第26話 月隠りに黒雲白雨 ー出雲Sideー
月守の許しを得て、精霊殿の地下に設けられた秘匿療養所は、夜陰に乗じて運びこまれる傷病者で埋まり始めていた。
湿った石壁に囲まれた地下室に、沸騰する薬湯の湯気と濃密な血の臭いが充満する。
出雲は白い三角巾で髪を深くおおい、熱湯で洗った麻布と骨針を手にした。医術の知見がない神官たち数名を助手として手伝ってもらい、絶え間なく指示を飛ばす。
「そちらの傷口を清潔な水で洗ったら、薫衣草の精油を香炉にくべてください! 痛みを和らげます!」
胸の奥を押しつぶす重責に息が詰まりそうになる。
だが、出雲は月守への誓いを思い出して強く唇を噛みしめ、己を鼓舞した。神官長の稲佐も療養所へ頻繁に顔を出し、出雲が困っていることはないか気を配っていた。
患者の治療法に悩んだ時は、丘の下にある診療所の素鵞へ至急書状を送り、即座に助言を仰いだ。
白磁の壁に囲まれた広い部屋には、帝国の追手から逃れてきた異領の潜伏者や捕虜だけでなく、重傷を負った黒曜民までもが横たわっている。
紅や青、翠といった色鮮やかな髪をもつ異領者たちと、黒髪の黒曜民が同じ敷布団にならぶ異様な光景。
はじめは互いを敵と見なし、鋭い殺気をみなぎらせてののしり合う声が止まなかった。
「退け、黒曜の犬め! 同胞の血で汚れた手で触れるな!」
「黙れ異端が! 陛下に仇なす国賊を治療するなど、正気の沙汰ではない!」
今にも刃沙汰になりかねない一触即発の緊張感。それをうち破ったのは、血と汗にぬれながら不寝番で術をふるい続ける出雲の毅然とした立ちふるまいだった。
出雲は重傷者の膿む傷口へ、ためらいなく両手をさし出す。
「争うならば、傷がふさがってから外でやりなさい! ここは命をつなぐ場所です。血の色や生まれで命を軽んじる者は、私がこの手でたたき出します!」
出雲の手から放たれる清涼な霊力が薬湯の湯気にまざり、部屋全体へ広がる。薫衣草の香りが傷ついた肉体を優しく包みこみ、引きつるような激痛を沈静化させていく。
己の命をけずるかのように不眠不休でそそがれる平等な慈悲と圧倒的な献身。
その瞳の強さに圧され、兵士たちもいつしか口を閉じ、束の間の休戦を受け入れざるを得なくなった。
*
朱色の残照が濃紫の闇へ沈みゆく刻限、出雲のもとへ緊迫した報せが飛びこんだ。
「腹部を深く刺された黒曜民が、門前で倒れている!」
八光丘へ参拝に訪れていた信仰深きその男は、精霊殿へ火炎瓶を投げこもうとした皇帝派の過激派に対し、丸腰のまま立ちはだかったのだという。身をていして襲撃をはばんだものの、返り討ちにあい重症を負っていた。
精霊殿の重い門戸が開くのは深夜。まだ人目の残る刻限、禁を犯して血みどろの怪我人をまねき入れることを、神兵たちは躊躇していた。
「出雲、受け入れの余力はあるか!」
駆けこんできた神官長の稲佐が息を荒らげる。男の破格の忠義を察した稲佐は、ただちに月守へ許可を仰ぎ、出雲のもとへ疾走したのだった。
「あります! すぐに運びこんでください!」
出雲が叫んだ瞬間──天を裂く閃光が走り、天地をゆるがす雷鳴がとどろいた。出雲も稲佐も、その苛烈な音圧に思わず身を縮める。
「精霊殿の頭上で雷など、何十年ぶりか……」
愕然とした稲佐が出雲の横で天を仰いだ刹那、頭上にさえていた月が消え去った。
渦巻く黒雲が空をのみこみ、地上からあらゆる光をはぎ取って闇でぬり潰す。真珠のごとき雨粒が石畳を跳ね、激しい雨音が精霊殿の屋根を激しく打ちすえた。
視界と音を完全に遮断する凄まじい嵐。この世の理からはずれた天変に、神官たちの間にも動揺が走る。
「今のうちに、怪我人を中へ!」
千載一遇の機を逃さず、出雲は大門を開かせた。暗雲の影にまぎれ、大量の血を流す男を地下室へ担ぎこませる。
「急いで止血の手配を!ありったけの清潔な布を集めてください!」
濡れた衣をひるがえして指示を飛ばす出雲。その頭上、吹きぬけとなった二階の手すりに、静寂をまとった白い影がいつの間にか佇んでいた。
世俗の人前にいっさい姿をあらわさぬ月守。
その双眸と手に握られた白銀の錫杖が、波打つ銀灰と虹色の秘光をまぶしいほどに放っている。
(まさか……主上が気象そのものを動かしたというの……?)
精霊殿を満たす重々しくも神聖な霊力の余韻に、出雲は息をのんだ。
*
地下室へ運び込まれた男のかたわらへ膝をつき、出雲は素早くぬるま湯に浸した麻布で、黒く濡れた腹部の血をぬぐい去る。
引き締まった腹筋に幾筋も刻まれた古い傷痕。単なる参拝客ではなく、過酷な訓練を重ねた現役の兵士だと指先の感触が告げていた。
割けた傷口をあらためると、出雲は胸の内で静かに安堵の息を吐く。
刃は太い脈をそれており、圧迫止血だけで流血は静まりつつある。命に別状はない。
「……すまない、娘さん。月守様のお膝元を汚すわけにはいかなかったのだ」
「貴方は精霊殿を守ろうとしてくださったのですね。助かったのは、きっと主上のご加護でしょう」
「そうだとしたら、ありがたい。月守様にお礼を申し上げる。……こうして手をつくしてくださる、貴女にも」
骨針に通した糸が皮膚をなめらかに引き寄せ、傷をふさいでいく。男は痛みに顔をゆがめながらも、出雲のよどみない縫合の手つきに深い感謝の吐息をもらした。
「無理に話さず、息を整えてください」
「なに、命を拾っただけで儲けものさ。前線で戦う我が軍の黎大将軍に比べれば、この程度の傷などかすり傷に等しい」
耳にとびこんできた名前に、骨針を動かす指先がぴたりと止まる。
男の重なった奥襟の隙間から垣間見える、軍律の紋様。単なる信者ではなく、苛烈な戦場を生きぬいてきた帝国軍の精鋭か──。
「……黎大将軍とは、黒曜の軍を率いる一番偉いお方ですか」
「ああ。他の将軍どもは安全な後方にひかえて指示を飛ばすだけの豚どもだが、最年少の将軍であるあの方は違う。最前線でもっとも危険な役目をみずから引き受け、身体を張って武功をあげる。半獣の血を引いていると聞くが、それを隠さず圧倒的な武力としてふるう……大した男だよ」
よほど尊敬しているのだろう。饒舌になった男は誇らしげに語りを続けた。
「なによりあのお方は、無駄な殺戮を好まない。抵抗せず投降した敵にはいっさいの危害を許さず、敗者や弱者への略奪、蹂躙を絶対に許さなかった。軍律を破って略奪を働いた味方の兵を、その場でみずから斬首したほどだ。冷徹だが、確かな人道と合理性をお持ちなのだ」
すると、翠の髪をした翠樹領民が敷布団の上で身を起こした。
「……俺も、その話を知っている。難攻不落と言われた紫耀領攻めでも、女子供は徹底して保護し、戦に明け暮れていた男たちを大量に帝国軍の傭兵に下している。武力だけでなく知略もめぐらす切れ者だ」
全身を白布で巻かれた翠樹の男は、天井を見上げながら暗い目を向けた。
「……半獣でありながら、軍を束ねる厳格なお方なのですね」
「そうだ。それに、捕虜兵も平等にあつかう男だと聞いた。俺も黎大将軍の配下にいたら、上官たちの不当な暴力を受けて逃げ出す必要もなかっただろう」
敵領出身であることから黒曜兵の上官たちに暴行を受け、全身に骨折を抱えたまま治療を許されなかったために悪化し、兵役中に逃走を図った男だった。
半獣蔑視が常識のこの帝国で、一般兵士から尊敬を集める稀有な存在。
出雲が感心したようにうなずいたその時だった。
「──だまされるな! あいつは人間などではない!」
隣の寝台から、狂乱したような叫び声があがった。
ここに来るまで鉄の鎖で繋がれていた紅髪の男──紅灼領の内乱で捕らえられた捕虜の兵士だった。激しい憎悪で血走った目を黒曜兵に向け、忌々しげに吐き捨てる。
「黎大将軍だと!? あいつは死神だ! 人の心を失った化け物だ!」
「なんだと、貴様!」
「嘘だと思うなら聞け!」
紅髪の男は、恐怖に身体を震わせながら過去の地獄を語り始めた。
「占領された紅灼領で反乱が起きた時、やつは俺たち捕虜を最前線の肉壁として突撃させた! 旗を揚げた同胞たちは、捕虜である俺たちを攻撃するのを躊躇した……その一瞬の隙だ! やつは俺たち肉壁ごと、後陣の黒曜兵に錬丹術の不可視の斬撃を打ちこませ、同胞もろともたたき切ったんだぞ!」
男の目から涙があふれ出る。
「それだけじゃない! 仲間を失って泣きくずれる同胞の頭領を……やつはみずから黒い化け鳥に姿を変え、上空から急降下して首ごと噛みちぎって殺したんだ! 人の生き血をすする、正真正銘の化け物なんだよ!」
あまりに凄惨な内容に、地下室の空気が氷のように凝固した。
黒曜兵は「戦術の合理性だ」と吐き捨てて目を背けたが、出雲の胸は激しく痛んだ。
(黒い、化け鳥……。巨鳥となって空を駆け、人の首を噛みちぎる半獣……)
異形の鳥の姿。出雲の脳裏に、かつてともに過ごした烏丸の姿がかすめた。
だが、出雲はすぐにその思考をうち消した。
(そんなはずがない。烏丸は、不器用だけれど誰よりも優しくて繊細な人だ。自分を犠牲にしてでも私を守ってくれた彼が、そんな冷酷な殺戮などするはずがない。)
世の中には、権力者に使役されたまだ見ぬ恐ろしい半獣があふれているのだ。
そう自分に言い聞かせ、出雲は次の患者の元へと向かった。
*
患者の横にひかえていたのは、助手として出雲を手伝ってくれている青淵領生まれの若い女神官だった。彼女は薬瓶を運ぶ最中、ガタガタと手を震わせ、床にガラス器具を落として砕いた。
「大丈夫ですか? 立ちくらみでも……」
「ごめんなさい、出雲さん……私、話を聞いていたら、思い出してしまって……」
女神官は両手で顔をおおい、その場にくずれ落ちた。すかさず出雲もしゃがみこみ、彼女を落ち着けるため、震える背中をさすってやる。
ゆっくりと顔をあげた女神官は、呼吸を乱しながら口を開いた。
「......あの黎という将軍は、私の村を焼き払った死神です……。私の家族も、村人も、ひとり残らず即死させられました。誰も抵抗なんてしていなかったのに……見せしめにされたのです」
「そんな……」
「あの日、弟が風邪をひいたから、足の悪い母に代わって私が山へ薬草を取りに出ていました。ふと見上げると、雲をおおうほどの巨大な妖鳥が山の上を通り過ぎていって……気味悪さに身を伏せていたら、馬の蹄の音がひびき渡り、あっという間に村が大軍に占拠されたのです」
女神官のむせび泣く声が、静かな地下室に切なくひびく。
「兵士たちは手柄にするため、村人たちの首の数を数えていました。隠れていた者まで連れ出されて斬首され……最後には『疫病を防ぐ』と叫んで、骸ごと村を焼き払ったのです。あの巨大な妖鳥……黎将軍の指揮のもとで……!」
出雲は息をのみ、言葉を失った。
「きっと、罪なき村人たちの首の数まで手柄にして、大将軍まで上りつめたんだわ……そういう男です」
誇り高き人道主義の将軍。
捕虜を肉壁にし、頭領の首を噛みちぎる化け物。
非道な見せしめで村ごと焼き払う巨大な死神。
語る者によって真逆の顔を見せる「黎」という存在。
だが、どの言葉からも共通して浮かびあがるのは、立ち向かう者すべてを容赦なくふみにじる、絶望的なまでに圧倒的な黒曜の絶対者としての姿だった。
女神官は涙をぬぐい、出雲の手を強く握りしめた。
「出雲さん、貴方の探している大切なご家族は、今どこにいるのですか?」
「わかりません。……でも、きっとどこかで生きていると信じています」
「……どうか貴女のご家族が、あの恐ろしい死神とめぐり合いませんように。もし遭遇してしまえば、いくらお強い方でも命はありません……」
女神官は胸の前で強く手を合わせ、心からの祈りを捧げた。
出雲は静かにうなずき、窓のない地下室の天井を見上げた。
(烏丸なら、そんな冷酷な将軍に対してでも、絶対に全力で抵抗してしまう……)
その視線の先、はるか遠くの夜空の下にあるであろう、黒曜帝国の巨大な城格に想いをはせる。
(烏丸……どうか無事でいて。そんな恐ろしい殺戮の渦に巻きこまれないで……)
己が命をかけて再会を祈る最愛の「烏丸」。
だが、彼こそが、世界を絶望に染めあげる巨大な妖鳥「黎大将軍」その人であるとは、このときの出雲は思いもよらなかった。
血の臭気と祈りがまざり合う暗がりの中、すれ違うふたりの運命の歯車が、悲劇的な音を立てて静かにまわり続けていた。
<タイトル/慣用句>
月隠り:
月が雲や山などに隠れて見えなくなること、および月の光が見えなくなる「月の末日(晦日・みそか)」を意味する言葉。
黒雲白雨:
黒い雲と激しく降る白い雨、すなわち激しい夕立や暴風雨を意味。
中国・宋代の文人である蘇軾の漢詩『望湖楼の迎秋』の一節「黒雲翻墨:黒い雲が墨をひっくり返したように広がり」と「白雨跳珠:激しい雨粒が真珠のように跳ねる」に由来。
小説挿絵リンクはこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n9549e7ffcf09




