短いことや、体をしっかり洗わずすぐにお風呂から上がってしまうという慣用句。水浴びを済ませて飛び去るカラスの様子からたとえられた。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/nd159bbad94d2




