第23話 黎黒に月満つれば則ち赫夜
世界終焉まで、残り10話。
十六夜の月が黒曜の城郭を青く照らす刻、黎は皇帝の奥宮へと急ぎ足で向かっていた。
急な呼び出しの意図は明白だった。既望が帝国の心臓部へ身を投げうったのは、自分——『烏丸』をとり戻すため。
既望の思慮深さは己を犠牲にする危うさをはらみ、皇帝・玄海の冷酷さは他者をふみにじる狡猾さに満ちている。
嫌な予感が激しい鼓動となって、黎の喉を灼いた。
黒檀の重厚な扉が開く。途端、焦げた肉の異臭と、不快に甘く重苦しい香煙が鼻腔をつき刺した。
広い石造りの一室。壁に刻まれた鉄環から伸びる太い鎖に両腕を吊るされ、膝を折る男の姿があった。
「既っ......」
叫びかけ、黎は力まかせに己の唇を噛み切った。
乱れた銀糸の髪の間からのぞく背中。引き裂かれた衣の隙間から、銀藍の霊光の粒子が銀色の血と混ざり合い、明滅しながら床へしたたり落ちている。
息をのむ黎の前で、長椅子に深く腰かけた玄海が、黒い宝剣の鞘をいじりながら酷薄な笑みを浮かべた。
「俺の側近として城に入りこみながら、無断で夜の城内を抜け出そうとしたらしい。赫夜は傷を負っても即座に肉がふさがる。幾度刃を突き立てようと壊れぬゆえ、じつに飼い慣らし甲斐がある」
玄海がゆるやかに立ちあがり、鎖のきしむ音を立てて倒れこむ既望の顎を粗暴につかみあげた。
「黎よ。先日の雨の夜半、赫夜が部屋を抜け出したのを追わせた密偵から報告があった。お前と接触し、逃亡の誘いを受けたそうだな。断ったのは見事な忠節だ」
密告。黎の全身の血液が、一瞬で凍りついた。
あの雨の夜、気配はなにもなかったはずだった。雨音と深い霧の中に、玄海の目がひそんでいたのか。
玄海は喉の奥で嗤い、宝剣の柄に手を掛けた。
「カラスの半獣が大いに有用だったゆえな。ミミズクやコウモリの半獣も我が配下へおさめた。敵の動向はもちろん、味方の裏切りを防ぐためだ。俺の首を狙うネズミは無数にいる」
「……半獣を、密偵としてお側におかれていたのですか」
「忠義を刻みこめば重宝する。だが……」
玄海の鋭利な眼光が、再び既望へと向けられた。
「お前の師父たるこの男も半獣の類らしい。狐の姿で逃走を図るところを捕らえた。飼い主に牙をむく獣は、徹底して仕込まねばならん」
玄海が宝剣を鞘から引き抜いた。冷たい刃が黎の肩に静かにのせられる。
金属の冷気が皮膚を伝い、背筋に強烈な悪寒が走る。動けば、命はない。
「赫夜よ。俺は手中に収めた獲物を決して手放さぬ。万が一にも逃亡を企てれば、即座に黎の両腕を切り落とす。大切な弟子なのだろう?」
凄惨な宣告が部屋にひびき渡った。
「……それだけは、おやめください。陛下!」
拘束された既望の喉から、銀血まじりの悲鳴が絞り出された。
「黎が大事ならば、死ぬまで俺に奉仕せよ。師の素行が悪ければ、弟子が咎を負うのだ」
救い出すために飛び込んだ恩師が、今や自分を縛りつける最悪の人質へと変わった。
突き放す選択をした己の拒絶が、既望を出雲の元へ帰る強行手段へと追いやったのだ。激しい動揺が、黎の内臓を内側から食い破っていく。
玄海が短く指を鳴らすと、影の中から黒装束の呪術師たちがすべり出た。
彼らが掲げる濡れた筆の先から、重く粘り気のある黒泥が既望の肌へ直接垂らされ、邪悪な『禁霊錬成陣』が刻みこまれていく。
既望の体内からあふれ出る銀の霊子と、漆黒の呪印が激しく衝突し、黒銀の放電が広間の空間をゆがめた。
霊力と身体機能を完全に封じこめる、死より重い隷属の刻印。肉を灼くにぶい音とともに、既望の絶叫が壁をゆらす。
黎は浅い呼吸のまま言葉を失い、石床に根が生えたように立ちつくした。
(......既望、俺にかまわず出雲の元へ帰れ!)
喉を引き裂いて叫びたい衝動に駆られながらも、黎の声帯は硬直して動かない。
ここで不用意に間に入れば、玄海の嗜虐心をあおり、既望にさらなる苦痛を与えるだけだ。
何年も探しまわった末に、皇帝へみずからを生け贄として捧げてしまう既望の執念。それを止める言葉など、もはや存在しない。
山深い草庵で過ごした日々。既望は土埃に肌を汚し、ほつれた粗末な布をまとう生活を好んでいた。
飾り気のない男だったが、ただひとつ、沈丁花の香油だけは故郷の記憶として肌に染みこませていた。
潜入のためとはいえ、いま鎖につながれた既望は唇に紅をひき、艶やかな薄絹を身にまとわされている。化粧はそれひとつだけだというのに、黎の目にはおぞましいほど妖美に映った。
不老の肉体と、見る者の心を狂わせる恐ろしい気配。
子供の頃に彼から聞いた、血を呼ぶ器。それが人間の醜悪な情念を極限まで引き出しているのか。
黎の視線が、既望と玄海の間をさまよう。
軍事に冷酷な父・玄海は、側室も息子すらも替えがきくと公言する男だった。ひとりの側近にこれほど執着し、政務の場へ私情をもちこむなどあり得ない。
どれほど冷酷であっても、既望たちと過ごした年月より長く、父子として信頼を築きあげてきた。玄海への絶大な敬慕はゆるがない。
だが、既望の魂が焼き切られていく光景が、黎の精神を容赦なく打ち砕く。
多感な青春期に無償の庇護を与えてくれた既望への確かな愛着。出雲もまた、師匠の帰りを待ちわびているはずだ。
己の選択が恩師を永遠の地獄へつなぎとめたという、消えぬ咎の烙印。
未曾有の葛藤に、足元の石床が消失したかのような錯覚におちいる。握りしめた拳の中で、自らの爪が掌の肉を突き破り、黒い血液がしたたり落ちた。
父を裏切れず、師を救う術もない。黎は奥歯が砕けるほどの苦痛に耐え、ただ立ちつくす。
庇護を与え、己の身を代償にして助けに来た「師」が、執着の鎖に囚われている。
半獣であることを肯定し、力を与えてくれた「父」が、所有欲の泥沼に溺れていく。
愛憎が狂い咲く両者の狭間で、黎の心は静かに死んでいった。
黎の絶望を置き去りにしたまま、二人の強烈な情念は、やがて黒曜帝国そのものを不可逆の破滅へと引きずりこんでいく。
<タイトル/慣用句>
黎黒:
暗い夜や、黒く薄暗い黎明(夜明け前)の空を思わせる言葉。ここでは玄海も表す。
月満つれば則ち虧く:
『史記』蔡沢伝などに由来する故事で「月は満ちれば必ず欠けるように、物事は頂点に達すればあとは衰えていく」という盛者必衰の理。
赫夜:
『竹取物語』の「かぐや姫」のようにおとろえない光、夜を照らす明るい輝き。
全体のニュアンス:
暗い闇(黎黒)の中で、月が満ちて光が極まるとき、欠けゆく運命の始まりであると同時に、夜を鮮烈に照らし出す「赫夜=既望・十六夜月」であるという、物事の盛衰・満ち欠けの詩的表現。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/ncfc6969f2558




