第24話 晴雲に秋月 ー出雲Sideー
霜が降りる冷たい朝が幾度もめぐり、神官としての勤めと診療所での過酷な研修が、静かに時間をけずり出していく。
雪月風花を模した中庭の隅に、待雪草が凛とした葉を伸ばしていた。
早春の時期になれば、その白い花弁が冷風にゆれるのを見るたび、遠く離れた烏丸と既望の顔が浮かび、再会への予感が出雲の胸を熱くさせる。
精霊殿の神官長たる稲佐のもとへ、街の診療所の素鵞から一通の封書が届いたのは、出雲が見習い期間を終えた頃だった。
そこには、応急処置の治療において、出雲の霊術を応用した独自の止血法や調薬の手際が、すでに一人前の医術師に匹敵する域に達しているという事実が、端的な言葉で記されていた。
*
その数日後、朝一番の禊を終えた出雲は稲佐に呼ばれ、長い回廊をぬけて月守の御前へと進み出た。
「出雲を連れて参りました」
白磁の柱が連なる露台には、薄絹のような朝靄が立ちこめている。
昇り始めたばかりの柔らかな朝日が斜めにさし込み、手すりに結露した水滴をいっせいに黄金色へと変えていた。
長椅子に腰を下ろす月守のかたわらで、稲佐にならい、出雲も静かに膝を折る。
秋月が満ちた宵の祈祷を終え、神の代行者が束の間のまどろみに落ちる前の、わずかな静寂の時間。
月守は伏せていたまつ毛をあげ、悠然とした動きで出雲を見下ろした。
「出雲が奉仕する丘の下の医術師から、我が精霊殿に打診があった。……黒曜の髪色をもたぬ怪我人を、この霊廟で治療してやれないか、とな」
静かな声が、朝の冷たい空気を震わせる。出雲はハッと息をのんだ。
素鵞の診療所が、黒曜民以外の患者を受け入れられない切実な事情は知っている。密告されれば、彼女たち半獣の家族は処刑されるのだ。
医術師としての救済の精神と、家族の命を守る現実。素鵞の血を吐くような葛藤が、出雲の胸を締めつけた。
「極めて危険な判断だ。我ら神官は今、帝国軍領土の腹の底に座している。敵領民をひそかに救済していると知れれば、皇帝がこの精霊殿を灰にする口実を与えることになる」
月守の言葉には、いっさいの感情がまじっていなかった。それが逆に、事の重大さを突きつけてくる。
出雲の背筋を冷たい汗がつたった。
「それで……主上は、お断りになられたのですか」
出雲の震える声に対し、月守は一度だけゆっくりと首を横にふる。
「出雲はどうしたいのだ。そなたの慈善を特例として許したのは私だ。書状には、そなたの術によって確実に命を拾った若者がいるとある。……この霊廟でその治療術を行えるのは、出雲、そなただけだ」
私に、その覚悟があるかと問うているのだ。
素鵞の手助けなしに、己の霊術と知識だけで、帝国から追われる人命をあずかる。少しでも手元が狂えば命は消え、秘密がもれれば精霊殿の同胞たち全員を死罪に巻きこむ。
あまりの重圧に呼吸が浅くなる。出雲はすがるような思いで、隣にひかえる稲佐へ視線を送った。
稲佐は出雲の恐れをすべて見透かした上で、あえて手をさし伸べることはせず、ただ静かに、力強くうなずいてみせた。
(大丈夫。私には、もう救うための手立てがある。無力さを悲嘆しているだけの頃とは違う……!)
出雲は膝にのせた両手を強く握りこみ、震えを無理やり押さえつけた。息を深く吸いこみ、冷たい空気を肺の底まで満たす。
そして、顔を上げ、月守の眼差しを真っ直ぐに見つめ返した。
「……私は、救える命があるのなら、救いたいです」
長椅子に腰をかけた月守は微動だにしない。朝日が反射するその顔は、ふとした角度によって深いシワを刻んだ老女にも、無垢な少女にも見え、神秘的な威圧感を放っている。
出雲は己の鼓膜を打つほどに、腹の底から声を張りあげた。
「あの診療所を訪れる人たちは、暗闇の中で絶望し、最後の救いを求めて扉をたたきます。医薬術とは、血の色や生まれの領地に関係なく、万人が明日への希望を見いだせる術でなくてはなりません」
脳裏に鮮明によみがえるのは、いつも出雲の前に立ち、傷だらけになりながら血路をきり開いてくれた烏丸の孤高の背中だ。
あの背中を、今度は自分が癒し、守り返すと誓ったはずだ。
「それは、雪闇をさまよう者たちが、雲間から射す月光や、春の暖かな日差しを求める心境に似ています。帝国軍の戦がもたらすものが深い雪闇であるならば……主上がおわすこの精霊殿こそが、彼らにとっての月光になるはずです!」
膝をついたまま、出雲は毅然と背筋を伸ばし、朗々とひびき渡る声で言い放った。
「人間には、生きる希望が必要です。たとえどれほど短命な宿命を背負っていたとしても、明日を生きぬくための、温かい希望が……!」
風が吹き抜け、朝露が白磁の床にポタリと落ちる。
重苦しい沈黙が流れた。
「…………相分かった」
月守が静かに立ちあがる。すべるような足どりで出雲の側へ寄ると、その細い肩にふわりと手を置いた。
彫刻のように整った容貌と、深い慈悲をたたえた瞳がすぐ目の前にある。だが、その輪郭がどういうわけかひどくかすんで見えた。月守の白い指先が小刻みに震えている。
出雲がハッとしたのは、次の瞬間だ。かすんでいるのも、震えているのも月守ではない。
恐怖を乗りこえて言葉をふり絞った出雲自身が、大粒の涙をこぼし、肩を激しく震わせているのだと気づくのに数秒を要した。
眼前の月守が、やわらかな弧を描いて唇を動かす。
「精霊殿は今後、闇夜に乗じて、丘の下で受療できぬ者たちへ門戸を開く。受け入れた傷病者はすべて、出雲。そなたの腕にあずける。……よいな」
「……はい......っ!」
喉の奥から絞り出すように答える自分が、なぜこれほど泣いているのか分からない。
恐怖、重圧、そして安堵。それらが入りまじった涙が止まらない。
それでも、野山で三人で過ごし、突然の別れからずっとふさがっていた胸の奥が、嘘のように晴れ渡っていた。
足手まといになり、己の無力さに打ちのめされ続けた少女はもういない。ようやく、烏丸がその黒い羽を休める場所に相応しい自分になれたのだと、確かな熱が血をめぐる。
月守が目を細めてほほえむその表情は、幼い頃に出雲を優しく見守っていた母の記憶と重なった。
秋の高く澄んだ日差しが出雲の涙に濡れた頬を照らし、したたり落ちた金色の雫が、白磁の床で小さく弾けた。
<タイトル/慣用句>
晴雲秋月:
晴れた空の雲と秋の澄んだ月のように、心がけがれなく、純真で透き通っている様子。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n06b516f38a1a




