第20話 羞花閉月の赫き狐媚
八光丘の精霊殿で、待雪草が六度目の春を待望し続ける頃。
黒曜帝国の帝都にそびえる豪奢な将軍室。黎は、重厚な黒革の長椅子に深く身を沈めていた。
卓の上には、皇帝・玄海から下賜された金貨の山が無造作に積まれ、鈍い光を放っている。
部屋の隅には、皇帝の寝所へ通ずる思惑を秘めた女たちが焚き染めた、むせ返る甘い香がまだこびりついていた。
黎は不快感に眉をひそめ、鼻先をおおう。
金貨など使う暇はない。打算で近づく女たちは、半獣の鋭い眼光で威嚇すれば悲鳴をあげて逃げていく。
だが、皇帝の不興を買うわけにはいかず、恩賞を建前とした退屈な宴席に顔を出す義務だけは果たさねばならなかった。
大将軍の地位。それは、数十万という軍勢の頂点。
黒曜の軍法は、討ち取った敵将の首の数で階級が決まる完全な実力主義だ。
半獣特有の夜目と、闇にまぎれて鴉へ転異する隠密性。
上空から音もなく舞い降り、敵将の喉笛をかき切る黎は、帝国にとって絶対的な死神だった。
黎が求めたのは、物質的な見返りではない。父への忠誠と、軍の進攻権を自らの手で握り続けることだけだ。
*
部屋の壁に広げられた大陸地図。その大半が、すでに黒曜の象徴である漆黒の旗で埋めつくされている。
世界全土が黒曜帝国の巨大な掌の上で、おびただしい血を流しながらもてあそばれていた。
黎は地図前で腕を組み、目線でなぞった。
戦術を自己批評せんと、軽く首を回し、これまでの指揮をふり返る。
大将軍の決定打となったのは、西部の紫耀領の中央制圧だった。
紫兵たちが繰り出す高速の紫光の陣に対し、黒曜軍は紫耀領の傭兵を最前線に立たせ、敵の術を強制的に消耗させた。
黎は、情を殺して同族討ちさせる冷徹な采配をふるった。
占領地での小競り合いが増えるという、玄海の先見通り。休む間もなく、すでに下した南方の紅灼領で起きた大反乱。
そこでは、玄海の厳命により見せしめの非情な制裁をふるわねばならなかった。
黎は捕虜となっていた味方の大軍を囮にして単独で空を飛び、背後から敵の頭領を直接狙撃した。
敵の陣形がくずれた瞬間、黒曜兵が放つ『磁場圧』の錬丹術を発動。大気そのものが重力でゆがみ、目に見えない質量の塊が上空から降りそそぐ猛攻。
悲鳴をあげる間もなく、紅灼の術者たちは一瞬で肉片となり、地面の染みへと変わっていった。
味方の犠牲を最小限に抑え、もっとも早く戦を終わらせる。
その極端な効率主義により、大陸の南北と東部は完全に黒曜の軍門に下った。
現在は、帝国軍の首輪をつけた紫耀領の傭兵たちにより、我らに抵抗する残党狩りが進んでいる。
四つの領土の軍勢が繰り出すのは、しょせん物理法則の延長に過ぎない。
だが、大陸最西端の海沿いに広がる灰霄領だけは異質だ。彼らは大気そのものをねじ曲げ、事象を改変する『霊術』を操る。
真っ向からぶつかれば、双方に甚大な被害が出る。
無駄な血を流さぬため、黎はひそかに灰霄の領長へ使者を送り、無血開城の約定を取りつけていた。
*
「……黎将軍。ご報告に上がりました」
ひかえめな入室の合図とともに、副官が執務室へ入ってくる。その表情は硬くこわばっていた。
「なんだ」
「灰霄領の件です。陛下が『霊術師たちを神官として帝都へ徴用する』という名目で、彼らの家族を拘束し始めました。徴用をこばめば、見せしめに処刑せよとの勅命が下っております」
黎の手の中で、陶器の杯が不吉な悲鳴をあげてひび割れた。
鋭い破片が皮膚に食いこみ、冷や汗が掌を伝う。
『世界の法則をゆがめる灰霄の民は、月守の忌まわしき落とし子に違いない』
過日、玄海が言い捨てた冷酷な言葉が脳裏によみがえる。
霊術の脅威を恐れ、力を分散させるための陰湿な人質劇。
表向きは慈悲深い保護をよそおいながら、裏では確実に首を絞める毒牙をむいていたのだ。
「……そうか。下がれ」
短く応じ、踵を返した副官の背に低く告げる。
「……念のため、強硬派の残党がまぎれていないか確かめる。人質として集められた霊術師の名簿と素性を至急手配しろ」
出雲と既望が捕らわれていないか、確認せずにはいられない。
とっさについた方便だったが、副官は深々と礼をして立ち去った。
一人になった執務室で、黎はひび割れた杯を卓へたたきつけた。
どこまでも鋭利で隙のない皇帝の支配術。
前線でどれほどの武功をあげようと、政治の盤上において己は玄海の指先で動かされる駒に過ぎない。
己のふがいなさと未熟さが、胸の奥を激しく焦がす。
(全軍を送りこまれ、領土ごと焼き払われるよりは、はるかにマシだ。既望がいれば、易々と捕まるような不覚は取らん。)
解っていても、胸の底でうずまく焦燥は消えない。
黎の思考を占領するのは、遠く離れた地で生きる一人の女の安全だ。
血であがなわれたこの豪奢な私室も、大将軍という絶対的な武力も。出雲一人を護れなければ、すべては無価値な塵芥と変わらない。
開け放たれた窓から差しこむ夜風に吹かれ、黎は西の空を鋭くにらみつけた。
卓越した霊術使いである既望が側にいれば、出雲を絶対に守り切れる。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
一方で、己もまた玄海から妃や側室を迎えるよう命じられるたび、かたくなに固辞し続けてきた。
皮膚と記憶に刻まれた出雲の温もりが、他の誰かと血を交わす行為を激しく拒絶する。
(あいつとて、すでに親となっていてもおかしくない歳だ。温かい家庭を築き、静かに暮らしているはずだ。二度とその平穏を壊させるわけにはいかん。)
胸中によぎる劣等感と暗い諦観から目をそらし、使命感でぬりつぶす。
灰霄の霊術師を集めてどう使役するつもりなのか、玄海へ問う必要があった。
早急に謁見したいが、すでにひと月近くも顔を合わせていない。
黎は皇帝の所在を確かめるべく、宮中の奥へと足を運んだ。
ひとりの新しい側近が皇帝に仕え始めた日から、黒曜の強固な歯車が異常な音を立ててきしみ始めていた。
*
皇帝が、ひと月近くも政務を放棄し、閨から出てこない。
帝国軍に在歴の長い者でさえ、ここ十数年、皇帝にそんなことはなかったという。
全土統一を直前に、気がゆるんだか。あるいは、老いによる色情狂いか。
腕を見込まれた麗しき霊術師の術中にはまり、たぶらかされている──そんな不吉なうわさが宮中を駆けめぐっていた。
「黎大将軍。お耳に入れたい儀がございます」
奥深くへ続く薄暗い回廊を進む黎の元へ、ひそかに足を運んできたのは黒髭の緇条だった。世代交代として自ら大将軍の座を降り、皇帝の御親兵長となった男だ。
実際は、黎が大将軍職を拝命するのに代わり、玄海により勅命があったと知っている。
「陛下が新参の側近に溺れ、軍議にすら顔を出されぬ。黎大将軍から、どうかお諫め願えないか」
「だが、房事の最中へふみこめば、不敬罪で首が飛ぶ」
「陛下は大将軍を実の息子として寵愛しておられる。命までは取るまい。怪しき『傾国』に惑わされる陛下の御身を、臣下一同が案じているとお伝えいただきたい」
緇条の不穏な口ぶりに、黎は不快感を隠さず眉をひそめた。
「傾国……? いったい何者だ」
「赫夜と名乗る絶世の美貌で、陛下は他の男の目に触れさせることすら激しく拒絶されている。高度な霊術の手練れゆえ、たとえ呪詛を吐かれても、貴殿のように元が忌まわしい血筋ならば影響も少なかろう」
語尾ににじむ半獣への陰湿な侮蔑。黎はその視線を冷ややかに黙殺し、応対を切りあげた。
*
長々とした階段と踊り場には軍靴の音がひびいた。幾重にも連なる厳重な警護を抜け、城の最上階へと登り詰める。
回廊の最奥にある奥宮の御寝所。
その重厚な扉を開くと、重苦しい緊張感が肌にのしかかった。
無言のまま玄海の寝所へと歩を進め、絢爛たる朱塗りの御簾の奥へ足をふみ入れる。
視界をさえぎる極彩色の薄絹。濃厚な白檀の重苦しい甘さに混じり、かすかに沈丁花の香りが鼻腔を突いた。
呼吸がつまり、黎の足が床の上に縫いつけられる。
薄絹の向こう側にたたずむのは、月光をつむぎ出した不可思議な銀糸の長髪を豪奢な簪で束ね、唇に薄く紅を引いた人物───皇帝の側近『赫夜』。
伏せられた長いまつ毛の奥。銀色の双眸が、氷の刃を隠した冷ややかさで、絶対的な優位性をもって皇帝を見下ろしていた。
黎の喉がひゅっと鳴り、心臓が氷の手でわしづかみにされる。
毒を帯びた美貌への感嘆ではない。
その骨格、色彩、静謐な気配。黎の魂の根幹に焼きついた存在そのものだ。
(……既望。なぜ、お前がここにいる)
山奥の荒屋で、出雲と共に不器用な優しさをくれた庇護者の面影。
それが今、赫色に漆黒と黄金の刺繍がはう毒々しい絹衣をまとい、霊術の幻惑を陽炎のように立ちのぼらせながら、皇帝の太い首に白い腕をからませている。
既望は表情の筋肉をみじんも動かさず、黎を視界の端にとどめただけで、すぐさま視線をはずした。
「黎。俺の寝所にまでふみこむとは、どういう了見だ」
玄海の不機嫌な声音が空気を震わす。黎は即座に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「ご無礼をお許しください。陛下が数日も政務を離れておられる事実を、臣下たちが不安視しております。ご様子をうかがいに参りました」
「俺が暇を取ってなにが問題だ。俺の不在など、お前たち高官で政務をまわせばすむ話だ」
「は。政務は文官に、軍議は私が精一杯、代理を務めさせていただきます」
黎は胃の腑が裏返るほどの動揺を死に物狂いで押し殺し、皇帝の言葉をいっさい否定せず短く応じる。
「……陛下。臣下たちは、陛下なしで国を動かす術をご存知ないご様子。雛鳥の親の気分で、少しばかり導いてさしあげては」
静寂を破ったのは、赫夜──既望の声だった。
艶やかで、鼓膜に甘くまとわりつく魅惑のひびき。黎の知る、あの飾り気のない師の声音とは完全に別人だ。
霊術による声帯の操作か、精神をからめ取る呪詛か。
「赫夜がそう言うのであれば仕方ない。どれ、雛が独り立ちできるよう手引きしてやるか」
玄海が立ちあがると、既望が流れるような所作で黒い上衣を羽織らせる。皇帝はその無防備な背中を完全にあずけきっていた。
黎の胸中を、めまいをともなう焦燥とどす黒い怒りが駆けぬける。
(既望。お前がここにいて、出雲はどうした……無事なのか……?)
襟首をつかんで怒鳴り散らしたい衝動を血の味とともに飲みこみ、腹の底へ沈めこむ。
出雲を奪われたあの日の無力感。
今度は、自分を見出してくれた皇帝からの絶対的な信頼すら、この男は奪いに来たのか。
出雲を捨て、権力の中枢にもぐりこむため、霊術の幻惑を用いてまで自らを『側室』へと作り変えたのか。それとも、この男の底知れぬ頭脳には別の恐るべき企みがうずまいているのか。
(今さら俺の領域にふみこんで、どういうつもりだ……!)
既望の圧倒的な知と冷静な賢さを知るからこそ、その艶やかな変貌ぶりに、底知れない狂気と打算の糸が透けて見える。
皇帝は、既望の放つ霊術の幻惑と、決して完全には支配されない気丈さに完全に魅了され、狂的な執着の虜となっていた。
黒曜帝国の絶対的な支配者は、すでにこの銀髪の霊術師の真っ白な掌の上で、滑稽に踊らされているに過ぎなかった。
<タイトル/慣用句>
羞花閉月:
花も恥じらうほどのあまりの美しさで、月も隠れてしまうほどの女性のたとえ。
赫き:
鮮やかに赤く燃えるさま。血や炎、あるいは妖しく光る紅の気配。
狐媚:
狐のように人を惑わす、妖艶で魅惑的な色気やふるまい。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n271de20a6871




