第19話 凌雲は日進月歩 ー出雲Sideー
古紙のすれる音だけが、静寂な図書室にひびく。
卓上には、人体構造学、基礎化学、そして本草学の分厚い専門書が塔のように積まれていた。
出雲は、周囲の蝋燭の火が一つ消えたことにも気づかず、書物の文字を目で追っている。
戦乱の世を野山で生き抜いてきた少女の中に、これほど特出した学問の才が眠っていたことに、当人ですら気づいていなかった。
未知の科学領域に入っても、出雲の瞳はからまった糸を解くようにのみこんでいく。
骨格と血管の図解を頭にたたき込み、不明な薬効があれば基礎の目録へ戻る。
その反復が、驚異的な速度で行われていた。
「出雲。そんなに本を山積みにして、なにを流し見ているのだ?」
怪訝そうな顔をした先輩の神官が声をかけてくる。尋常ではない速さでページをめくる出雲の姿は、とても熟読しているようには見えなかったのだ。
問いかけられた出雲が、開いていた薬学書の要約と、複数の薬草を調合した際の化学反応を理路整然と説明して聞かせると、神官たちは目を丸くして絶句した。
知識の器が満たされていくと、強烈な渇望がわきあがる。
(机上の空論で終わらせるわけにはいかない......。)
出雲はすぐさま神官長の稲佐に直訴し、医術の実践機会を与えてほしいと頼みこんだ。
はじめは神官の役割を逸脱するとしぶった稲佐だったが、月守の勅許を得て、精霊殿になじみの深い街医者に白羽の矢を立ててくれた。
八光丘から徒歩で下れる距離にある、小さな診療所。
そこの老医術師が快諾したと知らされた時、出雲は胸の高鳴りを必死で抑え、月守と稲佐に深く頭を下げた。
*
数日後。霊術で髪と瞳を黒色に擬態した出雲は、古参の神官にともなわれ、その診療所の門をたたいた。
奥から現れたのは、深いしわに知性を刻んだ黒曜民の老女、素鵞だった。彼女は鼻骨にのった老眼鏡の一山を、指でくいっと押し上げる。
「ようこそおいでくださった、出雲さん。事情は書状で読んでいる。私と二人の娘で、この診療所を営んでいてね」
「研修のお許しをいただき、ありがとうございます。ですが、今の私には書物で得た知識しかありません。無償でかまいませんので、実践の経験を積ませていただきたいのです」
緊張で肩を張る出雲を見て、素鵞は目尻のしわを優しく深めた。
「ああ、分かっているとも。突然患者の腹を切らせたりはしない。まずは娘たちの側で、処置の基本を観察してもらう。……それと、出雲さん。灰霄の領民というのは真実かい?」
出雲は無言でうなずき、診療所に自分たち以外がいないことを確認してから、そっと霊術の擬態を解いた。
美しい銀灰色の髪と瞳が、窓からの光を反射する。
素顔をさらすことへの恐怖で喉が鳴ったが、素鵞はみじんも驚くことなく、静かにその色彩を見つめていた。
「なるほど……。昔、手負いの逃亡者を秘密裏に治療し、精霊殿へかくまってもらったことがある。その子も灰霄の民だったよ。まだ十代前半の、かわいそうな子でね」
素鵞の言葉に、精霊殿で祈りを捧げる先輩神官たちの顔がよぎる。
激しい拷問の末に声を失った者もいた。
あの中に、素鵞に命を救われた同胞がいるのだ。
出雲が胸をなで下ろした直後、素鵞の顔からふっと温もりが消え、凄みのある医療者の顔へと変わる。
「ここでは、黒髪以外の患者も助手も受け入れていない。身内や他の患者に怪しまれれば、密告されて処刑される危険がある。患者の前では頭巾をかぶり、絶対にその色を隠し通しておくれ。約束できるかい?」
「はい、固くお約束します。……ですが素鵞様は、なぜそこまでの危険をおかして私に協力してくださるのですか?」
出雲の真っ直ぐな問いに、素鵞は再び表情をゆるめた。
「私にも、人には言えぬ隠し事があるのさ。二人の娘は、身寄りのない孤児を養子にしたものだ」
「それは……聞かない方が良いことですか」
「灰霄の民は寛容だと聞く。娘たちも知っているし、出雲さんには伝えておこう」
言うが早いか、素鵞は結い上げていた髪を解き、片腕の袖をまくり上げた。
次の瞬間、年老いた皮膚の下から墨汁のような漆黒の羽毛が勢いよく突きだす。首周りが黒羽におおわれたかと思うと、骨格が異音を立てて変形し、首が長くしなやかに伸長した。
現れたのは、人の身の丈ほどある異容にして優美な黒鳥の姿だった。
鴉の半獣である烏丸の変異を見なれていた出雲は、悲鳴をあげる代わりに、その漆黒の羽の艶を興味深く見つめた。
「おや。腰を抜かさないとは大した胆力だね。半獣を見るのは初めてじゃないと見える」
「はい。以前、鴉と狐の半獣の方々と一緒に暮らしていましたから」
出雲が率直に答えると、素鵞は短く喉を鳴らして笑い、スルスルと人の姿へ戻っていった。長い黒髪を結いながら語る。
「私の正体を見て恐れなかったのは、娘たちと灰霄の者だけだよ。半獣がまともな職についていると知れれば、むち打ちののち斬首され、鳥の餌として城壁にさらされる。それが古来からこの領に生まれた宿命さ」
「本当に、そんなに厳しいのですか……」
出雲の胸が痛んだ。
烏丸が言葉少なに語っていた、黒曜領における半獣の絶望的な生きづらさ。その現実の重みを、ここへ来て初めて肌で感じたのだ。
「この領の半獣は、髪や肌が獣の体毛の色をしているから隠しきれない。黒鳥の私も、出雲さんの鴉のご家族も、たまたま『黒色』だったから人間の社会にまぎれられただけの話さ」
自身の黒髪を指ですく素鵞の仕草に、烏丸の顔が重なる。
敵領である灰霄へは行けないと、彼が静かに別れを告げたあの日の光景。
───烏丸の心に巣食う恐怖を、自分はどこか軽く考えていなかったか。
出雲は無意識に拳を強く握りしめた。
「私はそちらの血統を内緒にする。お前さんは私の正体を内緒にする。これで余計な腹のさぐり合いはなしだ。さあ、忙しくなるよ」
素鵞の竹を割ったような真摯さが、出雲のこわばった心をときほぐした。
その日から、出雲の助手の見習いとしての過酷な研修が始まった。
*
街の小さな診療所には、あらゆる患者が流れこんでくる。
ある日、退役した元兵士が、木製の杖をついて診察室へ入ってきた。
片脚を膝下から失っており、いかつい顔には不安と痛みの色が濃く浮かんでいる。
出雲は頭部を白い三角巾で厳重におおい、目元を隠して壁際にひかえていた。
素鵞が老眼鏡をはずすと、彼女の漆黒の双眸があわく黒光りし始める。特殊な視覚で患者の体内の血流や気脈を透視しているのだ。
幻肢痛と血の滞りを見出した素鵞は、的確に処方を告げた。
出雲は薬師の娘の後を追い、調薬室へ入る。
娘がすり鉢に薬草を放りこみ、乳棒ですり始める。すり鉢の縁には、微細な錬成陣が刻印されていた。
液体を数滴たらした瞬間、陣が不気味な黒紫色の燐光を放つ。
器具自体が触媒である導器となっており、術者の生まれ持つ「魄命力」をもちいて薬効成分を強制的に抽出・合成しているのだ。
すり鉢の中の液体が瞬時に沸騰して蒸発し、コロンと丸い錠剤が完成する。
娘はそれを薬紙に包み、待合室の元兵士へ手渡した。
「痛みがひどいときに飲んでください。少し楽になりますから」
こわもての兵士は、片手で薬を受け取ると、大きな体を丸めて何度も深く頭を下げた。その顔からは先ほどの不安が消えさり、安堵の笑みがこぼれていた。
(あんなに屈強な人が、ほほえんでいる。医術って、錬丹術って……こんな風に人を救えるんだ)
武力では救えない命を、癒す力がつないでいく。
出雲は自分の選択が間違っていなかったと確信した。
*
それからの出雲の探求心は、凄まじいものがあった。
診療所にいない時間は精霊殿の自室にこもり、医療現場で応用できる霊術の術式を独自に組みなおす。
自室には明け方まで月守の霊魂を救う音色がたゆたう。その調べは、己がなぜ医術を習得するのか毎晩思い出させてくれる。
それをひとつの道しるべにして、深夜まで人体図とにらみ合い、睡眠をけずって知識をむさぼった。
<タイトル/慣用句>
凌雲:
雲を凌ぐほど、高くそびえること。または、高い志を持つこと(凌雲之志)。
日進月歩:
日ごと、月ごと絶え間なく急速に進歩すること。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/ne46ac0fe91f0




