第22話 雨夜の月の鴉と狐
月が雲におおわれた夜、雨の降る深夜。
荒天にもかかわらず露台を開け放っていた黎の自室に、湿った雨の臭いを切り裂いて、重苦しい玄海の体臭と人工的な香水の匂いが忍びこんだ。
皇帝自らが臣下の部屋へひそかに忍びこむなどあり得ない。
黎は寝台から跳ね起き、枕元に置いた剣を引き抜いて薄い寝間着の腰帯に差した。匂いの漂う暗がりへと視線を向け、殺気をこめて低く威嚇する。
「誰だ」
大将軍の地位を得て広がった自室には、複数の露台が存在する。そのひとつ、開け放たれた壁の影がぬるりと動いた。
半獣の夜目には、侵入者の姿が鮮明に映し出されていた。黎の頸脈が激しく跳ね上がる。
「──烏丸。私だ」
闇の中から音もなく歩み出たのは、既望だった。艶をそぎ落とした、少年の頃から変わらぬ静謐な声が耳をうつ。
「……既望。ようやく俺と話す気になったか。だが、このような夜更けに寝室へ忍びこむとは、口を封じに来たか」
「まさか。この五年、私はずっとお前を探していたのだ。名を変えて帝国軍の大将軍になっているとは思いもしなかった。奴隷として使役されているとばかり思っていたのだが」
黎は鼻で低く笑い、腰の柄からゆっくりと指を離した。
雨露に濡れた銀髪が、室内の灯籠が放つかすかな光を反射して怪しく光る。
灰色の羽織の隙間からのぞくのは、女物の紅い絹衣。羽織を胸元で押さえる指先には、手入れされた艶やかな爪紅がぬられていた。顔立ちにも薄化粧がほどこされ、唇には紅の残りが不気味に生々しい。
妖しげな霊術の波紋が既望の輪郭をわずかにゆがませ、周囲の空間を異様な色香で満たしていく。
床の灯籠に足元から照らし出された恩師は、黎がこの城で目撃してきたどの側室よりも、恐ろしいほどの圧迫感を放っていた。
今宵も皇帝の床前で言葉を交わし、隙をついて忍んできたことは明白だった。
城内には幾重もの監視の目がひそむ。皇帝の寵愛する『側室』と私室で密会した事実が露見すれば、即座に処刑の対象だ。
恩師の変貌に対する困惑よりも前に、鋭い警戒心が全身を駆けめぐった。
「俺は捕らわれたのではない。己の意思で皇帝陛下の臣下となった。救出のつもりならお門違いだ」
「なぜだ……」
「俺は最初から独りだった。出雲もお前を慕い、俺は無価値な居候にすぎなかった。だから姿を消したまでだ」
既望の銀色の端正な顔が、苦渋に大きくゆがんだ。
「だが、お前が矜持と出雲を捨て、権威にしがみつく男だとは思わなかった」
黎はさげすみを隠さず吐き捨てた。出雲を捨てて皇帝にしがみついているのは、他ならぬ自分自身だと痛いほど理解しながら。
「見損なったぞ、既望……! いや、赫夜と呼ぶべきか」
吐き気を言葉にのせてたたきつける。
信じて背中をあずけた男が出雲の側を離れ、目の前で皇帝に媚を売っている。大股で間合いを詰め、既望の胸ぐらを強引につかみあげた。
「出雲はどうした!……なぜお前がここにいる!」
声を低く落としながらも、激情が爆発する。腕から拳にかけて浮き出た血管が、どくどくと激しく脈動した。
胸ぐらを固く握りしめられた既望は、とり乱すことなく、静かに黎の瞳を見つめ返した。
「出雲は無事だ。八光丘の精霊殿でおだやかに暮らしている」
「月守の……帝国内の禁戦区域に……!?」
黎の喉が鳴り、声がわずかにうわずった。既望は静かにうなずく。
「神官として霊術を学び、寝食も満ち足りている。心配はいらん」
「なら、なぜお前がここへ赴き、身を飾りたてて陛下の側近におさまった。なにが狙いだ!」
「……みずから進んで皇帝の側近となったのではない。陛下にお前を返すよう乞うたが、身をさし出す条件を提示され、要求を受け入れたのだ。最初からその覚悟でもぐりこんだ」
つかんでいた胸ぐらから指が離れ、黎の思考が完全に凍結した。
どっと吹き出す冷や汗。雨音すら遠のき、視界がぐらりとゆれる。
「なら……そんな姿に身を落としたのは、俺のせいだと言うのか!」
叫ぶ黎の瞳に、激しい罪悪と拒絶の色が走る。
「違う。もっとも確実な手段を己で選んだにすぎん」
猜疑と動揺にゆれる黎の顔を見返し、既望は理由を明かすのを一瞬ためらい、観念して小さな息をはき出した。
「……私は若き日、父の薬代を得るため、他者の汚濁した欲望に身を投じる裏の生業を行っていた。父の死後も、ただ生きのびるために身を汚した」
予想だにしなかった恩師の告白に、黎は言葉を失い、息を詰まらせる。
「私は清廉な人間ではない。人を真剣に愛した経験もあるが、その度に思惑に引き裂かれ、手を血で染めた。結局なにも残らず、むなしさに苛まれて遁世したのだ」
「……そんな話、一度も聞かされていない」
「心根の澄んだお前たちの耳を、暗い過去で穢したくなかった」
初めて明かされた恩師の深い傷痕。沸騰していた黎の血が、ゆるゆると冷えていく。
既望が強く一歩をふみこみ、黎の身体を深く抱きしめた。
「......!」
かつて仰ぎ見ていたはずの師の肩幅を、己の体躯はとうに追いぬいている。
「お前は私の大事な弟子だ。いつしか、我が子と変わらぬ愛をそそいでいた。さびしい思いをさせて、すまなかった」
布ごしに伝わる既望の体温と、背中を包む切実な震え。
だが、いつも漂わせていた清澄な沈丁花の香りは死に絶えていた。代わりに、玄海が好む高貴で不快な香水の人工的な甘さと汗の体臭が、既望の銀髪から容赦なく黎の鼻腔をつく。
皇帝の支配が、この男の全身を侵食している証拠だった。
「一緒に逃げよう。出雲を迎えに行き、また三人で暮らすのだ。長らく世を厭い、独りで生きてきた私にとって、お前たちは初めての家族なのだから」
黎の心臓が、跳ねあがる。
初めての家族──その言葉が脳裏で甘いひびきを帯びた瞬間、黎の頭脳は冷徹な戦術家としての凄惨な現実を弾き出した。
自分がここで職務を捨てて逃げれば、狂気に満ちた玄海は数十万の黒曜軍を解き放ち、灰霄も、出雲のいる精霊殿も灰燼に帰す。
己の手は、引き返せぬほどおびただしい血でまみれている。人を殺める技しか持たぬ己が今さら戻れば、出雲の純白の世界を殺戮の血で染めあげるだけにすぎない。
己と引き換えに、出雲と既望の平穏を守る。それが、修羅の道を歩んだ自分にできる唯一の道だ。
「……断る。お前は出雲の元へ帰れ。俺が庭で頭を冷やす間に出ていけ」
黎は既望のすらりとした腕を力まかせにふり解き、冷たく背を向けた。
恩師が姿を消すまでの時間、ひとりで身体を動かそうと、小雨の降る中庭へ続く露台へと歩みを進める。だめ押しのように、背後へ言い捨てる。
「俺は皇帝を父と仰ぎ、この地で頂点を極める。あんたたちの生ぬるい世界に戻る気はない」
「待て、烏丸! 出雲も、お前を信じて帰りを待っているのだ!」
黎の足が濡れた石畳に縫いつけられ、肺から絞り出すような呼吸が引きちぎられた。
出雲が、今も自分を信じて待っている。──五年もの歳月、一度たりとも聴きたくなかった真実だった。
彼女は既望と新たな時を重ね、自分など過去の残骸にすぎないと思っていると決めつけていた。そうでなければ、己はこの大将軍の地位も数十万の軍勢もすべて投げうち、今すぐ無事を確認しに、彼女の元へ飛んで行ってしまいそうだった。
「烏丸、ともに帰ろう。出雲の元へ……私にとっては、あの子も、お前も、等しく愛おしい我が子だ。私たちは家族だ。お前もその一人だと忘れるな」
説得を試みる既望の気配が、静かに背後へ近づく。
ふり返った視線の先にたたずむ恩師が、慈しみをこめてそっと手を伸ばし、黒髪を優しくなで下ろした。
鉄の規律で支配する玄海の冷酷で無骨な手とは異なる、どこまでもやわらかく包みこんでくる庇護。
幼い頃に自分を守っていた大きな掌は、いつの間にか己の手よりもずっと小さく、華奢な骨をさらしている。
それでもそそがれる変わらぬ温もりが、胸の奥底に封印していた記憶の澱を激しくゆさぶった。
少女の明るく澄んだ声音と、可憐な面影が脳裏に鮮烈によみがえり、黎は思わず両手で顔をおおった。
(……出雲。帰りたい。あいつの元へ。)
激しい郷愁が、胸の奥をえぐるように突きあげた。
出雲の手を強く引き、春の野山をどこまでも駆け回りたい。野うさぎを狩り、一番脂ののった肉を薪の火であぶって食べさせてやりたい。
残雪から顔をのぞかせる待雪草の花に目を輝かせ、腕に寄り添ってきた彼女。その顔立ちを、もう一度だけ、すぐ隣で見つめたいと心底から切望する。
だが同時に、黎の視線は己のつき出された両手へと落とされた。
十代の頃の脆弱さとは比べものにならないほど、分厚く硬くなった無骨な手指。爪の隙間には、いくら洗っても落ちきらない血のりが黒く変色してへばりついている。
彼女の隣へ戻れば、再び荒ぶる獣性を抑えこむ苦痛の日々に逆戻りするだけだ。己はすでに、この圧倒的な暴力で敵をなぎ払う悦びを知ってしまった。
「──いや、帰れない」
胸に浮かびかけた淡い未練を、自らの言葉で強引にたたき潰した。
血の臭いで錯乱する出雲は、この手を二度と握ってはくれまい。
胸をつく激痛とともに、冷たい夜風が吹きぬけ、黒衣の裾を荒々しくはためかせる。
甘えを抱いた者から死んでいく修羅場で、喜怒哀楽を凍らせて押し殺す術は、嫌というほどたたき込まれてきた。
背後から、既望の静かな声が追ってくる。
「烏丸。お前とて、あの子の側にいたいのではないのか」
「……俺より、あいつを幸せにできる奴は他にいる。俺はしょせん、あいつが嫌う暴力の中でしか呼吸できない化け物だ」
踵を返して去ろうとする黎の背へ、重く深い吐息が落ちた。
「お前は、若き日の私と恐ろしいほど重なる。己を化け物と決めつけ、あらかじめ距離を置くことで、もっとも大切な者から拒絶される恐怖から逃げているのだ」
心臓が跳ね、黎の足が固まった。
握りしめた拳の震えに合わせ、腰の鞘の中で鋼がカチリと乾いた音を立てる。
図星をつかれた苛立ちが腹の底からわきあがり、黎は鋭くふり返った。
「……家族のいたお前に、俺のなにが分かる! 俺には誰ひとりいなかった! 皇帝陛下だけだ……実の親にすら疎まれた俺を息子と呼び、半獣の力を評価して居場所をくれたのは!」
吐き捨てる黎を、既望の銀色の双眸が静かに見つめる。その奥底に宿るのは、氷のような冷徹さと深い悲愴だ。
「烏丸よ。親に放り出された悲劇に甘え、己を欺くな。誰もいないなどと……己を偽っている自覚はあるはずだ。お前にとって、出雲は『誰でもない者』なのか?」
「……っ!」
「本心から目をそらせば、残るのは取り返しのつかない悔恨だけだ。……人は脆い。失ってから泣き叫んでも、二度と命は戻らんぞ」
語りかける老成した声音には、過酷な年月を越えてきた者だけがもつ絶対的な重みが宿っていた。
黎は息を詰め、自己矛盾の前に言葉を失う。
自分に向けられる苛烈なさげすみと、おびえが出雲の瞳に映る瞬間。それを見るくらいなら、このまま二度と会わない方がはるかに良い。
遠い空の下で彼女がおだやかに生きているなら、それでいいはずだ。
胸を締めつける圧迫感。背を向けたあの日の劣等感が、雨の湿気とともに全身を苛む。
灰霄領を守るという大義名分を盾に、過酷な修練でみずからを痛めつけ、心の弱さから目を背け続けてきたゆがみが容赦なく暴かれていく。
黎は歯を喰いしばり、割れんばかりの力で柄を握りしめた。
口に出せぬ本音を冷徹に見透かしたまま、既望は静かに歩み寄り、黎の肩へそっと手を置いた。
「出雲の心がどこにあるかは、あの子にしか分からん。少なくとも私は、お前を化け物と思ったことなど一度もない。昔も、今もだ。……私はお前を失いたくない。いつか再び、家族として同じ屋根の下で暮らす日を決して諦めん」
「……勝手にしろ。俺は戻らない。俺の居場所は父上の膝下と、この帝国軍だけだ」
湧きたつ凶暴な冷気を身にまとい、黎は既望の手を払いのけて背を向けた。
降りしきる雨の闇へと消えていくその背影。
己のかたくなな選択が、やがて取り返しのつかない悲劇の火種になることを、この時の黎は想像すらできなかった。
<タイトル/慣用句>
雨夜の月 (あまよのつき):
雨雲に隠れてそこにあるのに見えない月のこと。転じて、存在していても目には見えないものや、想像するだけで実現しないことのたとえ。平安時代の和歌集などで、恋しく思っているのに会いたくても会えない不遇な状況を例える言葉。
影見えぬ 君はあまよの つきなれや 出でても人に 知られざりけり:
姿が見えないあなたは、まるで雨の夜の月のようだね。雲に隠れて姿を人に見せることがないのだから。『詞花和歌集』恋上・第207首
カラスとキツネ:
おだてに乗せられて大切なものを失う愚かさを描いた、有名なイソップ寓話「騙されたカラス」。この物語では、選択を誤る鴉の愚かさを表す。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n3d6141901a2f




