第25話 月狐の沈丁花は枯れても香し ー既望Sideー
2026/09/14 改稿(最新)
黎が最前線で血をあび、数万の首をあげる死神として戦場を切り裂く裏側。帝国の心臓部たる宮廷の最奥では、静かな破壊が進行していた。
白檀と阿片の濃密な香煙が漂う閨。
深紅の帳の奥で、豪奢な寝台に横たわる皇帝・玄海の胸元に、既望が身を寄せる。
銀糸の長髪が夜の闇の中で青白い光彩を放つ。玄海の無骨な褐色の肌に対し、既望の肌は白磁の静けさを帯びていた。
華奢な背中に刻まれた黒泥の『禁霊錬成陣』が脈打つ。体内の霊能が黒曜の霊術に抑えこまれ、黒銀の火花を散らして肉を灼く。
絶え間ない激痛のなか、既望の端正な顔立ちに苦悶の色はない。
黎をかばい、出雲へ術をさずけた思慮深き師の面影はそぎ落とされていた。
大切な存在を理不尽な運命から奪い返す凄絶な執念が、覇王の寝所を毒で浸食していく。己の身を泥に沈めてでも、この腐敗した帝国を内側から崩壊させる誓いへと変わっていた。
「……赫夜。今宵も美しく咲いているな」
油の浮いた太い指が、既望の白皙の顎を汚して持ちあげる。
陶酔に濁った眼差しを向ける皇帝・玄海。幾重にも他の領土をふみ荒らしてきた絶対的な覇王はいま、眼前の銀髪の男しか映していない。
既望は瞳の奥の情念をきれいにそぎ落とし、完璧な角度で唇を弧へゆがめる。
しなやかな指先が玄海の重厚な刺繍帯から胸元へとはい上がり、厚い衣ごしに届くにぶい心音を掌で静かに受け止めた。
「陛下。私のかすかな美しさなど、貴方が築き上げた帝国の威光に比べれば、有明の露にすぎません。……ですが」
しっとりと濡れた声で言葉を切り、眉根をかすかに寄せる。その憂いを帯びた声音に、密やかな毒が混ざりこんでいた。
「城の官女たちの耳ざとさは、時に真実を拾い集めます。我が国の偉大な領土をおびやかそうとする泥ネズミどもが、宮廷の床下にひそむ気配を感じるのです」
耳元をなでる甘いひびき。その奥底に隠した毒牙が、玄海の鼓膜から全身の血へと侵食していく。
玄海の巨体が、石のように硬直した。
「ネズミだと。……誰のことだ、言ってみよ」
老いへの恐れと猜疑に満ちた低い濁声が、喉の奥からもれ出す。
既望は透き通るような白い腕を、玄海のたくましい首筋にまわし、荒い熱をはらんだ胸元へ深く身をゆだねた。
「前線で赫々たる武功を立てる黎将軍をねたむ、皇子たちと臣下でございます。彼らは、陛下が黎将軍を重用されるのを忌み嫌い、『老いた皇帝はいずれ黎に帝位をゆずる。それを阻めぬ傀儡の老兵は退くべきだ』と、陰でウワサを流しております」
「……俺の血を分けた実子どもが、この俺を裏切るというのか」
玄海の顔面から血の気が引き、シワに深いくぼみが走る。絶対的な力で君臨してきたからこそ、玉座を奪われる恐れは深淵の闇より深かった。
その心の亀裂へ、既望は的確に毒針を刺しこむ。
「おいたわしや、陛下。そのお心を苛む深い孤独を、私が癒やしてさしあげたい……」
悲しげに瞳を伏せ、濡れた慈愛の表情をよそおう。
「息もつけぬ政務の隙間を縫い、これほど私を寵愛し、厚遇してくださっているというのに……。過ちを犯したあの日から、猛省を重ねてまいりました。霊能を断つ封印を刻まれてなお、こうして身を捧げております」
「分かったのであれば、それでよい」
玄海の汗ばんだ肉厚な掌が、既望の冷たい頬から首筋にかけて、ねっとりとたどる。
「貴方様の真の偉大さを理解し、すべてを受け入れられるのは私だけでございます……」
老いた暴君の顔を慈しむような眼差しで見つめ、落ちぼくぼんだまぶたに氷のような唇をそっと重ねた。
「政務というわずらわしいお仕事は、猜疑にまみれた皇子たちに押しつけ、互いを監視させればよいのです。愚かな者どもは勝手に疑心暗鬼におちいり、共食いを始めて淘汰されましょう」
「うむ……確かに、理に適っている」
「貴方はただ、得意とする武勇で盤上を崩せばよいのです。戦の疲労は、夜の帷の中で私にあずければよろしい」
耳元でささやいた粘りつく甘言に、黒曜帝国の頂点に立つ男の眉根が弛緩する。
「……よく分かっている。政務の泥は好かぬ。俺は戦場の血煙の中にいるときこそ、もっとも生きた心地がするのだ。お前だけが、俺の本質を見抜いている」
玄海は巨躯を寄せる。銀糸の長髪に埋められた顔から、龍脳の濃厚な薫香が吐息とともに吹きつけられた。
玄海の背越しに、既望は暗闇へ向けて絶対零度の視線を走らせる。
(すべては、あの子たちと再びあの森へ帰るため。)
玄海の太い首筋にまわした指先。爪が浅く肉を刻み、ひと突きで喉笛を断ち切る衝動が、全身の血をたぎらせ、筋肉をこわばらせる。
だが、まぶたの裏に浮かぶのは黎——烏丸のゆれる瞳だ。
この男を殺めれば、親を奪われた烏丸の心は完全に閉ざされる。
出雲の手を取らず、玄海の将軍として城にとどまった選択。あれは、あの子が皇帝を父と仰ぎ、断ち切れぬ愛憎に縛られている証左だった。
烏丸が出雲との関係を誤解していた事実は、彼女を娘として慈しんしてきた既望の計算を大きく狂わせていた。
(出雲が真に心を寄せるのは、ただひとり、烏丸だというのに。)
真に求める最愛の眼差しは遠ざかり、強欲な視線ばかりが群がる肉体。不滅の若さを宿す月狐の血は、やはり呪われているのだ。
だが、毒として使うならば、これほど強固なエサもなかった。
美貌と若さをむさぼる皇帝の老獪な弱点をついて、みずから参内を果たした。老いを恐れる武王にとって、傷ついても朽ちぬ肉体は極上の逃避場となる。
そして、烏丸の首輪を握っているのは、この男だ。
(……よくも私からあの子を奪ったな。私の子を返せ……!)
言葉の刃でこの巨躯を戦場へ誘導し、皇子たちの猜疑をあおって帝国を内部から腐敗させる。
玄海が破滅すれば、黎を縛る鎖は崩壊し、出雲の待つ森への路がひらく。
*
やがて、巨躯が重い寝息を立て始めた。既望はなめらかな薄絹をすべらせ、静かに寝台を抜け出す。
冷えた石床を裸足で踏みしめ、鏡台の前へ腰を下ろした。冷ややかな銀櫛を指先で拾いあげる。
青銅鏡にゆれる己の姿。背に刻まれた黒泥の醜悪な呪印が、皮膚の奥で銀色の血と混ざり合い、うごめいている。
愛欲の側近という名の毒薬へ身を落とした、不浄な痕跡。
引き出しの奥から沈丁花の香油を満たした小瓶をとり出し、封を解いた。両目を閉じ、その香気を胸の奥深くまで吸いこむ。
遠い昔、生涯でただ一人深く愛した亡き番———盲目の娘『赫夜』が好んだ芳香。だが、どれほどこの香りを肌へ塗擦しようと、すぐさま嫌悪すべき皇帝の濃厚な薫香に上書きされ、虚しくかき消されていく。
(かつて、私の腕の中で命を散らした赫夜。紅緋色の美しい髪に沈丁花の香りをまとい、私の姿や色香ではなく、声の音色だけで心の奥底を見通してきた唯一の番……。腹の中の子とともにその命を奪われたあの日、私は身も心も一度死んだのだ。)
仇をことごとく屠り、血の海の中で刃を喉に突き立てたとき、神は私に『死』すら与えてくれないことを知った。
傾城と嘲られ、愛を買い、愛を乞われ、その果てにすべてを失った忌まわしき紅灼の記憶。亡き赫夜の面影を追い、似た女を愛しては悲劇に引き裂かれ、さらなる破滅へと転がり落ちていった。
人を愛さないことが、相手を守ることだと、自分に言い聞かせて逃げて生きてきた。あの二人に出会うまでは。
(だからこそ分かるのだ、烏丸。お前が出雲のためにどれほどの恐怖と戦い、その温もりを手放すまいと苦しんでいたかが……。)
指先にとった紅脂を唇へすべらせると、紅のこすれ落ちた白肌に、生々しい血の艶が鮮やかに浮かびあがった。
色香を放てば、あらゆる男も女も濁った欲望の眼差しをそそぎこんでくる。
それでも、出雲だけを愚直に想う烏丸の目には、己の姿は永遠に「師」として清らかに映っていた。
(あの子の心根は濁っていない。出会った頃の、澄みわたる水面のままだ。)
ありのままの存在を肯定してくれた、烏丸と出雲。ふたりへの愛おしさが胸を焦がすと同時に、彼らをだまし続ける苦い咎の痛みが心腑を深く苛む。
「……出雲、すまない。どうかお前だけは、穢れないでくれ」
精霊殿に残してきた純真な少女には、決してみせられぬ血と汚辱に染まった手。
青銅鏡に映る銀髪が、静かな夜闇の底で、妖しく冷たい光を散らせて明滅していた。
<タイトル/慣用句>
沈丁花は枯れても香し:
もともと優れたものは、たとえ全盛期を過ぎたり傷んだりしても、その価値や素晴らしさを失わないという意味の慣用句。日本三大香木の沈丁花は、枯れてもしばらく芳香を漂わせる様子から生まれた言葉。
心月狐:
古代中国の天文学と神話が結びついた、二十八宿の一つである「心宿」の神格化であり、月の精霊あるいはキツネの姿をした神聖な星の官。
小説挿絵リンクはこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n97505e1a7e1e
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!ページ下部の★や絵文字をぽちっと押していただけると嬉しいです。




