第27話 黎黒世界の月殺し、狐と朝寝がしてみたい ー玄海Sideー
2026/09/13 改稿(最新)
黒曜帝国の朝議をひかえた、日のさしこまない更衣の私室。
壁面をおおう重厚な黒革の長椅子に深く腰を下ろし、何人もの侍従に豪奢な帝衣の身支度を整えさせている玄海へ、黒紫の軍服に身を包んだ重臣・緇条がうやうやしく一通の書状をさし出した。
玉座へ近づかんとする野心を伏せた瞳の奥に隠し、緇条は侍従たちを無言の顎先で下がらせると、衣ずれの音だけが残る静寂の中で玄海の耳元へすべりこむ。
「精霊殿の月守から、百度目の停戦要求でございます。……加えて、帝都にとどまる赫夜殿が、精霊殿の神官と密かに書簡を交わしている痕跡が」
玄海の分厚い掌の中で、純白の羊皮紙が嫌な音を立ててひしゃげた。
書状をとめていた、月をかたどる白銀の封蝋が乾いた音を立ててくだけ散る。
「百もくだらぬ諫言を寄こしたものだ。あの丘からは昼夜、楽の音が聞こえるという。民が血を流す横で遊興にふける暇があるらしい」
感情を消した玄海の横顔に、緇条はさらに言葉を重ねた。
「精霊殿には、帝国の敵味方を問わず手当てをする医術師の神官がいるとの情報もございます。捕虜となった手負いの脱走兵たちがそこへ駆けこんでいると。……密偵によれば、八光丘付近の診療所が仲介している模様」
「黒曜の領土にありながら、我が統治への明白な反逆。許しがたいな」
玄海の低い声が、冷たい石の床をはう。
「その医術師をただちに捕らえよ。帝国の秩序を乱す毒は、根から引きぬいて火にくべる必要がある。関与した者はすべて処分しろ」
「御意に。──ところで、黎将軍と赫夜殿は、過去に浅からぬ師弟の縁を結んでおりました。精霊殿への侵攻、その真の狙いについては、将軍の耳から遠ざけておくべきかと存じますが」
「あの息子は俺と同類だ。信仰心などもち合わせていない。だが……あの師弟は怜悧で知略がまわる。黎には悟られるな」
短い返事を受け、口元にかすかな笑みを浮かべた緇条が一礼し、静かに踵を返す。
ひとり残された玄海は、粉々になった白銀の蝋の欠片を見下ろした。
精霊殿の月守。祈るしか能のない神の代行者。
玄海の足元でひれ伏すべき民に、慈悲や来世の救済を説く教えは、絶対的な力による統治を根底から腐らせる猛毒そのものだ。
不老長寿を誇る月守の存在は、いずれ老いゆく己の帝国を、その悠久の時間をもって内側から崩壊させる危険をはらんでいる。
くわえて、我が手中で完全な秩序に組みこまれるべき赫夜が、見えざる神などという不確かなものに魂を傾けている事実。
帝国の支配者の底知れぬ独占欲の奥底で、ドス黒い赫怒が静かに、確実に脈打つ。
緇条が退室して間もなく。玄海の鼻腔の奥を、ひどい泥水の臭いが、とうとつに突きぬけた。
*
神の不在に対する絶望。濁流にのみこまれる辺境の村の記憶が、強制的に引きずり出される。
祈る者は死に絶え、力をふるう者だけが生き残る。その絶対の真理が、玄海の精神を冷徹な鋼へと鍛えあげた。
先代の月守が死に、新たな月守が力を制御できるようになるまでの空白の十年間。世界は無慈悲な天災に蹂躙された。
戦乱で人心の荒んだ世。黒曜の血を引く父と異色の母をもつ一家は迫害を受け、川縁の粗末な小屋に追いやられていた。
押し寄せる水魔。
濁流の中で、幼い玄海は必死に空へ祈った。父母も、幼い弟たちも、泥水を飲みこみながら喉を枯らして神の救いを乞うた。
天は、冷酷な沈黙をつらぬいた。
泥水に沈む家屋。濁流の中で、玄海は弟を抱きしめたまま事切れた母親の腕をつかむ。
命の熱を完全に失った肉体は、ただの重い泥の塊。引きあげようとした手は恐ろしいほどに重く、光を失った虚ろな双眸が、暗い水面下で玄海を見つめ返している。
肺を冷たい水が満たす刹那。玄海の生存本能が限界を突破した。
死の淵でとぎ澄まされた視覚が、水中の乱れた水流を一本の線としてとらえ、水圧の弱い一点をつかみ取る。玄海だけが凄まじい勢いで河岸へと押しあげられた。
肺に汚泥まじりの空気を吸いこんだ瞬間、彼は悟る。
───神など、不要。
祈りにすがる間ぬけから泥に沈む。神が死ぬたびに世界が壊れるのならば、最初からそんなものは存在しなくていい。
人間が力のみで統治し、絶対の秩序を敷く世界。それこそが完全なる帝国の姿だ。
濁った激流の冷たさと、次第に動かなくなっていった家族の重みが、玄海の心を永遠に凍らせた。
「あの日、神が助けたのではない。生き抜けたのは俺自身の力だ」
玄海は手の中の羊皮紙を完全に引き裂き、部屋の隅でかすかに震える侍従へ冷酷な視線を落とした。
「出陣の準備をしろ。目障りな精霊殿ごと、八光丘を平定する。神を僭称する小ざかしい月守の首を落とし、祈るしか能のない者たちを我が軍勢でふみ潰してやる」
「はっ……! 直ちに!」
侍従が床に額をこすりつけ、転がるように退出する。
*
静寂が戻った室内で、玄海はかたわらに立てかけられた黒鋼の大剣を引き寄せた。
ずしりと手に伝わる重みが、膝の関節にかすかな痛みを走らせる。鈍く光る刃に映るのは、深く刻まれた目元の皺。
刃に映る己の老いに、玄海の奥歯がきしんだ。
赫夜の心を縛る「精霊殿」という拠り所を物理的に打ちくだけば、あの銀の精神は根底から完全に己の支配下へ落ちる。
権力に膝を屈する美姫など、帝国の玉座の前には掃いて捨てるほど転がっている。だが、赫夜という存在は別格だった。
逃亡を図ったあの男の胸を刃で深く裂いた折り、傷口はその日のうちに血を止め、跡形もなくふさがった。
老いていく己の肉体に抵抗と絶望を感じて久しい玄海にとって、その不屈の生命力は狂おしいほどの羨望の対象だ。
さらに赫夜が秘める価値は、その肉体にとどまらない。
黎の命を盾に取り、この世に存在する異能の術式を引き出せるかぎり引き出してきた。精霊殿の防衛陣形を無力化させる術の解明にも役立った。その深い知見は、長年戦場に身を置く玄海すらうならせるものだった。
そして、硬質な金剛石のごとく輝く銀の双眸。
己の底知れぬ孤独も支配欲もすべて見透かした上で、理に適ったもっとも欲しい言葉を過不足なく与えてくる稀有な頭脳。
美と術と知。そのすべてを兼ね備えた不滅の存在。大金を積もうと手に入るものではない。
死すまで手元につなぎ止め、絶対に手放すわけにはいかない。
赫夜を縛りつけるもっとも苛烈な鎖。それこそが、己の影として手塩にかけて育てあげた黎だった。
(玉石混交の戦災孤児から、噛み殺す牙として拾いあげた鴉が、まさか極上の原石であったとはな。あの男を師にもつだけのことはある)
愚鈍で使えぬ実の皇子どもに玉座を譲るより、己を狂信する忠義の黎に二代目を継がせ、みずからは陰から帝国と赫夜を操り続ける方がはるかに合理的だ。
「黎を呼べ」
玄海の低く重い声が、日の届かぬ廊下へと低く反響する。
「最近、覇気が無いという息子に、神殺しの先陣を切らせる。あの影が俺の後継に足るかどうか、神の首で見定めてやろう」
かくして、覇王の狂気と執着は、世界の中心で待雪草を育て続ける出雲の元へ、黎をもっとも残酷な「敵」として送りこむ。
避けられない絶望的な戦火が、家族のような三人の運命を再び無慈悲にのみこもうとしていた。
<タイトル/慣用句>
三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい:
昔の遊郭では朝カラスが鳴くと別れの時間。この世のすべてのカラスを殺してでも、愛する人と朝遅くまでずっと一緒に寝ていたいという、幕末の志士である高杉晋作が詠んだとされる、情熱的な恋の都々逸 (どどいつ)。
本歌取りで「(鴉に)月を殺させてしまえば夜は終わらない。黎黒の闇の中で、愛する狐と朝を忘れて睦み合いたい」の意味。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/nc311a0c76286




