第21話 雲外蒼天の月有り ー出雲Sideー
狐の執念が帝国の歯車を大きく狂わせ、不吉な暗雲が急速に垂れこめ始めた頃。
出雲の医術師としての研鑽は、ひたすら愚直に続けられていた。
現場での泥臭い実践と、精霊院で重ねてきた孤独な独学。それらは今まで、紙の上に記された冷たい知識に過ぎなかった。
だが、その文字の連なりが突如として生々しい血肉をともない、目の前で猛烈な牙をむく瞬間が訪れる。
*
一日の診療受付を終え、出雲が重い木製の看板を下ろそうとした夕暮れ時。
静寂を切り裂く切迫した叫びが、路地にひびき渡った。
「先生! 頼む、息子を助けてくれ……!」
悲痛な叫び声とともに、一人の若い男が血まみれの状態で診察室へ担ぎこまれてきた。
出雲は喉まで出かかった悲鳴を、必死で噛み殺す。
強盗に襲われた妹をかばい、若者の右腕は手首から先が鋭利な刃物で完全に切り落とされていた。
断面から、どくどくと黒い血が間欠泉のようにふき出し、診療所の真っ白な床板を墨のように染めあげていく。
鼻をつく、強烈な血の臭い。
その瞬間、出雲の脳裏に、幼い頃に目撃した戦場のむごたらしい殺戮風景が鮮烈によみがえった。
息がつまり、呼吸が止まる。激しいめまいに膝の力がぬけ、冷たい壁に背中が激しくぶつかった。
だが、小さな錯乱すら置き去りにするように、素鵞の鋭い怒号が飛ぶ。
「切断された腕はあるか!」
「こ、これです! 布に包んで……!」
「よくやった! 切断面が潰れていない、これならつながるかもしれない!」
素鵞が迅速な指示を飛ばし、娘たちが止血帯と煮沸した銀の器具を抱えて走りまわる。
冷たい治療台の上に寝かされた若者は、すでに血の気を失い、白目をむきかけていた。
恐怖で震えあがる出雲の脳裏に、不意に、泥と血にまみれた烏丸の姿が重なってよみがえる。
──もし、ここで死にかけているのが烏丸だったら。
彼はきっとどんなに痛くても助けを求めない。
「大した傷じゃない」と不器用な笑みを浮かべ、誰もいない暗がりでひとりきりで息絶えていくのだ。
(駄目だ……そんなの駄目だ! 私がこの手で治さなきゃ……私が、誰の命も奪わせずに癒せる術師にならなきゃ!)
「出雲さん! 器具を消毒し続けられるよう、大がまの火を絶やさないで!」
「はいっ!」
娘の鋭い叱咤に、出雲の思考の殻が破けた。
恐怖で鉛のように重くなった太ももを両手で力一杯にたたきつけ、己の弱さを無理やりねじ伏せる。
大がまの湯を沸かせて治療台へと戻ると、素鵞の額からは滝のような汗が流れていた。
「駄目だ、動脈の傷が深すぎる……! 止血帯だけでは血が止まらん!」
このままでは数分で命がこぼれ落ちる。
若者の顔色はすでに土気色に変わり、呼吸が浅くなっている。
出雲の頭の中で、必死で詰めこんできた医学の知識と、独自に応用すべく練りあげていた霊術の術式が、火花を散らすように奇跡的な結びつきを見せた。
「患部の上の経路を圧迫して、内側から血管だけを締めあげればいいんですね!?」
悲鳴のような出雲の声に、素鵞が血走った目でふり向く。
「私の拘束霊術を、使わせてください!」
「霊術だと? ……患部の血流だけを、局所的に縛れるのか?」
「やります!」
いぶかしがる視線をふり切り、いっさいの迷いを捨て、出雲は素鵞たちの間に割って入った。
黒い血がまだしたたる上腕部に、震えの止まった両手を真っ直ぐにかざす。
傷ついた大切な存在を護るため、野山で孤独に磨きあげていた光の術式。
『縮縛結界』
清澄な詠唱とともに、出雲の掌からまばゆい銀色の光の粒子があふれ出す。
光は精緻な網目状の結界を瞬時に形成し、若者の腕の指定された極小のポイントだけを、強靭な力で締めあげた。
動脈の太さと血の奔流を計算し、周囲の肉組織を傷つけない絶妙な力加減で空間ごと拘束する。
直後、診療所の床をたたいていたおびただしい出血が、ピタリと止まった。
「……なにっ、見事だ! 今のうちに神経と血管の縫合に入る!」
素鵞の熟練の技がうなりを上げた。
切断された手首が不気味な錬成陣の描かれた黒い石板の上に置かれ、若者の腕の断面と寸分の狂いもなく密着させられる。
素鵞が呪を帯びた銀針で素早く要所を縫い合わせると、石板の陣がまがまがしい黒紫色の光を放つ。
完全に切り離されていたはずの筋肉と血管が、目に見える速度で繊維同士をからませ合い、融合していった。
出雲は息を止めて、大勢救ってきたであろう完成された医術を見つめていた。
「出雲さん、結界を解いてくれ。血流を確認する」
「はい!」
処置が終わり、出雲が結界を消し去っても、もう若者の腕から血がふき出すことはない。
静まりかえった診療所の室内に、トクン、トクンという確かな脈拍が力強く戻ってきた。
意識を取り戻した若者が、つながった自分の指先がわずかに動くのを見て、ボロボロと涙をこぼした。
神経の完全な回復は約束できないと告げられても、父親は床にくずれ落ちて号泣しながら、素鵞たちを拝み倒していた。
*
処置後、体を休ませ起き上がれるようになた若者が、父親に肩を借り、戸口から帰っていく間際。
血の気の戻った若者は、壁際に立つ出雲をふり返って真っ直ぐに言った。
「あんたの、その光のおかげだ。本当に助けてくれて、ありがとうな」
少しぶっきらぼうで、照れくさそうなその口調が、たまらなく烏丸に似ていた。
出雲の白い服の袖は、べっとりと黒い血で汚れている。鼻腔の奥にはサビのにおいがこびりついているが、もう出雲の足は少しもひるんでいない。
師匠である既望が授けてくれた教え。己の身を自分で守り、烏丸が好きな獣肉を野山で捕まえられるようになりたくて磨いていた拘束の霊術。
それが今、目の前の命をつなぎ止めるための、尊い「止血の医術」へと昇華されたのだ。
雲を突き抜けた先にある青空。暗雲の彼方にただ一すじ輝く、さえ渡る月のように。
(これまでの悪あがきは……全部、無駄じゃなかったんだ)
診療所の開け放たれた窓の外では、深い夕闇が静かに聖域を包みこもうとしている。
出雲は胸を満たす熱い感慨をしっかりと抱きしめたまま、自身の進むべき明確な道を、力強い一歩をふみ出して進み始めていた。
<タイトル/慣用句>
雲外蒼天:
雲を突き抜けた先には青空が広がっている様子。苦難を乗り越えたら明るい未来があるという意味。
唯だ碧天雲外の月有り (ただへきてんうんがいのつきあり):
詩人・李白の漢詩。雲一つない青空の高いところに、ぽっかりと美しい月が冴え渡って輝いている情景。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n7effc72d45d2




